2024-12-22 Sun
中津川城 中津川氏
応永十一年(1413年)の日付記載の「応永仙道国人一揆」小峰満政等二十人連署一揆状 には、中津川三河守秀清(中津河参河守秀清)の名前も見えます。
田村庄司一門とかんがえられます。
時代は下って・・・
天文十年(1541)
中津川城主中津川千々代丸(せんちよまる)の仙道筋での行動を、咎めた伊達氏に対応して、田村義顕、隆顕が、中塚が氏の所領内中津川城を残して、田原谷城(小野町夏井)、及び細田城を破棄した上で、中津川氏の本領を相違なく認めることとした。
田村隆顕は、これらの一連の伊達との和睦交渉の中で、手中にした安積郡の一部余撤退を余儀なくされます。
さらには、常葉氏、中津川氏の帰参を許しています。
このような状況下にあって、三春二代当主田村隆顕と稙宗息女の婚姻は、こうした伊達の圧力のもとにすすめられたと思われます
田村氏が服属的な地位で伊達氏と盟約関係に入ったことを意味する証文が残る。(船引町史より)。※中津川氏追放も記載アリ
天文十一(1542)年に伊達稙宗とその子晴宗が争う「伊達天文の乱」が勃発します。
天正年間(1575~1592) 中津川小次郎親顕(親宗?)(三春三代城主田村清顕の弟)が城主となりますが、城代として中津川の中津川四天王と称された、四宿老家が城を護っています。
仙道表鑑には、「田村清顕の弟 小次郎親隆は中津川の名跡を継ぐ」とあり。
天正4(1576)年頃 田村清顕の会津蘆名攻めに中津川兵部大輔参戦(奥永慶軍記)、中津川城主は中津川兵衛佐
天正15(1587)年 中津川居館 中津川兵衛・治部・利左衛門・太兵衛(田母神文書など)
天正16(1588)年 岩城常隆と相馬義胤の戦いで、田村勢とし中津川左近討死 郡山合戦
天正17(1589)年 小野の田原谷城は中津川兵衛大夫の城なり。後に中津川の城(中津川館か)へ移るの記載アリ
また、伊達政宗の小田原参陣に、田村四代代行の田村宗顕が随行しています。
6月3日付の記載には、田村宗顕は、政宗に随行して小田原に上った際に、中津川丹波・内馬場能登尚信を使者として呈されたとの記載がありますが、伊達家臣となっている中津川氏かもしれません。「伊達治家記録」「三春町史」より
天正十八年六月
去る三日、田村孫七郎宗顕ヨリ中津川丹波(調不知)・内馬場能登尚信方マデ書状ヲ贈ラル。其越、関白殿御前政宗公御存念ノ如ク相調ラル由承知、満足ス、景勝内意ヲ以テ、彼洞中、各馳走二及ヒタルノ由承り、是亦大悦ス、殿下御陣ノ御様 「貞山公治家記録」より
中津川丹波守が伊達政宗の小田原参陣を先導し、同行したとの記載がある資料です。
| ryuichi | 05:04 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
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