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三春物語174番 「曹洞宗秋田山龍穏院」安倍安東ノ称生駒秋田家菩提寺


「曹洞宗秋田山龍穏院」

安倍安東の称、生駒秋田家菩提寺
北国三春も梅雨、その蒸し暑さを楽しんでいるかのようです。
 そんな夏の喧噪をよそに、涼しげに佇む荒町曹洞宗秋田山龍穏院は、禅宗の古刹です。
三春藩主秋田家入府の時、前領地常陸宍戸より三春へ移しました。そのときに、宍戸より運んだ、初代藩主の祖父愛季公の墓石があります。

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鎌倉期蝦夷管領、日ノ本将軍と呼ばれ、北方に覇を唱えた安倍家の末裔、三春五万石安東(安藤)秋田家の菩提寺です。
歴代三春藩主の中で、第8代藩主謐季(やすすえ)候だけが埋葬されています。

安藤氏は、奥州藤原氏の滅亡の後に蝦夷の支配権(東夷成敗権)を掌握した鎌倉幕府から、代官としての地位を与えられ、執権北条氏の津軽や糠部の所領(得宗領)の管理と夷島管理を行い、海運の掌握を背景に北方世界に君臨していた。応永年間に室町幕府を震撼させた北海夷狄の動乱の鎮圧に活躍した功により、宗家の津軽十三湊の下国(しものくに)安藤氏の安藤康季(やすすえ)が、日の本(ひのもと)将軍に任ぜられた。

永享八年(1436年)には、後花園天皇の命を受けて若狭国小浜の羽賀寺を再建しているが、『羽賀寺縁起』にも「奥州十三湊日之本将軍阿倍康季」と記されている。

さて、「日の本」とは、もともとは「日高見」と同様に東の意味で、古代には主に陸奥国の現在の岩手県辺りを指していたが、その後次第に北上し、中世には、国家統治の東の境界の地と認識された外ヶ浜あたりを指した。
15世紀には更に北上し、外ヶ浜と夷島を含んだ地域概念となる。

なお、「将軍」とは本来天皇から任命された追討将軍を意味することから、安藤氏に与えられた「日の本将軍」とは、古代の鎮守府将軍にも比すべき蝦夷征討将軍を意味し、北海道を軍事的に支配する将軍を意味した。



中世後期の物語『さんせう太夫』にも、安寿と厨子王の父が「奥州日の本将軍、岩城の判官正氏」と記されているが、当時日本海を行き交う人々の間で語られた話であり、安寿と厨子王は越後の直江津を中心に丹後から蝦夷島までを舞台としていますが、物語中の日の本将軍とは、安藤氏のイメージだとされている。

下国安藤氏はそれほどの実力者だった。




江戸期の秋田家藩政を通じて藩主菩提寺別格寺として隆盛を極め、その伽藍は寺院の多い三春でもひときわ荘厳で、歴史の重みと伴に、三春五万石の威厳を感じます。
 
平均寿命の短かった江戸期、藩主はじめ領民が生きる支えとして仏教へ帰依し、心の拠り所として信仰を集めました。
 幕末、三春藩の終焉とも言うべき、戊辰戦争三春無血開城後は、藩主が恭順の意を表す為御座恭順し、その後西軍の病院として使われ、三春秋田家のその始まりと終わりに重要な役割を果たしました。
今も境内には西軍として戦に参加した館林藩士の墓があります。
ご本尊の釈迦牟如来は、今日まで三春に生きる私たちを導いているようです。
 
龍穏院には、お彼岸の時だけ掛けられるという、土佐断金隊隊長美正貫一郎の書いた掛け軸があります、私も多少のご縁があり時折足を運んでおりますが、仕事柄彼岸の頃は仕事に追われその掛け軸をまだ見る機会に恵まれておりません。
 美正貫一郎という人は、幕末戊辰戦争に於いて会津藩に就くか、薩摩長州土佐を中心とする西軍に就くか、未曾有の混乱の中で三春藩が選択を迫られた時、三春攻め直前に三春藩恭順派を受け入れ、戦塵から三春を救った土佐藩士です。

土佐金隊 美正貫一朗
毎年、春と秋の彼岸の期間中に、龍穏院小書院に掲げられる掛け軸があります。
作者は、戊辰戦争当時、三春を戦火から救った土佐断金隊隊長「美正貫一朗」です。
美正貫一朗は、天保15年(1844)1月~明治元年(1868)7月28日、医師・下村惇斎の次男として生れ、23歳で高知城下南奉公町の徒士格美正家を継いだ。胆力があり機敏な人であったという。明治元年戊辰戦争では迅衝隊一番隊司令として出征した。同年3月2日甲州に入り浪士掛探索役となったが、江戸到着後、甲州の有志を中心として遊撃隊を組織し、断金隊と称してその隊長となり、恩愛よく部下を掌握した。
閏4月21日今市に戦い、各地の探索と宣撫工作を続けて北上し、貫一郎の献身的な周旋によって奥州越列藩同盟の一角であった三春藩の無血開城が実現し、彼の徳を慕う有力者から三春滞留を求められたが実現せず、慶応4年7月27日二本松城攻略のため本宮に向う途中、阿武隈川渡河の際、銃弾に当って戦死した。


| ryuichi | 06:35 | comments (0) | trackback (x) | 三春城下荒町::秋田山龍穏院 |
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