2024-08-31 Sat
厚木事件始末記 「私の体験秘録」 旧日本海軍大佐 佐藤六郎
三春昭進堂主人 髙橋龍一
1.はじめに
先日、カネサン書店渡辺康人社長から、母方の叔父である旧日本海軍大佐佐藤六郎(海軍機関学校 第三十一期生 現田村市芦沢出身)氏の戦時中の事柄を昭和50年代にまとめようと認められた文書の資料をお預かりいたしました。
大きな紙の袋に収められた多くの書類封筒を取り出す康人さんの手には「厚木事件」と記された封筒があります。
胸の高鳴りを抑えながら、おもむろにその封筒から中に入っている書類を取り出しますと「厚木事件」と記された紐綴じの黒いバインダーやその当時の事柄を記した資料がたくさん入っています。
それからは時間を忘れて夜更けまでその資料の分類や読み込み、資料照合等々・・
厚木航空隊事件
昭和20年8月30日。日本を占領統治する連合国軍総司令部(GHQ)の総司令官マッカーサー元帥が無事に厚木に降り立ちます。
この時、一発でも銃声が響いていたならば米軍の無血進駐は武力進駐へと一変し、戦後の日本の自由と繁栄はありえなかったでしょう。
その陰でこれからの日本の将来を憂い天皇制存続という国体維持のために命を懸けて働いた佐藤六郎海軍大佐や大安組安藤明社長など男たちの物語がありました。
この終戦直後の混乱期に起きた厚木航空隊の反乱、後に云う「厚木事件」の中で長年にわたり疑問?としてモヤモヤしていた事柄がクリアーになった感じです!
・小園司令の捕縛入院の真相
・小園司令徹底抗戦の真意
・破損戦闘機を飛行場へ投棄した犯人は?
・大安組安藤明氏の「天皇制護持」
・大安クラブの功罪
・佐藤六郎大佐へ厚木鎮圧の下名者は?
・佐藤六郎大佐と他の航空隊指揮官とのやり取りは?
・マッカーサー元帥の厚木進駐の真意は?
・マッカーサー襲撃の回避
等々・・・・
※海軍厚木基地の所在地は、神奈川県の厚木市にあるわけではなく、同じ神奈川でも綾瀬市と大和市の一部を含む約500haに及ぶ広大な敷地にあり、昭和16年に運用開始され終戦時には厚木海軍航空隊、相模野海軍航空隊(航空機の整備兵教育を担当する部隊)そして、高座海軍工廠(航空機の機体製造を行う工場)が設置され帝都防衛の主要基地となっていました。
2.「厚木事件始末記」
当該資料からの引用も含めた私の所見をまとめてみました。
後に「厚木航空隊反乱事件」「厚木事件」とよばれると厚木基地占拠は、日本がポツダム宣言を受諾して降伏が決定され、玉音放送という終戦直後の混乱期に、GHQ総司令官マッカーサー元帥が進駐軍の先遣隊として厚木飛行場に降り立つ事を知った海軍将校の一部が、天皇制護持、天皇の戦争責任回避を求めて徹底抗戦を提唱し、武装解除して破壊した戦闘機の残骸で滑走路を封鎖し、米軍を迎え撃とうとしていた事件でした。
佐藤六郎海軍大佐は、有末精三陸軍中将が委員長、鎌田陸軍中将を副委員長とする厚木終戦連絡会より、小園大佐と同期で旧知の間柄ということで特命派遣委員に任命されます。
厚木航空隊の反乱決起鎮圧の協力要請を、厚木空中立派はもちろん他の日本陸・海軍の各部隊、警視庁、消防、行政など公の組織に求めますが、どこも動く気配はありません。
結局、佐藤大佐は、決死の覚悟で海軍の出入り業者であった大安組社長安藤明氏を伴って立った二人で、海軍三〇二航空隊司令官小園安名(こぞのやすな)大佐以下の反乱軍が占拠した厚木基地の航空隊本部に乗り込みます。
佐藤大佐の手記によれば、当時、小園司令は徹底応戦派の幹部数名とともに野比海軍病院(精神病院・精神科病棟・現・独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センターか?)にて身柄拘束されて不在だったことが記されています。
そして、小園司令なき反乱部隊は、佐藤大佐らの説得が功を奏し武装蜂起を解除しつつあり、安藤氏は全国から仲間を集め、GHQ進駐妨害のために飛行場他基地内にバラまかれた戦闘機・爆撃機の残骸処理後に飛行場を整地してマッカーサー元帥率いるGHQ先遣隊(チャールズ・テンチ大佐指揮)の厚木進駐に間に合わせています。
今回拝見させていただいた資料は、海空会 日本海軍航空外史刊行会・編 昭和58年発行の「海空時報」別冊に寄稿された「私の体験秘録」(佐藤六郎・海軍機関学校 三一期)
及び 「戦後三十五年厚木事件を回想す」(佐藤六郎・三一期)「鎮魂と苦心の記録」海軍機関学校 海軍兵学校舞鶴分校 同窓会世話人 昭和56年7月発行の資料となります。
尚、資料の中には「厚木事件関係者の電話回答」昭和56年8月発行も含まれています。
佐藤六郎大佐の手記の中で、厚木事件の真相を公開する真意として小園氏と安藤氏に言及するに及んで、次のように述べています。
当時、何と云おうとも、小園大佐が悪く聞える事(悪く云われること)が我慢出来ませんでした。
私(佐藤大佐)と彼(小園大佐)との交友は同期生以上のもので、最後に厚木で逢えなかった事が誠に残念でした。
※ 別の本の序文には、厚木にて小園大佐説得の命令を受けた際に“万が一の時は、小園と刺し違いで死ね”の意を瞬間に感じとったと記されています。
また、大安組・大安クラブ代表の安藤明親分に対しては、晩年、零落しての最後が非常に憐れだったので、その偉大なる功を称えるために、その葬儀の席で弔詞を読み、厚木事件での彼の功績を公表したと記されていました。
3.厚木基地飛行場の現状回復と修復
天皇の戦争責任追及を回避し、国体護持を達成する為には、なんとしてもマッカーサー元帥の厚木進駐を成し遂げなくてはならない。
厚木基地には、当時は隣接する第一相模野飛行場や第二相模野飛行場もあり、現在の厚木基地の広さは後楽園球場約108個分とされていますが、当時の規模はもっと大きく、その広大な飛行場の滑走路や格納庫など基地の内部には破壊された零戦や雷電、彗星、彩雲、月光、銀河などの戦闘機や爆撃機など破壊された300機以上の機体の残骸が散乱し、人力での排除はさぞ困難であったろうと思います。
しかも広大な敷地の中に、徹底抗戦派の一部の兵士が潜んでいるかも知れず、護衛の戦闘部隊もなく、いつ攻撃されるか分からない緊迫した状況でしたが、佐藤大佐は、「これからの日本を支える者同士だ!日本人同士が撃ち合ってどうする!」「話せば解る!」と言って民間人である大安組の社員には武器の携帯を許しませんでした。
この様な状況の中で、命の危険を冒して滑走路の整備を請け負った大安組の社員は、貨物自動車やトラクター等約20両を使用して、250名程人員で戦闘機や爆撃機の残骸を厚木空格納庫の裏手にあった谷に投棄して埋め立てして飛行場を回復する作業を文字通り三日三晩不眠不休で通し続けました。
そして連合国軍総司令部(GHQ)の総司令官マッカーサー元帥率いる先遣隊到着の前日、8月27日午前8時、全ての飛行機が片づけられ、滑走路は使用可能となって到着時間ぎりぎりで受け入れ準備が完了して日本の危機は回避されました。
尚、この埋設した戦闘機の残骸は、一年後くらいに神奈川県庁からの命令で佐藤大佐(除隊後)が一時的に設立した会社「佐藤組」によって撤去されます。
4.連合国軍総司令部(GHQ)総司令官マッカーサー元帥厚木到着
厚木航空隊基地にマッカーサー元帥の乗るダグラスC-54B元帥専用機「バターン号」及び米軍の先遣部隊の十五機が飛来、先に着陸した先遣隊12~3機に乗務していた護衛の米軍海兵隊員は直ちに飛行場周辺に展開し日本軍の「ダマシ」打ちを警戒して、銃を身構えマッカーサー元帥の乗るバターン号の着陸を援護・護衛していました。
また、沖縄及び日本近海に米空母を中心とする攻撃部隊を待機させ護衛の空母艦載機数十機を攻撃態勢にて上空援護させて有事に備えていたようです。
私(佐藤大佐)は、之を望遠鏡で見て驚き、終戦連絡委員会の有末陸軍中将委員長に申し上げ、米軍の護衛隊指揮官を抑えるため交渉役を引き受けました。
「マッカーサー元師が来ていると思われたので、誰も通訳がいなかったが、文部省代表田中館秀三東北大教授(後東京大学教授)が引き受けてくれました。
私は白旗を自動車の窓から出して、田中館秀三東北大教授を伴って飛行場を横切り十五機の中央に向って突進しました。
そのときの気持は何とも云いません。
それを思うと「屈辱」「無念」「緊張」今でも悔しくて眠られなくなります。
と当時の心境が認められていました。
5.安藤組・大安クラブ代表 安藤明氏
安藤明氏は、この時の請負賃を元手に築地に「大安クラブ」を作り、会社の莫大な金を投資し、GHQの高級将校を連日のように接待し、天皇制護持を訴え、日本6分割案に反対していたと伝わっています。
その後、大安組は最盛期には日本全国に十数か所の支店,従業員16万人をかかえる大会社となりますが、安藤明氏は後にGHQの高官を懐柔したとして逮捕され、住む家を追われます。
厚木基地の飛行場原状回復・破損戦闘機残骸廃棄物処理から大安クラブをもってGHQの将校を接待して「天皇制護持」「天皇戦犯論撤回」そして「日本列島分割(日本6分割案)回避」を働きかけ、ついには実現にこぎつけましたが、終戦直後の混乱期から戦後へと移行する昭和46年6月贈賄容疑でGHQに逮捕されました。
昭和35年8月15日の終戦記念日の日に、不遇な晩年を過ごし赤貧の中で60歳の生涯を閉じます。
これを哀れんだ佐藤氏は、昭和38年、青山斎場で行われた安藤明氏の葬儀で弔辞を拝読して初めて戦後期における安藤氏の人知れぬ功績を披瀝しました。
豊橋航空隊司令時代
近年、情報公開及び当該関係者の死去等により戦前から終戦という昭和の混乱期の解明が進み先にも厚木事件を取り上げたNHKの特別番組がありましたが、安藤氏は、正に時代に翻弄された人生だったのではないかと思います。
今日の日本は、戦後のドイツのように東西に分割されず、天皇陛下の元で一つの国として生きることが出来ました。
これも、佐藤六郎氏と安藤明氏のお陰であると日本人として忘れてはならない事柄だと思います。
6.海軍三〇二航空隊司令官小園安名(こぞのやすな)大佐
一方、小園大佐は、1937年、支那事変(日中戦争)から、1941年(昭和16年)10月台湾の台南基地に新設された台南航空隊の副長兼飛行長に着任。
1941年12月8日、太平洋戦争開戦後、台南空は戦線の南下に伴ってフィリピン、インドネシアを経てラバウルへ進出後、東部ニューギニア及びソロモン諸島に展開する米豪軍と戦った歴戦の司令官です。
小園氏が司令長官を務めた海軍三〇二航空厚木航空隊というのは、本土防衛にあたって帝都上空を守る小園司令官の下に、総員5500名、稼働機170機、予備機300機、2年分の食料弾薬を備蓄しており、東日本最大最強の帝都上空防衛航空部隊です。
「厚木事件」は、玉音放送前夜に陸軍将校によるクーデター未遂となった「宮城事件」と共に、天皇の戦争責任追及回避、そして「天皇制護持」が確約されていないポツダム宣言受諾に反対して抗議のための決起で、天皇の命が脅かされる危険がある無条件降伏は、到底受け入れられることはできなかったのでしょう。
佐藤大佐はじめ、厚木鎮圧後に「抗命罪」で逮捕された小園大佐の「天皇制護持」の思いに基づく徹底抗戦の行動には、海軍や陸軍の内部にも共感される関係者はあったであろうと想像がつきます。
1946年11月大赦令により無期禁錮から禁錮二十年に減刑され、1950年9月特別上申により禁錮十年に減刑、12月熊本刑務所を仮釈放され、拘束から7年後の1952年、平和条約の発効のとき大赦令によって赦免されます。
釈放後は、故郷の鹿児島に帰り農業を営みながら余生を過ごされていましたが、1960年晩秋の頃に脳溢血で死去されました。享年58歳。
皇紀二千六百年特別観観式(昭和15年)
7.佐藤六郎さんの記された「私の体験秘録」の一部をご紹介させていただきます。
海軍軍人として奉職25年。その内の20年間は海軍航空部隊で勤務しました。
その中で、特に私は選ばれたと思った事が度々あった。
一、先ず飛行艇で内南洋諸島をかけ巡り海軍の首脳を案内する事、之は私ならやれると自信があった。
二、私は、一度も教官になった事がないのに、最も重大なときにその教育の大改革の断行者に選ばれた。
三、鹿屋(後に豊橋) 部隊の中攻隊を率いて大苦戦のサイパン行きとなるぞと勇んでいた処、やった事もない生産関係に転任し然も大増産をやれと云うのであった。
四、そこで遂に終戦、此の度は愈々最後の転任即ち復員だったが、私は戦後処理なら何でもやりますと、残留を希望していた処何と、「厚木を片つけてマ元帥を迎えよ」と云う、誰でも厭う事を命ぜられた。
然し、「之は小薗を知る、俺が片つける」と自信を持って出発した。
尚本文中、敬称を略し当時の関係上官や部下だった方々の彻名前を無断拝借してありますが御寛容御願致します。
「マスコミ」には転載等を一切御断り致します。
今回の資料を拝読するに、佐藤六郎氏は戦前から終戦までプロの帝国海軍軍人として活躍された司令官であり、その人生を捧げ日本防衛の要として、さらには大戦末期の混乱期の中で最大の危機「厚木事件」を収束された近代日本の幕開けご尽力されたことに対して敬意と感謝を捧げたいと思います。
拝
旧三春士族湊季松宅にて 親戚一同と記念写真
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:57 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春昭進堂菓匠蒼龍 |
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