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「赤沼村の鋳物師」遠藤金兵衛  小野赤沼村金屋



 「赤沼村の鋳物師」遠藤金兵衛  小野赤沼村金屋

調査の結果、 遠藤家先祖で最初の記録に名を表したのが、元禄時代の遠藤金兵衛と遠藤善兵衛の父子である。 金兵衛の父、祖父等の先祖については全く不明である。

赤沼遠藤家の口伝によると「奈良の寺に先祖の鐘が在った」 、または「先祖が奈良大仏修理に参加していた」 の話が伝わっていると云います。

歴史的にみれば、奈良の東大寺及び大仏さま、正式なお名前は盧舎那仏(るしゃなぶつ)は、創建以来何度も戦火のため被災しています。


最後の被災は、戦国時代の永禄10年 ( 1567年) 、三好三人衆と松永久秀の戦い (三好・松永の乱) で東大寺が全焼「永禄の兵火」して、奈良の大仏様も頭と首が溶けて無くなったと記録されています。

二回目の復元修復は、罹災から約90年後の貞享元年(1684年)から、三輪僧公慶が大仏の修理のために勧進を、大仏の功徳を説き、民衆の信仰心をつかみ、多額の喜捨を集めて大仏修理の費用を確保しました。

元禄4年(1691年)から、鋳物師広瀬弥右衛門国重らを中心して、5年の歳月を要してやっと3度目の大仏が完成し、翌年3月8日~4月8日まで盛大に開眼供養が行われた記録にはあります。

遠藤氏はこの事業に参加した一派と考えられます。

遠藤氏の先祖がこの大仏修理に鋳物師の一人として参加したと伝わっています。


尚、大仏様は、江戸中期の元禄4年(1691年)に修復を終え、大仏殿は創建当時の4/3程度の規模で宝永6年(1709年)に再建が完成しています。

理由は不明とされていますが、この大仏修理を終えたころに鋳物師遠藤氏の一族は、当時白河藩十五万石の領地であった小野保仁井町の赤沼へ移住して小野保、三春領の田村庄をはじめいわき・須賀川当のお寺の梵鐘や半鐘を精力的に制作しています。

その高い技術力は大仏修理の鋳物師のなせる業で、赤沼金屋の鋳物師として現代風に言えば「ブランド」として引く手あまたの受注があったと想像されます。

惜しくもその作品の9割は先の大戦で供出され現存していませんが。供出を免れた半鐘等からもその技術力の高さを垣間見ることが出来ます。


「赤沼村の鋳物師」 遠藤貴美著 参照



奈良東大寺の大仏さまは、2回焼失しています。

一度目は、1180年の源平合戦。

平重衡(たいらのしげひら)が放った火が、大仏殿にも燃え移り焼け落ちてしまいました。

この時は、「俊乗坊・重源」(しゅんじょうぼう・ちょうげん)と言う僧侶が寄付を集め、5年後に東大寺大仏・大仏殿は立て直されました。

2度目は、1567年の戦国時代。

松平久秀の兵火により大仏殿と大仏さまが焼失してしまいます。

「永禄の兵火」

その後、大仏さまは首がない状態のままで10年以上、雨ざらしで放置されていたと伝えられています。

そして、1691年に公慶上人によって大仏さまは修復されました。

奈良東大寺の大仏さまは、長い年月の間に幾度となく、焼失や補修をされています。

頭部は江戸時代。

体部の大半は、鎌倉時代の補修ですが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などは、建立当時である天平時代ままの部分も残っています。

台座の蓮の花弁に線刻されている華厳経の世界観を表す画像も、天平時代のもので大変貴重です。



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| ryuichi | 03:54 | comments (x) | trackback (x) | 田村庄六十六郷 |