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黒木村鎮守 菅布禰神社 「黒木舘」田村四十八舘 



黒木鎮守 菅布禰神社 


「黒木舘」田村四十八舘 

戦国大名三春田村氏の御幕下衆田村旗本近習の黒木信濃守、与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録 )黒木大膳の居城。


三春城下南の要害として重要な位置を占めていました。
 





 天喜3年(1055)後冷泉天皇の御宇、鎮守府将軍八幡太郎源義家公東征の折、暫時黒木舘の楯籠った時に守護神として神宮比古神「菅布猿田比古」を黒木に勧請したことに由来するとあります。

武門の崇敬として源家朝臣より散米田と号して中田四反歩余畑山林を御寄付。


氏子は「寄附田」と称して祭事を行っています。



棟札四面の写しがあり
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宝永元甲甲稔三月十八日(1704)

享保六辛丑歳八月十四日(1721)

寛政元己酉歳九月二十一日(1789)

弘化己己歳六月二十八日(1845)






宝永元年の棟札に「奉再興菅船猿田彦大神社為一天泰平四海平定当村安全也」と記載他のものが奉修復となっているようです。

享保元年九月(1716)「領主秋田信濃守馬匹奨励ノ思召ヲ以テ研山ノ神馬ノ額面奉納アリ」

弘化二年(遷宮)の棟札には領主秋田候より「太守公金五両御寄進相成候」とあります。






上記は、昭和16年に神祇院へ小社より村社への「皇紀二千六百年記念事業」に際する昇格に関する加列申請書より抜粋








境内の大ケヤキ 夫婦ケヤキですね。









三春 黒木氏  考察 2025



先祖をたどれば、帰化系氏族調忌寸(坂上氏、田村麻呂同族)との説があります。

黒木氏の発祥は定かではないが、在地土豪説あるいは北畠顕家(三春浪岡氏祖)家臣説があるという。 建武3年(1336年)黒木入道一党が南朝方として挙兵し、霊山城落城後も南朝方の防衛拠点として北朝方の攻撃を防いでいる。

※相馬領黒木城は、建武年間に黒木正光によって(相馬市黒木字中樋)築かれた。
 
※田村庄司田村氏も南朝方

その後、黒木氏は、相馬氏に属し黒木弾正信房の頃には中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ所領していましたが、天文年間(1532年〜1555年)に至り、伊達氏の天文の乱で伊達晴宗に組した黒木氏は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗、天文12年(1543年)同じく稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。
※このころ分家して田村庄に来たか?

後に、中村城主は移り変わり黒木中務宗元が城代となったが、天正4年(1576年)黒木中務は弟堀内四郎と相馬方へ謀叛を起こして伊達輝宗(正宗父)の元に走った。
 
天正7年、城代相馬胤乗の養子黒木中務が伊達輝宗に与して謀反を起こしたが、相馬盛胤・義胤父子に攻められ、中務は伊達氏を頼って逃亡した。

 黒木晴親 相馬黒木城城主 小高城主相馬氏15代当主相馬盛胤(そうま もりたね)の三男宗胤の養子。実は懸田義宗(伊達氏11代当主伊達持宗の子)の弟藤七郎晴親
黒木城に住んでいたことから黒木姓を名乗る、その子宗俊は伊達に帰参し、以後伊達家臣(秋保郷拝領) 

※盛胤の妹が田村清顕正室 於北 後の御北御前








| ryuichi | 03:27 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |