2024-06-21 Fri
荒井之館・遠藤館 (落合館)遠藤之館は(荒井之館)という。
大滝根川と中妻川の合流点の三春、須賀川県道の真上にある道路より、空掘まで約90メートルあり、空堀より山頂の本丸の広場まで20メートルである。広場は約20アール程である。
北東より南東まで空堀が続いており大滝根川の方に竪堀と思われる場所が2ヶ所ある。
また、東南に空堀に続いて約3アール程の広場がある。南は峯続になって、深さ約5メートル、底幅3メートルの切り通しがある。
西北より中津川と大滝根川に続き、南の切り通しまでは断崖絶壁であり、西の方は開田し年中水がたまっており、湿地となっていたので、昔は・要害堅固の山城であったが、本丸には水は無く、飲料水は牛で運び上げたとのことである (古老の話)
遠藤の祖は藤原家の一族で、中臣氏と共に下向し、荒井を中心として蒲倉、大平、および斎藤の一部を開発し、遠藤を名のり、藤原氏の神館城の南方の険しい山の峯に城を築き、力を合せて我領地を守ったのである。
国見山(郡山市中田町国見山)に出城を築いた大滝丸はもともと山賊の頭で手下も多く、又、暴れ者ぞろいであり、こちら遠藤氏の兵は、にわか仕立の農兵であるばかりか、人数も少なかったので、城に籠城して戦ったが、いかに要害堅国の城でも攻め立てらいついに落城してしまいます。
荒井、蒲倉、斉藤と別々に落のびて、帰農し百姓に定着したのである。
江戸時代になって、遠藤之館(荒井之館)跡を開拓し畑にせし時、大昔の真力、鉾などが出土したことは、口伝えとして伝わっているので、田村将軍が遠征にくる以前に大滝丸と戦ったことであろう。
その後、小字の場上田(俗名・日津内、朝が早くさすから)地内の外より一つも見えない奥の窪地に何十年かすんておったが、経済も豊かになり、近くの台地・現在の住宅の裏山と畑合せて約150アール程の場所である北側は、水田より20メートル程の切り立ったがけで、東より南まて続いた水田には、年中水があり湿地帯で自然の要選をなしているのである。
遠藤家では、藤原家と並ぶ家柄であると伝わっており、我家は普通の農家とは違うと、砦の様な場所を選んで住んだのであろう。
昭和41年、畑の由来より、土台石と思われる焼石三ケと黒焦げの焼き籾みが多く出土したので、火事にあって現在地に移したことと思われる。
又、台地の北側向いの樫の木林の中に遠藤家一族の氏神(内神)が祀ってある。
勧請の年代はネ明であるが、京の都の八坂神社とのことで、ホーソーカンボー・其他癒病(流行病)除の神とのこと。八王子大明神を中心として、稲荷様、山津美神社、三宅荒神神社、稲地神神社の五社である。
神社の敷地として、山林2アール・銭米田と井戸などが規在残っている。
祭礼は、春は旧2月初午、秋は旧9月9日である。
境内に目通り10メートル程の天を突く様な樅の大木があったのであるが、江戸時代末頃、落雷で中折し、残っていたが、大正八年三月乞食の焚き火で火事になり、外皮だけ残って、おりしが、昭和3年4月の暴風で折れたので、其の跡地は窪地になっている。
近くの旧墓地に一石五厘の墓碑一基と並列(双式)逆修の墓碑一基建っている。
昭和55年に、県文化財委員の方が、渡辺家の旧墓地内のキリシタンの墓調査に来た時、遠遠藤家一族の旧墓を見て、「一族の墓に、各も数多く建っていかのもめずらしい」と言う話しであった。
中妻歴史を語る会 中妻地区高齢者学級 古老の話より
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