2025-01-24 Fri
塵壺403号 「三春人形」小沢民芸代表 三春人形師小沢宙(そら) 令和7年2月吉日発行
「三春人形」小沢民芸代表 三春人形師小沢宙(そら)
日本の代表的な郷土玩具として人気を集めている三春(張子)人形。三春藩が張子人形を作り始めた当時の藩主秋田公は、文化面の関心が高く、歌舞伎や都で流行しているものを取り入れていたと言われ、江戸時代の文化文政期(1804~30)頃に最盛を迎えました。

和紙の柔らかさから細やかな表現に優れ、とても軽く仕上がっていて、下塗りと色付けにより強度が高くなるため売り歩くのにもちょうどよく、外貨獲得の手段としても活用されていました。
三春達磨や干支の張り子は、毎年三春だるま市で縁起物として買われていたために今日まで続いていましたが、三春人形は明治維新後に文明開化や商社であった三春藩がなくなったことで衰退していきました。
しかし昭和の時代になり、高柴デコ屋敷の人形師、橋本広吉さんと小沢民芸初代の小沢太郎(宙さんの祖父)さんが復元させました。
木型に和紙を張り、型から抜き取り「張り抜き」の手法で、人形によっては数個の木型を用いて張り抜きしてから、これらを組み合わせて一体の動的な姿勢に作りあげます。
さらに紙や竹などを差し込んだりして小さな持ち物を本体につける「とりくみ」によって、人形の表情はいきいきしたものになっています。
芝居の一場面や舞など「動」のなかの一瞬をとらえた型や顔の描き方の立体感などは、単なる玩具というよりは、人間性を表現しようとした人形師の自由への息吹が強く感じられます。
小沢民芸代表の三春人形師小沢宙(そら)さんが制作する人形は、歌舞伎の演目、舞踊が題材であるため素朴ながら華やかさがあり人形たちは太鼓のバチや扇子といった小物を持って、のびのびとした動きがあります。
お雛様飾りの三春内裏雛や三人官女、五人囃子、そして赤い色が魔除けということから男子が生まれたら“熊乗り金太郎”や薩摩隼人。さらには福の神や鯛乗り恵比寿、天神などの縁起物、また歌舞伎の三番叟、舞姿、花笠など、変わったところでは唐人形と呼ばれるシリーズなどがあります。
江戸で見聞きした歌舞伎や浮世絵などの流行していたものをモチーフに三春人形は作られていますが、特におもしろいのが“象乗り唐児”です。当時、三春の人形師たちは本物の象を見たことがなくて想像だけで象を造り上げます。
今の象と比べると何かが足りません。それは、大きな耳がないんです。
さらにもう一つ、象さんのシンボルである鼻も短い。また、人が乗れるくらいの大きさとは聞いていたんでしょうが、そこまで大きいとは知らずに子供が乗れるくらいだろうと、子供を乗せた滑稽な比率で作製されています。
小沢民芸では、江戸時代のものを復元しているため手間と時間もかかりますが、希少な材料を使用して江戸時代と同じ手法で作り続けています。「とりくみ」や「絵の具(胡粉)」に混ぜる際の糊は“三千本”の膠(にかわ)、膠とは動物の皮から抽出した古来の糊です。
和紙はその昔はふすまの下地に使っていたような粗末な和紙です。
そして人形足元を支える板は、昔の屋根の下地に使っていた材木の木端。
ともに当時はそこら辺にあったような材料ですが、逆に今はこれらの材料集めが大変です。
また、人形の木型も、型の張り付けた和紙を方から取り外す際に小刀で切れ目を入れて外すという工程上、木型が10年くらいしか持ちません。それを自分たちで制作して補充しています。
1~2か月に制作できる三春人形は、だいたい20体ほど。年間を通して一定の量を生産できると良いのですが、乾燥しやすい冬は制作の効率がいい代わりに、湿度の高い夏場の時期は色付けの乾きがわるくなるので、乾燥させている間に、人形たちのパーツや小道具作りをまとめて行っています。
「小沢民芸の人形を見て“今もこうして、いいな、かわいいな”と三春人形を手に取ってくれたお客様はもちろん、各地のお客様からの御礼のお手紙など連絡をくれる方がいたりとそれが制作を続ける励みでもあります。今後の目標は、現在のレパートリーに加えて、復活していないお気に入りの三春人形の製作です。もちろん木型造りからです。」と宙さんは話されていました。
次世代へつなぎ、今後も残していきたい三春の文化の一つです。
蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!
| ryuichi | 03:16 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
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