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河井継之助記念館

只見にある河井継之助記念館がリニューアルした記事が昨日紙面を飾りました。
河井継之助とは?
当 「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難しい」越後長岡藩家老 河井継之助
 「陽明学」の祖、王陽明の言葉に「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難しい」と言う言葉がある。心中の賊とは、自分の心に巣食っている弱気な、誘惑に流されやすいもう一人の自分のことである。
 この陽明の言葉を現代風に言えば、自分を律すること、つまり自己管理の必要性ということであろう。私たちは誘惑に乗りやすく、困難から目を背け、目先の快楽に逃れようとする弱い自分と同居している、当に真の敵は自分の心の中にいると言えます。
 この王陽明に傾倒し「朱子学」全盛の江戸末期、危険視されている「陽明学」によって己を律した人物に、越後長岡藩軍事総裁 河井継之助がいます。
 河井はひら藩士の身分から、家老職に大抜擢されると、行政改革に乗り出します。当時長岡藩は多額の借財に苦しんでいました。
 河井はそれまで、松山山田方谷や江戸昌平講など日本諸国を遊学し、蓄積した経済理論を実践して、短期間の間に長岡藩の財政を立て直したばかりではなく、当時の欧米に引けを取らない藩軍事力を保有するまでになりました。
 この改革の途中、多くの困難に直面しましたが、河井は先の王陽明の「心中の賊・・・」
を胸に、信念を持って改革を成し遂げました。
 河井の改革の師匠とも言うべき松山の山田方谷は、急速な改革を断行する河井にたいして、一つの忠告を与えたと言います。
「改革は、山の伐採と同じで、伐採が急速に進むと後の木は中々生えては来ないように、町や人心も、その改革の速度については来れない。急ぎすぎてはことを仕損じる。」

      合掌
 戊辰戦争に入り、河井率いる長岡藩は「武装中立」を唱え、薩長軍と会津藩の仲裁を画しますが、勢いに乗る薩長西軍は、それを聞かず戊辰戦争中の激戦北越戦争に突入にました。
 
sarani塵壺平成十八年11月号を参照下さい。
もう25年前ですが今の様な立派な記念館ではなく民間に付け足したような継之助終焉の間があった頃の思い出ですが、当時管理をしていた矢沢さん(継之助を見取った医者の末裔)に無理を行って天井を見ていたいと寝転んでいたら本当に夕方まで寝てしまったことを思い出します。
すぐ裏には、医王寺があり継之助の墓があります。
三春から、磐越道坂下インター経由で約2時間30分です。

| ryuichi | 21:13 | comments (0) | trackback (x) | 🌸蒼龍窟 河井継之助 |
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