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石見浜田帰省 観音寺参禅 雨安居2 『佛埀般涅槃略説教誡經』山梨韮崎願成寺住職山本正乗和尚記拝領




先の所用があり3日間の連休を利用して車で片道約1100キロ、約11時間の島根県石見の浜田城下にある妻の実家へ帰省です。

朝は3時起床で、夏や水の紅蓮山観音寺方丈様の下へ参禅です。

この時節は、雨安居と呼ばれる「夏安居入制」で、座禅後、夏安居の朝課には楞厳会があり「楞厳呪」を読経です。

「大仏頂万行首楞厳陀羅尼(だいぶっちょうまんぎょうしゅりょうごんだらに)」楞厳呪(りょうごんしゅ)と云う難しい陀羅尼を読誦し、寺院の繁栄、修行僧の弁道増進、檀信徒の安穏を祈る「衆寮諷経」が修行されました。





楞厳呪は呪文のようなお経で、読経だけでも難しい上に、歩きながら読経する歩行禅です。


途中から読経速度が早くなり、とても難しいお経です。

夏安居 修證一如時而今

穆清






接心の中で、山梨韮崎の願成寺住職 山本正乗和尚の記された『佛埀般涅槃略説教誡經」』經本を拝領しました。

正乗和尚は、二十年ほど前に観音寺でご一緒し、教えをいただいたことがあります。








「仏遺教経」とか、単に「遺経」とも略されて通称されています。

「仏遺教経」は、その名の示すとおり、釈尊が八十年のご生涯を終えられるにあたって、さいごに示された、いわば遺言とも言うべき教典と教えていただきました。








鳳凰山願成寺(がんじょいうじ)は、771年(宝亀2年)の創建と伝わる曹洞宗の寺院です。

 武田信玄から15代前の甲斐武田氏の始祖武田信義が再興して祈願寺とし、後白河法皇から「鳳凰山」の山号を賜ったのだとされています。

 本尊の阿弥陀三尊は、信義が再興した際に祀られたもので、国の重要文化財に指定されています。


 信義の法号は「願成寺殿俊照国公大禅定門」。

願成寺霊廟殿

武田家累代御霊殿には、新羅三郎義光から始まる甲斐源氏三代と武田信義から武田信虎・信玄・勝頼・信勝に至るまでの武田氏十八代の位牌が安置されている。


近くには、武田信義館跡の武田氏の氏神「武田八幡宮」があります。







浜田城は、日本海・松原湾に突き出た標高六七メートルの亀山と呼ばれた山頂に築かれた平山城で、別名「亀山城」とも呼ばれる。

北は松原湾を介して日本海を望み、南から西にかけては浜田川によって囲まれた天然の要塞です。







元和五年(一六一九)に伊勢(三重県)松坂から古田重治が五万四千石余の浜田藩主として転封となり、翌年二月には築城に着工、同年一一月には造成が終わり、元和九年(一六二三)五月には城及び城下が整ったようです。











山頂の本丸には三重櫓の天守があり、中腹の二ノ丸には焔指蔵や番所、時打番所等が配置され、中ノ門を境とした山顔の三ノ丸には細殿をはじめ、多くの蔵や役所、番所等がありました。










また、城の東側には武家屋敷を配し、浜田川以南には八町から成る城下がありました。











浜田城では、古田家(二代)から松平周防守家(五代)、本多家(三代)、再び松平周防守家(四代)、そして松平右近将監家(四代)と替わり、幕末の慶応二年(一八六六)七月に村田増六率いる長州藩による第二次長州戦争(石州口の戦)に敗れ、浜田城は近世城郭としての役割を終えます。











浜田城跡の浜田護国神社の境内に小説「花神」で第二次長州征伐(四境戦争)における石州口の戦いの取材のご縁で、司馬遼太郎の「浜田藩追懐の碑」建立されています。








又、同地には「シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」の木口小平の銅像やノモンハン戦慰霊碑もあります





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:22 | comments (x) | trackback (x) | 🌸島根石見國浜田 曹洞宗紅蓮山観音寺記::門前小僧の参禅記 |