2024-12-19 Thu
「春陽三春郷(旧三春藩領)の歴史あれこれ・塵壺より」4
中田町郷土歴史研究会 講演会 於中田ふれあいセンター
令和6年12月17日(水) 毎週水曜日 4回 講演 午後1時30分~
三春昭進堂代表 髙橋龍一 塵壺発行責任者
「御春輩」とは中世の混沌とした乱世に於いて中央からの圧力に抗して自尊独立を貫き通した誇り高き田村武士団の総称です。
郷土の歴史を辿るのは自己を顧みる事なり 照顧脚下
赤穂浪士と三春藩 秋田氏 雑記
大高源吾(秋田由来)、不破数衛門(宍戸)、小野寺十内、
宍戸秋田氏と笠間浅野氏 同時期に隣接 親類?
・討ち入り衣装 大名火消し装束 火消及び機動隊 消防団(防犯協会)
六万石以下の大名 三春藩五万石秋田家火消組
真壁藩・笠間藩浅野氏
・浅野長政は慶長10年(1605年)隠居料として幕府から常陸真壁などに5万石。
赤穂事件で有名な浅野長矩は長重の曾孫である。
※寛永13年(1636年)江戸城西の丸の普請を手伝い、さらに大坂城の加番。同年11月、朝鮮通信使の来聘につき、相模大磯にて饗応を担当。
寛永20年(1643年)にも、朝鮮通信使を下野今市に於いて饗応を勤めている。
正保2年(1645年)、当時赤穂藩主池田輝興が正室の黒田長政の娘を殺害する事件(正保赤穂事件)で池田家は改易。この改易処分の際、幕命により城受け取りに赤穂へ赴いた浅野長直は、そのまま国替え・赤穂藩主を命じられ、以降は孫の長矩の代に改易されるまで浅野家が赤穂藩主となった。
尚、赤穂浪士討ち入りの20年位前、三春藩主3代の秋田輝季は、延宝7年(1679)に勅使饗応役を勤めました。
※朝鮮通信使は、江戸時代に来日した外交使節団です。その回数は12回に及び、大船団を
組んで日本各地に寄港し、400 名以上の大行列が江戸まで旅をしました。
脇坂安董の所領 現・たつの市には、通信使が寄港した室津があります。
加えて、最後の通信使を迎える副使に脇坂安董が任じられています。
全12 回にかかわったゆかりの地です。
対馬での聘礼は、徳川11代将軍家斉襲職(天明7・1787年)に対する慶賀でしたが、接
待費負担の軽減等をはかるため文化元(1804)年に対馬での聘礼が決定しました。安董は副
使として文化 8 年の聘礼をつとめました
宍戸藩(現・笠間市平町旧陣屋一帯)は、江戸初期(慶長7年(1602年)~正保2年(1645年)7月三春転封)の安東・秋田氏五万石の領地です。
関ヶ原の戦い後、常陸54万石佐竹氏の出羽転封で、秋田実季の宍戸入封となりました。
※寛永7年(1630年)9月、実季幕命により伊勢国朝熊に流され、家督は子の俊季(後の三春初代藩主が継いだ。
秋田氏は、正保2年(1645)8月、奥州三春(福島県三春町)に転封となりました。
※宍戸から三春への国替え行列は、旗一七本、槍一二〇本を立て、鉄砲一八〇挺、弓四五張、騎馬供七六騎であった。
浅野長矩 切腹場所 一関田村家江戸藩邸 虎ノ門ヒルズ付近
桜田門外の変と三春秋田氏
安政7年(1860年)に水戸藩浪士らによって大老・井伊直弼が暗殺された、「桜田門外の変」三春藩は江戸詰御用人小野寺舎人を番頭として「外桜田門御番所御当番」の役職にあり、「内桜田門」は「桔梗門」のことでその警備を任されていました。
秋田家文書「桜田門勤務心得」「桜田御番所御当番火事行列帳」(元文四年未六月)「外桜田御門番所御出馬行列帳」(寛保元年酉四月)三春藩江戸定府公役には桜田門警備記載
また、「桜田門外の変」の水戸浪士の参謀役と言われている人物に、元三春藩士の小野寺慵斎(ヨウサイ)がいます。
・伊勢朝熊 永松寺實季 近習 交野氏 石田三成の子(愛妾)
関ヶ原合戦の際、徳川方の秋田實季に三成が我が子を預ける。
近習として最後まで實季に奉公 後三春藩へ帰参
・三春田村の墓所 白石市 片倉墓所隣接 真田幸村娘 伊達に預ける 片倉氏預り
愛宕山の片倉家御廟所の一角に、仙台藩主伊達政宗公の正室愛姫(めごひめ)の父である三春城主田村清顕(きよあき)公をはじめとする田村家の墓所があります。
清顕公の没後、田村領は豊臣秀吉によって没収され、嗣子の宗顕は「牛縊(うしくびり)定顕」と改姓。子の定広とともに宮城県の伊具郡に静かに身を潜めていたといいます。その後、愛姫の命により、二代片倉重長が白石に招き住まわせたといわれています。
定広は片倉喜多の名跡を継ぎ、片倉金兵衛と改名。
真田信繁(幸村)公の遺児の一人である阿菖蒲姫(おしょうぶひめ)を妻に迎え、300石で仙台藩士となります。片倉家御廟所のある愛宕山に田村一族の墓所を定め、父清顕公の墓を建立。一族の菩提を弔い、没後、妻の阿菖蒲姫と共にこの地に葬られています。
阿菖蒲姫の墓のそばには、名の刻まれていない父真田信繁(幸村)公のものと伝わる墓碑が並んでいます。
三春御家騒動・正徳、享保事件と「三春猫騒動」
「弘法大師木像、興教大師木像」 三春藩主祈願所真照寺。
ここには弘法大師木像と興教大師木像が収められています。
これは、天明の凶作や天明5年の大火による城下町の焼失後も猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた三春藩4代藩主頼季の孫である7代藩主倩季公が、この木像の胎内に滋野多兵衛の位牌を入れて祈願所である真照寺に納めて、その怨霊を鎮めたと伝わる木像です。
この弘法大師と興教両大師木像は、木像安置の70年前に起こった「正徳・享保事件」そして「腹切り梅」「三春化け猫騒動」と呼ばれる、三春に伝わる古い伝説が付随しています。
江戸期の三春藩秋田藩政時代に起きた藩主後継者問題による御家騒動。
家老荒木玄蕃(輝季妹の夫)や、輝季公後妻の実家である佐塚氏が、藩重臣による権力争を憂い藩政の実権を握ろうとして、3代藩主輝季公の嫡男である広季を廃嫡して、代わりに荒木氏から旗本秋田氏に養子に入っていた頼季が藩主の座に就きました。
この結果、広季(就季に改名)は45歳で亡くなり、代わりに荒木高村の子である頼季が藩主となり、三春藩の実権は荒木氏と佐塚氏に握られます。
このことに不満を持つ三春藩重臣達と荒木・佐塚氏との争いから、三春藩に於ける藩政の争いと発展し、さらには、徳川幕府譜代幕閣の老中抗争の先端的様相を呈しはじめ、またその波及は藩内の秋田由来の家臣団と、宍戸由来の家臣団の権力争いも加わり、上は幕府閣僚から町方までに及ぶ“お家騒動”の事件となりました。
幕閣での政争の末に徳川8代将軍徳川吉宗公が介入して裁断を下し、頼季の子である治季(後に延季に改名)を5代藩主に据えて、藩主頼季の閉門、家老荒木玄蕃の蟄居等、多数の犠牲者をだして終幕しました。
「腹切り梅」
亡くなった広季の守役だった滋野は責めを負い切腹を申し渡されます。
その切腹場の紫雲寺に現れた滋野の飼い猫。滋野は「主人の代わりに怨霊となり、この恨みを晴らせ」と言い残し猫の首を斬り自らも切腹して果てます。
その血に染められた傍らにあった白梅は、以来紅梅になったという。
「三春化け猫騒動」
事件後、荒木玄蕃や藩主頼季の夢枕に毎夜猫の怨霊が現れるようになったと言うもので、以来、三春城下の大火の度に猫の怨霊が火を点けてながら駆け回ったと噂話になり、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。
また、三春郊外、貝山の泉沢に「御下屋敷」とよばれる荒木玄蕃の屋敷跡があります。荒木は、幼君を亡きものと企む中で御殿医三宅良庵と老女鳴瀬とを巻き込み、朝の食事に一服盛り、幼君を毒殺したと伝えられています。
その朝、荒木はこの下屋敷にあって舟形の大きな石を西方村の大滝根川から運ばせている最中でした。もう少しで庭に入るという時に、幼君急死の報せが本城からもたらされたので、悲しみを装って急ぎ登城したといいます。
その後、“腹切り梅伝説”の忠臣滋野多兵衛の亡霊譚の下りとなりますが、荒木は御城下の上屋敷には居たたまれず、この下屋敷に逃れ大きな番犬数等と警固の武士を配して引き籠ったとされます。
このとき西方村より運んだ舟形の庭石は、これも滋野の亡霊の祟りで、その後いくら手を尽くしても微動だにせず、庭外に放置されたまま伝説を秘めて風雨にさらされています。
古い広報三春コラム「古蹟萬歩」貝山の荒木屋敷参照
大町の浄土宗引接山紫雲寺、戦国期創設の浄土宗の古刹である、その境内に、三春の歴史を見続ける梅の古木があります。
三春藩主継嗣問題に端を発し、「三春猫騒動」にまつわる正徳事件と、家老荒木玄蕃高村
および四代藩主秋田頼季(玄蕃の子)の閉門を中心とした享保事件は、徳川幕府幕閣から、町方まで巻き込こんだ御家騒動といわれます。
正徳事件・「三春猫騒動」・当時、家老荒木内匠は、世継ぎとなりうる幼君を亡き者とし、我が子を藩主に据え藩の実権を握ろう企んでいました。
しかし、幼君の傳役滋野多兵衛にその野望を阻まれた、やがて滋野は荒木によって無実の罪をきせられ、大町紫雲寺の境内、白梅の木の下で切腹させられ、傍らにいた猫が怨霊と化し、間もなく野望を果たした荒木に祟るようになったと云います。
今も紫雲寺に、残る滋野多兵衛の墓には、猫の怨霊に苦しめられた荒木が、槍で突いたという傷がのこっています、又境内の白梅は紅梅に変わり、猫の怨霊は、約七十年後の「天明の大火」の時再び登場する。
享保事件は、家臣団の勢力争い・対立の末、幕府老中同士の対立を呼び、その政治紛争で負けた、荒木玄蕃高村の蟄居と、その子である、藩主秋田頼季の閉門により、正徳の事件より約八年続いた、御家騒動は、幕閣の介入により幕をとじました。
天明五年二月、八幡町より火の手が上がり荒町、高乾院・荒木家の墓を焼払い、北町を駆け下り、舞鶴城天守を炎上させました、その後も火の勢いは衰えず、大町から南町そして新町へと軒並み家屋を灰にしていきました。
消火指揮に出向いた、時の藩主秋田千季(荒木玄蕃の孫)の避難所・真照寺へ追うかの様に火は、勢いを増し南町,山中、新町へと向かった
真照寺住職が門前まで迎えに出たところ、殿様の後ろに猫の怨霊が見え、袈裟の袂で殿をかばい隠すようにして寺へ向かい入れました。
火勢は、ちょうどその場所・今の昭進堂の場所で、三春全域を焼き尽くした火災は、鎮火したと伝えられています。
この大火後も猫(滋野)の怨霊に夜毎魘された千季公は、真照寺へ、弘法・興教両大師像の中に紫雲寺で切腹した滋野多兵衛の位牌を入れて納め、怨霊を鎮めたといいます。
合掌
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:22 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 歴史講話 |
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