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三春物語3番 仁井町「平石不動尊」(現在は龍穏院に移設)




仁井町 平石山不動尊

三春城郭境の黒門外にある、烏帽子石という地名が残ります。

これは、烏帽子に似た石があることから付いた地名です。


この付近は、烏帽子石と、六升撒そして足軽組の屋敷があった御旗町が交差しています。

その一角にある町立三春病院北側に「平石不動尊」があります。

三春藩士森沢監物が、諸病回復に効くと云われる、越後菅谷の不動尊を勧請しました。



平石不動尊は、裏山巨石があり、平石山とよばれて、その平石山から湧き出る清水が、滝となり不動井戸に注がれ、この清水で目を洗うと眼病に効くと云われています。


現在は、旧足軽御旗組の屋敷街であった「御籏町」の方々がお堂を守り、龍穏院が受持院として毎年秋に「平石不動尊祭」を営んで所願成就、無病息災を祈願している。








不動清水の井戸


越後菅谷不動尊は、源頼朝の叔父にあたる護念慈応上人が開基したと伝えられています。本尊の不動尊像は印度の仏師「ビシュカツマ」とされています。


この不動像は、唐に修業していた最澄大師が比叡山に持ち込み、平治の乱の混乱を避ける為に、護念慈応上人が持ち出した事から三国伝来の霊仏として、成田不動尊、目黒不動尊、木原不動尊、中野不動尊と並び、日本三大不動尊の一つとして信仰を集めています。







烏帽子石の不動参道入り口




足軽屋敷「御籏組町」界隈





平成20年当時の画像




以降は、平成26年塵壺9月号より訂正加筆した文章と画像です。





三春城下北町末相馬海道口 仁井町「平石不動尊」(現在は龍穏院に移築)



三春城下北町外、相馬海道口の郭境付近に“烏帽子石(えぼしいし)”という地名が残ります。これは、烏帽子に似た石があることから付いた地名とされています。


また、この付近には、”仁井町”、“烏帽子石”の他に、“六升蒔(ろくしょうまき)”、そして足軽組の屋敷があった“御旗町(おはたまち)”という地名が混在しています。

その分岐点にある、三春城下正徳六地蔵の一つ“烏帽子石正徳地蔵”の対面を、国道から現町立三春病院の北側下へ通じる細い旧道の小路を”仁井町”へと進んで行くと、木立に包まれたに、「平石不動尊」がありました。

案内板によれば、この平石不動尊は、三春田村氏が活躍した戦国時代の天正年間(1573年頃)に森次監物(もりつぎけんもつ)が、諸病回復に効くと云われる、日本三大不動尊の一つ越後の菅谷不動尊を勧請し建立されたと記録されています。
以後、四百数十年にわたり、森次家によって代々守られてきました。



明治三十六年、森次家十九代の和呈氏没後、近隣の御旗町の方々がお不動講中を組織して、城下荒町の龍穏院さまが受持院として、毎年秋に「平石不動尊祭」を営んでお祀りして、人々の諸願成就、無病息災を祈願していましたが、お堂本体の老朽化と東日本震災による建物の被害の為に、現在は龍穏院の敷地内へ移築(平成23年11月移築落慶法要)してお祀りしています。

尚、毎年11月の第三日曜日には、この平石不動様の祭典を行っています。



この「菅谷不動尊」とは、新潟県北蒲原郡菅谷(現新発田市)にある明玉護国寺(みょうぎょくごこくじ)のご本尊で、源頼朝の叔父にあたる護念(慈応)上人が開山、開基したとされ、上杉謙信も祈願された不動明王として、現在でも、家内安全、諸願成就、とくに眼疾に霊験あらたかといわれて各地より参詣者が訪れ信仰を集める古刹です。




かつての、平石不動尊の社地は、簡素なつくりのお堂ながら、高い梢から柔らかな光がそそぎ、とても清々しく気持ちのいい空間が広がっていました。
境内の裏山に“平石山”とよばれている巨石が鎮座し、その平石山から、年中涸れることのなく湧き出る清水がありました。
その清水が一筋の小さな滝となり、その境内にある“平石の不動井戸”に注がれていて、この清水で目を洗うと眼病に効くと伝えられてきました。

古より、人々は生きていく上でのさまざまな願いや希望を、身近な神や仏などへ託してきました。
それは生活の主体であった地域の安全や繁栄、また家族の健康など多岐にわたる複雑な祈りの世界でした。特に、健康については如実に現れています。
これは当時の医学の未発達で、怪我や病気での死亡率も高かったことに由来しています。
それに伴い、当時の人々は病を恐れ“藁(わら)をもすがる思い”で神頼みし、何とか無事を得ようとするのは、ごく自然のことだったのでしょう、古来より各地にさまざまな民間療法と土俗信仰が結合した社殿が見られます。

 このような人々の祈りという内面の世界は、長獅子や天狗、そしてお札等、三春城下に伝わる寺社の祭礼や、四季折々に模様される各種歳時等々様々な場面で具体的な形として見ることができます。
例えば、悪霊などから村の安全を守るために、人々は地蔵や道祖神といった石仏を配し、巨石や巨木等の異形のものや異常で尋常ではないものを村や家の入口に掲げ、不都合をもたらすものたちを威嚇してその進入を防いできました。


秋田山龍穏院

人々が何を願い、何を恐れ、それらとどのように関わってきたか?
それは、村に災いが訪れないことを願い、村人の病気の治癒を神仏に頼んだことも、また、死後の極楽往生を願ったこと等もあったかもしれません。
このように、様々な願いを共有しながら、かつての人々は村という地域社会を作ってきました。
そして、ここ三春では現在にも脈々と受け継がれています。

    
 さすけねぇぞい三春!   蒼龍謹白  拝


| ryuichi | 06:56 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春城下北町 |
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