2024-10-04 Fri
塵壺399号 令和6年10月号発行
「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」 医学博士 小林克巳 著
旧御木澤村出身の歴史家の伊藤さんより、小林克巳先生の書かれた「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」を頂戴しました。
この小説は、先に三春町交流館「まほら」で公演された「愛姫をもっと知ろう~琵琶と舞とおもしろ講話」というイベントに関連した作品で、伊藤さんは、小林先生の依頼で資料提供と時代考証等をしました。
小林先生は、経歴が示す通り、病院を経営されている現役の医学博士・医者の傍ら様々な小説を世に送り出しています。
そして今回は愛姫(めごひめ)・・・
愛姫の晩年、86歳を迎えた彼女が、夫である伊達政宗の生涯とともに、激動の戦国期を生き抜いた戦国武将の正妻として我が身を静かに振り返るという回想からはじま
ります。
戦国時代と言えば、猛々しい武士たちの生き様に注目しがちですが、その影には彼らを支える力強くも温かい妻・女性たちの力強い姿があり、その典型を三春田村氏の娘で伊達政宗の“愛姫”法名・陽徳院の視線を通して描いた作品です。
愛姫こと法名・陽徳院は、永禄12年ころ(1569年)田村郡三春町に城を持つ戦国大名田村清顕の娘として生まれました。
そのころ田村氏は、蘆名(会津)・二階堂(須賀川)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(いわき)など、敵に周囲を囲まれていました。
このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘である愛姫を当時米沢城主だった伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせます。
この縁談によって伊達氏の力を得て、田村氏は領地を維持することができましたが、伊達家へ嫁いで早々に、愛姫と共に三春から来た世話役の乳母が当時伊達家と敵対していた相馬家家臣の出身だったため相馬家に内通しているのではないかと疑いをかけられ、その乳母のみならず、愛姫の世話役に付いてきた田村家家臣出身の侍女達までも同罪として処罰されてします。
以来、伊達・田村の安泰とは反比例して政宗と愛姫は一時夫婦仲が悪くなったと伝えられていますが、その後夫婦関係は修復に向かったと思われ、天下人太閤・豊臣秀吉の命で京・聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)に結婚から15年目にして後に越後少将松平忠輝の正室となる五郎八姫を出産しています。
さらに、仙台藩2代藩主の忠宗、岩ヶ崎伊達家初代当主の宗綱、田村家の養嗣子となるはずだった竹松丸と、三男一女に恵まれました。
豊臣政権下での京に於いて愛姫は、人質とはいえ今でいう外交官的な役割を果たして奥州の政宗に京・畿内の情勢を知らせます。
徳川政権下では江戸幕府より与えられた江戸城外桜田の仙台藩伊達上屋敷(現・日比谷公園内)に住んでいました。
政宗は、寛永13年(1636年)年5月、ここで70年の生涯を閉じます。
そして、愛姫は政宗の死から17年経った承応2年(1653年)1月24日(正宗の月命日)に旅立ちます。享年86。
愛姫について瑞巌寺中興開山導師の雲居禅師も「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」とその人柄を語る言葉が伝わっています。
伊達政宗は、愛姫と共に戦国武将として戦乱の世を駆け抜け、豊臣政権、そして、徳川政権下でも政局を乗り切り伊達家を守り抜きました。
※仙台藩上屋敷は、後に江戸城整備や火災などにより、新橋、さらに汐留に屋敷が移転します。
三春田村氏は、豊臣秀吉によって奥羽仕置により改易になりましたが、愛姫の意向によって孫にあたる伊達宗良が田村氏を名乗り仙台藩内分分知の分家岩沼藩田村家三万石の大名に、後に一関藩三万石を領し田村氏の名前は幕末まで続きました。
蒼龍謹白 さすけねえぇぞい、三春! 拝
※新聞折込の塵壺の中で訂正があります。
伊藤勉と記入すべきところを伊藤務と記載してしまいました。
訂正してお詫び申し上げます。
| ryuichi | 03:18 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
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