2023-11-05 Sun

新発売
「三春舞鶴城」 栗どら焼き
北海道小豆を使った自家製あんに"渋皮栗の甘露煮"を丸ごと一個入れて、ふわふわの手焼き生地で挟みました。
渋皮の栗と小倉餡のマッチングは良好で、栗を一個入れるだけで食べた時の贅沢感と幸福感はただのどら焼きとは違います。
永正のころ、戦国大名田村義顕公は、三春郷の中心部にある大志多山に三春城を築き移り住むことになった。
入城の日、城の上空に1羽の丹頂鶴が現れ、輪を描いて飛んだので、この吉兆を喜び、舞鶴城と名づけた。
また、田村公が見張るに築城するとき、人柱にする美しい娘を探した。
領内の光大寺村にお鶴という娘がいて大変美しかったので、人柱として山頂に埋められた。それで娘の名をとって舞鶴城と名づけたという。今でも光大寺には美人が多く、光大寺美人といわれている。
急峻な岩山の上に築かれた三春城は、容易には攻めがたい要害堅固な山城でした。

江戸時代には三春藩の政庁が置かれ明治維新を迎えます。
現在の城跡には、本丸や二ノ丸、そして、東舘とする三ノ丸跡があり、土塁や石垣の一部などが残っており、遊歩道が設けられた城山公園として整備されています。
三春舞鶴城 舞鶴城築城秘話
戦国時代田村義頭公は富久山村(日和田三丁目)から本拠を三春に移し築城する事になった。
そこで三春郷で築城に最適と思われる大志田山(現・三春城址、御城山)と、貝山村の白山の山(現・白山比咩神社様)の何れかにする事なった。
このお城の築城場所選定の話は、たちまち近在の村々に伝わり、地元貝山村では白山様にお城が出来る事を願っていたが、果してどちらの山が高いのか話が持ち上がり人々の一番の話題になっていた。
そんな騒ぎの最中、1人の娘が大志田山の方が白山機より草履一枚分高いと自信有り気に言ってしまいその事が徒になり、田村義頭公の耳に入り白山の山にお城が出来なくなり、その一声の張本人が貝山村の“おつる”であった。
そのため、おつるは村八分になり村から追放される。
その後、貝山村ではおつると言う名は禁がられ生まれた女の子にも付けなくなった。
近代に入り大正時代の頃、実際につると称した2人の方が貝山村に嫁に来る時、(古内の人はケサ)に名を変えて来た。
この伝説は現今より500年前水正元年(1504)頃の物で城を築く際に人柱(生き埋め)を立てて城の安全を願う風習があり、前記述の貝山村のおつるさんは女ながら気丈夫な人だったから白羽の矢が立ったがその後どうなったかは伝説に表われていない。
三春臥牛舞鶴城
宝暦九(1759)年に記された領内の名所旧跡を集めた『松庭雑談』には三春臥牛舞鶴城との記載が見えます。
本丸にあった牛石の伝説ともに、『吉事有事、鶴来て城上に舞、故に領内ニ而鶴を殺さず。また不食・不買と云う』という記述があります。
明治になってから往時の城を偲んで画かれた舞鶴城の図には、『臥牛の城』と記されており、本丸の牛石と舞鶴を併せた名で記されている。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
明日は、十三夜。
十五夜はまたの名「芋名月」といいますが、十三夜は「栗名月」とも呼ばれます。
「三春舞鶴城」に思いを馳せ、「三春舞鶴城の栗どら焼き」を月に見立てて、荒城の月のお月見はいかがでしょう。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 13:44 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯::季節のお菓子 |
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