CALENDAR
S M T W T F S
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31   
<<  2024 - 10  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




水戸城散策 幕末の水戸藩考




水戸城は、戦国時代後期は「佐竹義宣」の領地だったが、「関ヶ原の戦い」の於いて旗幟不鮮明により、秋田(久保田藩)へ減封の上、転封となります。


その後、徳川家康の五男松平(武田)信吉が15万石で入封しますが、翌年、信吉は21歳で病死。信吉の死により翌月、家康の十男で当時2歳の長福丸(徳川頼宣)が新たに20万石で水戸に入封します。





しかし、頼宣は紀州へ移封となり初代紀州藩主となります。
頼宣のあとに、頼宣の同母弟である家康の十一男の鶴千代丸(徳川頼房)が下総下妻藩より25万石で入封し、頼房を初代藩主とした御三家水戸徳川家が成立しました。





9代藩主「徳川斉昭」は藩政の改革と幕政への参加を志し、藤田東湖らの人材登用を行うとともに、教育改革についても弘道館を建設して整備を行い、水戸学が藩論に強い影響を与えることになった。しかし、尊王攘夷の考えが極度に傾向のため幕府から疎まれ、長男の「慶篤」に家督を譲って隠居を余儀なくされた。

10代藩主となった「徳川慶篤」は、3連枝(高松藩主松平頼胤、守山藩主松平頼誠、府中藩主松平頼縄)の後見のもとで藩政を担います。
尚、15代将軍「徳川慶喜」は慶篤の実弟であり、御三卿の一つ「一橋家」を継いでから徳川家最後の将軍となります。







幕末の水戸藩は当初尊王攘夷思想の中心として日本各地から志士の歴訪が相次ぎ、幕府の施策にも大きく係わっていたが、安政の大獄以来藩内の抗争が激しくなり、天狗党に代表される尊攘派と諸生党の佐幕派が藩を2分して争った。

藩内では保守派(諸生党)と改革派(天狗党)の抗争から統制を失い、藩士による「桜田門外の変」や「天狗党の乱」、弘道館戦争を招くとともに、藩論統一と財政難を克服することができませんでした。





幕末明治維新から明治初頭にかけて水戸藩は、陰惨・凄絶、そして最後は醜悪な派閥闘争に明け暮れた藩でしかなかった。
闘争による犠牲者は多く、ために、明治期に政官財界で活躍すべき人材は払底した。






天保10年(1839)の水戸藩家臣団名簿には3,449人の名が記されていたが、慶応4年(1867)には892人に減っていたと記録され、その他、農民、町民などを含めると膨大な数に上ります。







この数字が物語るように、明治初頭まで続いた内ゲバ的殺戮の連鎖はいかに水戸藩内の抗争が激しかったかを物語っています。






水戸藩による『大日本史』の編纂。

水戸黄門でおなじみの水戸藩の2代藩主徳川光圀公は、世子時代の明暦3年(1657)に史局(後の彰考館)を開設して、国史の編纂事業に着手し、以後、水戸藩の編纂局で代々編集が行われていました。

記述内容や編集方針をめぐる幾多の論争を経て、なんと250年余を経た明治39年(1906)に、神武天皇から後小松天皇(南北朝統合が成立したときの天皇)に至る歴史を漢文で叙述した『大日本史』402巻が完成しました。

徳川光圀の史観を反映して、南朝を正統とするなど、従来の史書と記述が異なることでも知られ、幕末の尊皇思想にも影響を与えました。


三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 

| ryuichi | 03:58 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |