2010-02-05 Fri
<中町鎮守旧愛宕大権現>
戦国末期の慶長十八年(1613年)、時の三春城主、会津城主蒲生氏郷の三春城代蒲生郷治は、三春鎮護と火伏せ当を祈念して、京都嵯峨野にある総社の阿多古神社から火の神様とされる「迦具槌命」と戦勝の神「将軍地蔵尊」を分霊して、京に習い三春城から西方の現在地に愛宕山地蔵堂「愛宕堂」を建立して祀りました。
それ以後、愛宕堂は塔頭である庚申や西福寺・大光寺には代々法印が居住してご祭神を守護してきました。
中町鎮守になった時の勝軍地蔵尊像は、新町の真照寺に納められましたが、勧請の時とみられる勝軍地蔵尊の小像が現愛宕神社に残されています。
秋田家祈願寺真照寺建立の際に仏像を仮安置した聖地とされている場所ですが、天狗谷の地名から愛宕権現太郎坊が連想され、勝軍地蔵が祀られて武士層の信仰が集めていたと考えられます。
本殿は、神仏習合の名残から奥の院と称され、勧請時のご本尊「愛宕将軍地蔵」が納められています。
秘仏とされ二重の桐の木箱に納められていますが、箱書きには「愛宕山 本地秘仏 国家安穏 将軍地蔵尊」と記されてあり、古来より「将軍地蔵尊」を念ずれば競争に打ち勝ち、或は貧虚から免ぜられるといわれ、三春城下の人々の信仰を集めてきました。
明治維新後には、この勝軍地蔵尊像は、新町の真照寺に納められましたが、勧請の時とみられる勝軍地蔵尊の小像が現愛宕神社に残されています。
愛宕社(現愛宕神社)別当西福寺跡
愛宕神社から一段下の南東面に位置する平場に堂字がありました。
宗派は真言宗、 愛宕社の別当寺院であったと言われていますので、愛宕社成立と共に建立されたと思われます。
江戸時代後期に無住寺となりました。近年まで山裾には墓地が残っていましたが、現在は
本堂も墓地も残されておらず、「西福寺第三」の銘がある地蔵一体が残るのみです。
また、旧墓地の土手の斜面に石仏の残欠が残っていたとも伝わっています。
六地蔵があったことが推定されますが、廃仏毀釈や急傾斜地の整備と共に姿を消しました。
天狗谷と呼んでいますが、三春城下清水の天澤寺参道西側の地区を”天狗谷”とよんでいますが、正式な地名ではありません。
元々修験の行者が管理する愛宕将軍地蔵尊を祀ったお堂があった場所とされています。
約350年前、江戸期の三春城主秋田家が宍戸より三春へ移封の際に、愛宕地蔵堂を城下中町へ移築し、秋田より移設した古四王堂(後に真照寺境内へ移築)の御借屋があった場所でした。
コメント
コメントする
TOP PAGE △