2024-05-30 Thu
両国国技館・大相撲夏場所観戦と三春の大相撲 斉藤・松樹神社
両国国技館で大相撲五月場所「夏場所」!なんとその『中日(8日目の日曜日)』に人生初めての大相撲観戦の夢が叶いました!
以前は大相撲にそれほど興味はありませんでしたが、当店のマスコットボーイの悠大君が力士の豪栄道に似ているということがキッカケで、少しずつテレビ観戦をするようになったのでした。
それ以来、すっかりハマってしまい、贔屓の力士(もちろん郷土の力士が中心)の取り組みの際にはテレビに向かって大声で声援を、そして、録画しても見るくらいの大相撲ファンになってしまいました。
「いつかは国技館での観戦を!」と願っていた矢先に「升席が取れたので四人で行こう」と『大波三兄弟応援バスツアー』の手配から保険、道中の飲食はもちろん昼食宴会など、全て完璧に段取りしていただいたのが大先輩の田中金弥さんでした。
そして、今回その夢が叶い老舗呉服屋の旦那さんや会社役員の方とともに、まもなく喜寿を迎える金弥さんを筆頭にしてちょい還暦を過ぎた“爺っちゃん4人の珍道中”となったわけです。
両国国技館前に着いたのはちょうど正午でした。
まずは館内に入り、自分たちの升席を確認してから昼食を取るために一時国技館を後にしました。
少しだけ両国駅周辺を散策したのちに、金弥さんが知っている店に入り、生ビールを呑みながら両国名物の海鮮料理屋さんで海の幸を堪能することができました。
食事が終わってから十両の取り組みまでには少し時間があったので、爺っちゃん4人はミーハー並みに、国技館脇の力士入場口の前で力士の入り待ち・・・やはりお相撲さんは大きい!大銀杏を結った力士の凛々しさとその存在感を肌で感じました。
国技館に再入場すると、中日・日曜日ということもあり、会場は熱気むんむんで応援する歓声もヒートアップしてテレビ観戦とは大違いでした。
この夏場所は横綱はじめ三役以上の力士が5人も不在という今までになかった波乱含みで、郷土力士の筆頭である”若元春”も怪我で休場してしまい応援することができませんでした。
そして、何と言っても横綱・照ノ富士の不知火型の土俵入りが見られなかったことが一番残念なことでした。
しかし、大の里などの若い力士が成長してきて下剋上・群雄割拠の状況が大相撲の人気に拍車をかけており、また生で観戦する大相撲の迫力はすさまじく臨場感そのものが身に染みてきて感動そのものでした。
特に宇良と豊昇龍、そして結びの琴桜と王鵬の二番は一生心に残る取り組みとなり、国技館での大相撲を十分に堪能、満喫してまいりました。そして、中日はあっという間の結びの1番へ…。
夢心地というのはこういうことなのでしょう。
今回、貴重な経験と素晴らしいご縁をいただいた金弥さんには心より感謝申し上げます。
ところで、三春で相撲といいますと、中妻地区の神社、特に斉藤の松樹神社(旧妙見菩薩)にある土俵を思い浮かべます。
この神社は、三春城下の南、斉藤村安養寺の裏山松樹山の山頂に鎮座しています由緒ある御宮様で、戦国時代、元亀元年(1570年)伊藤氏の祖藤原頼位氏が神舘城の峰続きとなる‘北ノ月見崎’に妙見菩薩を勧請して軍中勝利祈願をしたところと伝わっています。
かつての御祭礼・縁日は、旧暦の春は4月24日、秋は9月24日でしたが、明治3年に発布の「神仏分離令」により妙見様は「松樹神社」と改名され祭礼も新暦となっています。
妙見様は、昔より「相撲の神様」として知られ、秋祭には庄屋を中心として番付をつくり、旧斎藤村鎮守「見渡神社」とおなじく、村中で盛大にお祭りを行ったとのことです。
明治になって若連会、そして、大正時代には青年会主催となり2年に1回に相撲興行を行うようになりました。
祭礼当日には高い木戸の両側に美しい絵を描いたぼんぼりを沢山建ててとても華やかだったと伝わっており、祭礼には近郷近在より相撲好きな人達が大勢集まり、当時は香具屋と呼ばれていた現在の露天商・テキヤさんが多数軒を並べるなど大いに賑わったものだったとのことです。
「斎藤・おらが里ざっと昔」参照
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 03:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
TOP PAGE △