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一関藩田村氏三万石藩主 田村家の菩提寺「大慈山祥雲寺」




一関藩田村氏三万石藩主 田村家の菩提寺「大慈山祥雲寺」。

祥雲寺の前身は、三春の田村家五代目の当主という立ち位置の田村宗良(伊達忠宗の三男)が寛文九年(1669)に岩沼(宮城県)に開設した長谷山大慈寺で、一ノ関移転後の初代藩主田村建顕が天和二年(1682)岩沼から一関に移封された際、寺も一緒に移し、宗良の母お房の方(祥雲寺殿)を開基に大慈山祥雲寺と改めました。








「大慈」は、伊達政宗・愛姫の第二子忠宗の法名「大慈院殿」にちなんでつけられた。
 
開山は大機円応禅師で、本尊を千手観音とさだめ、藩主はじめ家臣領民の深く信心を集めたといわれます。


忠宗の側室であったお房の方は、観音信仰にあつく、寺伝によると、寛文六年の江戸勤番中のある夜、枕辺に観世音菩薩があらわれ、その霊夢に心動かされ、岩沼の地に一寺を建立したとありました。
 










「田村家墓所」は、本堂の左手に田村家墓所がありますが、階段の上に土饅頭です。


大正期になって品川東禅寺にあった歴代墓を、纏めて合葬した際に墳丘墓に改めたようです。







忠宗の母で政宗の正室・陽徳院(愛姫)は、三春城主田村家三代当主淸顕の娘で、天下人豊臣秀吉による「北条小田原攻め」「奥羽仕置」と、不仲説が囁かれた伊達政宗の謀略で、三春田村家が断絶したのを深く悲しみ、遺言で宗良に田村家を創設して藩主に就かせたという経緯の中で、この祥雲寺は愛姫、三春田村家と深い繋がりがあります。


この縁で昭和六十二年、三春町と一関市とが姉妹都市の調印をした。

  なお、祥雲寺は田村氏の菩提寺となっており、円墳の墓所には初代宗良から十五代良顕まで田村家代々のご遺骨が納められています。

また、境内に建つ田村記念館には貞享元年(1684)作の忠宗、房姫の木像のほか、市指定文化財の「常香盤」や戊辰の役時の陣羽織、時の太鼓、子安観音像、田村家愛用の

黒漆蒔絵重箱など三十点以上の文化財を展示されていました。



一関藩田村家は、幕府から伊達家に代々発給される判物と領地目録に、62万石のうち3万石を田村家に与えることが明記され分知されて成立した藩です。

即ち、幕府・徳川将軍家の直臣として扱われ、幕府から直接の指示を受けていました。








一方、一関藩は、将軍家から直接領地朱印状や領地判物を交付されていません、

したがって、仙台藩からの干渉もあって、大名取立から間もない寛文2年(1662年10月)にあり、「領内仕置六ヶ条」により、領内での仙台藩以外の制札が禁止されます。


これにより、自主的な法令を公布することが不可能になり、仙台藩の支藩的な立ち位置となっています。






また、一関所替後の所領は北上川に二分されていましたが、二分された一関藩領の間には仙台藩領の村落が10余村あり、一関藩は政治と経済ともに仙台藩の影響下に置かれています。

藩職に仙台留守居役が設置され諸大名や幕臣を記した「須原屋武鑑」でも仙台藩の支藩扱いでした。








赤穂浪士の赤穂藩主浅野内匠頭が、吉良上野介に刃傷に及んだ後に、御預け、切腹をしたのは愛宕下にあった、一ノ関田村家上屋敷でした。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



| ryuichi | 03:23 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏 |