CALENDAR
S M T W T F S
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
<<  2025 - 01  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」  中田町郷土歴史研究会 講演会 3
「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」3
 
 中田町郷土歴史研究会 講演会 於中田ふれあいセンター

令和6年12月11日(水) 毎週水曜日 4回 講演 午後1時30分~

三春昭進堂代表 髙橋龍一  塵壺発行責任者

中津川城 歴代城主

応永十一年(1413年)の日付記載の「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、中津川三河守秀清(中津河参河守秀清)の名前も見えます。
田村庄司一門とかんがえられます。

時代は下って・・・

天文十年(1541)
中津川城主中津川千々代丸(せんちよまる)の仙道筋での行動を、伊達稙宗・晴宗父子に対して、田村義顕、隆顕が対応して、中津川城及び田原谷城(小野町夏井)を破局した上で、中津川氏の本領を相違なく認めることとした。

常葉氏と中津川氏が天文の乱の実質的な勝者伊達晴宗方に通じて、田村氏に圧力をかけてきたであろう考えられます。

田村隆顕は伊達との和睦交渉の中で、安積の一部余撤退を余儀なくされます。

さらには、一度離反し反田村氏となった常葉氏、中津川氏の帰参を許しています。

このような状況下にあって、三春二代当主田村隆顕と稙宗息女の婚姻は、こうした伊達の圧力のもとにすすめられたと思われます

田村氏が服属的な地位で伊達氏と盟約関係に入ったことを意味する証文が残る。(船引町史より)。※中津川氏追放も記載アリ

天文十一(1542)年に伊達稙宗とその子晴宗が争う伊達天文の乱が勃発するのである。

天正年間(1575~1592) 中津川小次郎親顕(親宗?)(三春三代城主田村清顕の弟)が中津川氏を継ぐ 

仙道表鑑には、「田村清顕の弟 小次郎親隆は中津川の名跡を継ぐ」とあり。


中津川氏 宿老 四天王家 滝田氏、宗像氏、村上氏、某氏


田原谷舘、細田舘 中津川氏 所領



天正4(1576)年頃 田村清顕の会津蘆名攻めに中津川兵部大輔参戦(奥永慶軍記)、中津川城主は中津川兵衛佐

天正15(1587)年 中津川居館 中津川兵衛・治部・利左衛門・太兵衛(田母神文書など)

天正16(1588)年 岩城常隆と相馬義胤の戦いで、田村勢とし中津川左近討死  郡山合戦

天正17(1589)年 小野の田原谷城は中津川兵衛大夫の城なり。後に中津川の城(中津川館か)へ移るの記載アリ

時代は下がって、江戸時代の三春藩秋田氏の家臣に中津川駿河、三郎左衛門、左馬之助
(春士秘鑑)が見えます。

この中津川氏は、上記の中津川氏とは関係なく、三春秋田家当主の親戚筋にあたる家系です。秋田中津川氏。中津川氏は鹿季の三男の家系で屋敷は南町(現在の高齢者住宅)です。
中津川氏を名乗っていましたが、後に秋田姓を賜ります。

また、伊達政宗の小田原参陣に、田村四代代行の田村宗顕が随行しています。

6月3日付の記載には、田村宗頭は、政宗に随行して小田原に上った際に、中津川丹波・内馬場能登尚信を使者として呈されたとの記載がありますが、伊達家臣となっている中津川氏かもしれません。「伊達治家記録」「三春町史」より

天正十八年六月

去る三日、田村孫七郎宗顕ヨリ中津川丹波(調不知)・内馬場能登尚信方マデ書状ヲ贈ラル。其越、関白殿御前政宗公御存念ノ如ク相調ラル由承知、満足ス、景勝内意ヲ以テ、彼洞中、各馳走二及ヒタルノ由承り、是亦大悦ス、殿下御陣ノ御様  「貞山公治家記録」より

中津川丹波守が伊達政宗の小田原参陣を先導し、同行したとの記載がある資料です。


黒木舘主 黒木氏の考察 2025
「黒木舘」田村四十八舘 
戦国大名三春田村氏の御幕下衆田村旗本近習の黒木信濃守、与力5騎・鉄砲5丁(田村家臣録 )黒木大膳の居城。
三春城下南の要害として重要な位置を占めていました。
 
先祖をたどれば、帰化系氏族調忌寸(坂上氏、田村麻呂同族)との説があります。
黒木氏の発祥は定かではないが、在地土豪説あるいは北畠顕家(三春浪岡氏祖)家臣説があるという。

 黒木鎮守 菅布禰神社 の由来書には
天喜3年(1055)後冷泉天皇の御宇、鎮守府将軍八幡太郎源義家公東征の折、暫時黒木舘の楯籠った時に守護神として神宮比古神「菅布猿田比古」を黒木に勧請したことに由来するとあります。

建武3年(1336年)黒木入道一党が南朝方として挙兵し、霊山城落城後も南朝方の防衛拠点として北朝方の攻撃を防いでいる。
※相馬領黒木城は、建武年間に黒木正光によって(相馬市黒木字中樋)築かれた。
 ※田村庄司田村氏も南朝方

その後、黒木氏は、相馬氏に属し黒木弾正信房の頃には中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ所領していましたが、天文年間(1532年〜1555年)に至り、伊達氏の天文の乱で伊達晴宗に組した黒木氏は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗、天文12年(1543年)同じく稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。
※このころ分家して田村庄に来たか?

後に、中村城主は移り変わり黒木中務宗元が城代となったが、天正4年(1576年)黒木中務は弟堀内四郎と相馬方へ謀叛を起こして伊達輝宗(正宗父)の元に走った。
 天正7年、城代相馬胤乗の養子黒木中務が伊達輝宗に与して謀反を起こしたが、相馬盛胤・義胤父子に攻められ、中務は伊達氏を頼って逃亡した。

黒木晴親 相馬黒木城城主 小高城主相馬氏15代当主相馬盛胤(そうま もりたね)の三男宗胤の養子。実は懸田義宗(伊達氏11代当主伊達持宗の子)の弟藤七郎晴親
黒木城に住んでいたことから黒木姓を名乗る、その子宗俊は伊達に帰参し、以後伊達家臣(秋保郷拝領) 
※盛胤の妹が田村清顕正室 於北 後の御北御前


御舘山「下枝城」城主 橋本刑部少輔(南朝の忠臣橋本正茂の後裔)
橋本刑部少輔顕徳の居城のもっと前、100年位前になる応永十一年(1413年)の日付記載のある「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、下枝沙弥性善 (下枝沙弥性善)の名前が見えます。
下枝氏は、本姓「橋本氏」で、田村庄司田村家一門 田村氏とも考えられます。

下枝橋本氏は、田村持顕の孫 重顕の子で、田母神氏の祖 田村利顕(重為)の弟、広顕より始まり、田村郡橋本村下枝を発祥とするとしています。

天文10年(1541年)に隆顕公が安積郡の伊東氏を攻めると、伊東氏を援けて伊達氏まで侵攻。してきます。

隆顕公は、伊達稙宗娘の御東殿(小辛相)を正室として迎えていたことから、同じ娘婿である相馬顕胤公が仲介に入る形で田村氏、伊達氏は和睦し、領地の一部を献上する代わりに伊達氏との同盟・従属下に入り、伊達氏もまた田村氏のために相互軍事協定をむすんで、軍事的支援を惜しまない誓紙を交わしています。

下枝舘主下枝氏は、伊達氏に味方していましたが、田村家・伊達家の和睦により田村氏に降ったとされています。
後にも田村領城郭要害絵図には、下枝橋本氏の名跡を継いだ、下枝舘橋本刑部少輔顕徳の名前が記載されています。
橋本刑部少輔顕徳(あきのり)(貞綱)の居舘。三春城下臥牛山(現紫雲寺山麓)に刑部舘跡あり終焉地(今泉系譜)
※田村盛顯(三春初代義顕の父)の孫の記載有。
田母神氏旧記には、橋本刑部は木村舘主(兼務、弟や子が城代)、田村家の執行大奉行に名前があり、出自も※田村月斎顕頼二男との記載が在り、弟太郎左衛門、聟(養子)孫左衛門(又七郎・二本松住)

三春田村家改易後の橋本刑部とその子孫・仙台橋本氏

一関田村家本「田村系譜」 (諸家系譜2)は、橋本刑部顕徳が大坂に登り、石田三成に田村改易取り消しのことを訴えたがその甲斐がなかったと記されています。
「伊達世臣家譜・橋本家譜」は、顕徳の子但馬および清顕後室である”喜多(あるいは於北)相馬氏”のその後を明らかにしています。
但馬は田村家滅亡後、 清顕後室に従って子息とともに伊達家にはいり、以後もこれに仕えた。 元和五(一六一九) 年後室死去。
但馬の子伊勢広信は、陽徳院に仕えその老(おとな)となったと伝わっています。
その子孫は知行六百石で召出の班に列します。

三春の三春大神宮にあった橋本正茂を祀る橋本神社の史蹟
 橋本神社
南朝の忠臣橋本正茂を祭神とした、同族神の神社で大正7年ころに作られたものです。
大正7年、正五位を贈られたことからはじまり高野(仁井田・鬼生田)の橋本氏を中心にして橋本姓を名乗る人々によって建立・維持されていました。
現在は三春大神宮に合祀されています。
しかし、この神社が何故無くなったのかは、不明です。
 尚、郡山市西田町(旧・田村郡西田村)土棚にある高野神社の境内に、橋本廟というものがありますが、ここに祀られているのも橋本正茂であり、またこの神社の裏山には、彼の墓があります。
 故 橋本正茂 特旨ヲ以テ位記ヲ贈ラル 大正七年十一月十八日 宮内省
     故 橋本正茂 贈正五位 大正七年十一月十八日
  宮内大臣従二位勲一等 子爵波多野敬直宣(宮内省印)









| ryuichi | 03:20 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 歴史講話 |