CALENDAR
S M T W T F S
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30       
<<  2024 - 06  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




塵壺387号   「御春輩・田村武士団」 田村四十八舘 御祭舘 七草木舘 令和5年10月発行




   「御春輩・田村武士団」 田村四十八舘 御祭舘 七草木舘 
 
鎌倉時代中期より室町から戦国時代にかけて、仙道(現福島県中地域)では田村庄司家の勢力基盤を継承した後の三春城主となる平姓田村氏が勢力を拡大していました。

 永享12年(1440)、室町幕府鎌倉公方の奥州の拠点「篠川御所(篠川公方)」(郡山市安積町)を攻め滅ぼした土豪の中に、田村利政公の名が記された資料が残っています。

 また、享徳3年(1454)頃の資料には、三春田村氏の初代・義顕公の祖父・田村直顕公の名が記されています。


 直顕公の時代から天正 18年(1590)の奥州仕置で田村家の終焉を迎えた当主宗顕公まで約150年間(六代)に亘って戦国乱世の時代に伊達氏・畠山氏・大内氏・岩城氏・相馬氏・蘆名氏・二階堂氏・石川氏・白川氏・佐竹氏といった強豪武将たちと亘りあい、時に四面楚歌の様相を呈した時期もありましたが、三春田村氏の活躍はめざましく、領土を護るばかりではなく領土拡張を成し遂げています。

 しかし、三春田村氏3代の清顕公は、激戦の真只中だった天正14 年に後嗣を定めず病没します。

 清顕公の夫人は相馬氏から、そして実母は伊達氏から入嫁しており、これらの要因もあって跡目後見争いとなり田村家中は内紛に発展してしいます。


 やがて伊達派の勝利により伊達政宗公の「田村仕置」を受けて清顕公の甥・宗顕公が後嗣となりますが、天正18年豊臣秀吉の「奥州仕置」によって、田村氏は所領安堵が得られず、戦国大名三春田村氏は消滅してしまいます。







 「御祭舘」御祭小山舘 

旧御祭村小山(三春町御祭)舘主小山左馬之助550石

三春城下の北西隣する旧御祭村は、戦国期には田村四十八舘の一つ小山舘があり、舘主の小山氏が治め、小山村と呼ばれていました。

 古文書で見ると、三春札所(前述参照)から22丁で、城の根廻り360間、廓丈(高さ) 19間、本丸は、南北40間、東西14間だったというから、随分細長いものだったらしく、当時は、現在の舘下の橋本氏の屋敷までのびていたと思われます。

 江戸中期の秋田藩政下、藩主秋田輝季公のときに村内の志々作という集落に獅子頭作りの名工が二人住んでいて、城下大元帥明王に長獅子を奉納しました。

以後、明王と牛頭天王の祭礼には御祭村の村人が長獅子舞と大々神楽を奉納したので、秋田公より御祭の村名を拝領したと伝えられています。

また、地域には「突き舘」、「突き打ち」、「平古内」、「貼り付け問屋」という地名が残ります。

 戦国時代末期、田村清顕公が苦戦した小浜城の大内定綱の領地塩松(安達郡東部)への街道沿いで三春城の最後の防衛線に位置する舘です。



「七草木舘」七草木舘は、田村氏の一族で石高500石の七草木新助の居城。

ここは田村氏の三春領と、畠山氏の二本松領との境界に近く、御祭の小山城と共に、三春領北西の固めとして築かれたものです。

旧七草木村は、鎌倉時代末には田村庄司家田村氏の娘が地頭を勤めていました。

 その代官は鎌倉幕府滅亡後に上洛して後醍醐天皇の新政府に加わり領地の安堵を受けています。

その後、彼女が相馬重胤に嫁いだため七草木村は一時相馬領となったという記録が残されています。








七草木という地名の由来が伝わっています。

平安時代初期の寛平年間に宇多天皇は“七種粥の節句”をおこないました。

 このとき、竹良某という人が、七種および擂り粉木を献上した際に賞されて七種木の称を賜ったと伝わっています。

後にその子孫の七種木新介という武将が此の地の“築舘山”に舘を築いて移り住み、戦国大名田村氏に仕えた際に出仕を期に七種木を七草木と改称し地名も七草木と改めたとされています。



      蒼龍謹白  さすけねぇぞい田村!  拝







| ryuichi | 04:11 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |