2009-07-14 Tue
田村四十八舘
室町南朝期から戦国期にかけて、田村庄は絶え間ない戦が続きました。
当時、政治社会の大きな変革に伴って兵器や戦術にも著しい発展を示し、城郭も領内防衛上の必要性から進化しながら構築されていきます。
三春田村氏が永正子年に、三春大志多山に本城を築き、これを中心に旧田村庄領内に幾多の支城を設けます。
後に云う「田村四十八舘」です。
四十八という数は語呂合わせ的総称で拠点の舘とその砦を合わせ、時期を考察すると百以上の舘が存在しています。
この支城は防衛上の拠点はもちろんですが、拠点防衛用、連絡用、退避守用、攻撃用、陣営用、住居用など、戦略・戦術的に考えてさまざまな用途に分けられます。
戦国期から江戸期に書かれた文書に、田村四十八舘の記載が残っていますが、時期の推移により築城や廃城、または移動が見て取れます。
これらの舘には、新舘、古舘、オチ舘またはオツ舘と呼ばれる舘跡が付随し、舘の腰や馬場、そして的場などの城郭にちなむ地名が残っています。
三春城の西一里に「斎藤五舘」と呼ばれた館群がありましたが、斎藤郷で中心となる舘の砦として構成されていたと考えられます。
北辺の要、富沢の新舘、古舘、聚楽舘、青石館、上舘、下舘も同じ構成です。
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