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「時空を超えた・伊勢神宮代参日記」 KFB福島放送「シェア」ふるさとリポーター 三春担当 三春昭進堂 髙橋龍一 


 
「時空を超えた・伊勢神宮代参日記」

KFB福島放送「シェア」ふるさとリポーター 三春担当 三春昭進堂 髙橋龍一 







1、 三春城下荒町 三春藩主秋田氏菩提寺「高乾院」
挨拶・髙橋龍一、深谷悠大 三春城下で一番早く開花する紅枝垂れ桜






2、伊勢神宮  内宮 宇治橋前 二見ヶ浦 夫婦岩 ・外宮・・・・バックの映像






3、 江戸時代の三春藩士 絵師でもある中村寛亭による代参日記「伊勢代参記」

 三春藩士 寬亭は、本名を中村匡(ただし)
文政3年(1820)、御小姓役で家中勤めに入りますが、文政12年(1829)、藩主の命により、絵師荒木寬快に師事し絵の修業に入り、三年後には寛快より「寬亭」の号を許されています。





三春藩領在郷・東郷(三春藩領在郷・東、西、中、南郷に分かれている)代官から始まり、四十五才で町奉行及び宗門奉行、起発奉行を務め、五十四才で三春町町奉行を拝命しています。


時に幕末、三春藩も激動の渦に巻き尾まれます。
三春藩鉄砲物頭(鉄砲組組頭)から外交を担う三春藩外事掛へ転じて諸藩との応接折衝やとなりこの激動動乱の時期を乗り越えました。







4、 伊勢神宮の参拝後のお楽しみ!おかげ横丁とおはらい町で食べ歩き 赤福付近 MC









5、秋田實季(あきたさねすえ)墓所「石城山永松寺」という古刹の宇内(境内)にある實季公の墓所は時が止まったかのようにひっそりと佇んでいます。








朝熊には側室の片山氏とその娘である千世姫が同行しています。

また、江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田教方萬金丹」(現・萬金丹)は、實季公直伝によると伝えられています。






幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。

「我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓






尚、現在、永松寺の本堂は新築の為工事中です。


5、 三春へ帰ってきて、三春城下三春藩主秋田家菩提寺「高乾院」にある秋田家累代墓所の墓前に實季公の墓参の報告

三春城下安日山高乾院 尚、實季公の戒名院号が「高乾院」です。

龍一・深谷悠大コメント  シェア!







神宮から車で10分、伊勢神宮神田近くの朝熊(あさま)という集落に三春初代藩主秋田河内守俊季公の実父である秋田城介・安東秋田實季公(あんどうあきたさねすえ)(通称下国安東太郎)が幽閉された草庵跡と墓所があることをご存じでしたか?

この安東秋田實季公は、かつては「日之本将軍」と称した安東水軍の統帥で、正室“円光院”の父は、室町幕府管領家の吉兆細川氏の当主昭元、そして、母は織田信長の妹“お犬の方(お市の方の妹)”です。
即ち豊臣秀吉正室“淀君(茶々)”や徳川二代将軍秀忠正室“崇源院(お江)”と従姉妹という関係になります。





※永松院什物、実季公御作之硯箱、御納之天国之[太刀?]

御筆御歌之懸物、三十六歌撰之御筆画像屏風、[其?]外

御紋付御膳椀尤雁金御紋、天国ト二字銘弐尺八寸程□
  (太刀の図)

内宮ニ納候俵藤太之太刀同形同作之由住寺吐候へは?

 萬治二亥年 秋田城介

高乾院殿前侍従……      姫君様御妾之廟有

 十一月廿九日 安倍実季入道



三春秋田氏の先祖は、平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な戦力を持つ貿易水軍「安藤水軍」を率いて樺太や蝦夷(北海道)・朝鮮半島、そして中国は元より東南アジアやインド近郊まで海運貿易をしていた「蝦夷探題」を継承する海将の一族でした。

天正19年(1591)には、天下統一を果たした豊臣秀吉から「奥羽仕置」の際に、秋田郡5万2千石を安堵され、御蔵入地(秀吉の直轄領)2万6千石の支配も命じられますが前後して蝦夷地における勢力(蝦夷探題職・海外交易海運事業権等)が没収されます。

大坂冬・夏の陣では、徳川勢力(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や祖父伝来の土地である秋田への復帰や水軍を召し上げられたことなどへの不満が幾重にも募り、剛毅な戦国武将らしい気骨ある實季公らしく、それらの不満を徳川幕府二代将軍秀忠や三代家光にぶちまけて居たのでしょう、官位からの苗字「秋田」を名乗らず「安倍」や「安東」そして「生駒」を名乗ったりしています。

本来であれば宍戸藩安東秋田氏自体が改易なのでしょうが、生真面目な嫡男俊季公や家臣一同の幕閣への働き掛けもあり實季公の朝熊幽閉と相成ったと私は思っています。






幕府からの命で、宍戸藩主を長男秋田俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、自身は“領内に圧政を布いた”ということで寛永7年、わずかな近習を引き連れて伊勢の朝熊(あさま)へ蟄居を命じられます。

千世姫は、實季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た愛娘でしたが体が弱く、僅か11歳という若さで病没。そして、片山氏も、実季に先立つこと8年前にその生涯を閉じます。

實季公本人は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。

その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。

菩提寺である永松寺本堂の須弥壇には實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌が安置されています。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:11 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |