2024-08-16 Fri
三春盆踊り
三春の盆踊りは、県内でも特に盛んで、かつては盆の期間中はもとより、八月を盆の月として、十三夜盆・二十日盆・二十三夜盆・地蔵盆・晦日盆等々約半月に渡り三春各地で盆踊りが盛大に繰り広げられてと伝わっています。
三春盆踊りが、もっとも盛んだったのは大正期で、時間の規制などなく朝方まで踊り明かしたと伝えられ、宗教的要素よりは、娯楽として三春町民の楽しみであったといいます。
三春盆踊りの起源は、室町期の時衆念仏踊り説や参勤交代で三春藩士が江戸で習い覚えた説など、はっきりしていません。
大正期が最盛期というのは、三春経済の発展や遊郭の遊女や芸者の参加、そして若い男女の出会いの場などの要因が重なり合って盛り上がったと考えられています。
唄は七七七五調で、かつての三春甚句音頭取りは、熟練の強者が多く居まして、その場その場で即興唄を作り上げ、音頭取りと踊り手の掛け合いで踊りがおこなわれたといわれます。
旧暦のお盆十四日から十六日が新町と八幡町、十七日が北町、二十日が荒町、二十四日が新町一時地蔵等、月末まで連日盆踊りが開催されていましたが、社会情勢の変化など紆余曲折の中で縮小傾向にあります
現在は三春観光盆踊りとして、各地区太鼓保存会を組織して、帰省客の帰り足となる8月15日16日に、大町お祭り広場で開催されています。
山郷の盆踊りも青年団の解散などで、澤石・斉藤地区など一部を除いて消滅して仕舞いました。
最盛期、賑やかだったのは新町と八幡町の盆踊りといわれ、新町はセリ場に櫓を建て庚申坂新地の遊女や芸者が繰り出し艶やかだったと古老は話します。
同じ、地蔵盆では、州傳寺の「一時地蔵尊祭」と天澤寺の「身代わり地蔵尊祭」と重なって近郷近在からたくさんの踊り子が来場しました。
また、まちはずれと呼ばれる八幡町は、旧城下堺黒門外に「踊り場」という俗称の残る場所に櫓が立ち、城下堺に住む旧方外の民もこの日だけは浴衣を着て踊れた。
すぐ目の前に太鼓屋がありいつ太鼓が破れても大丈夫だった。
北町は天神様前、荒町は馬頭観音前、大町は紫雲寺境内であったと記録されています。
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