2025-01-23 Thu
蛇石の蛇神様 2025年の干支は乙巳(きのとみ)。
今は三春ダムに沈んでしまいましたが、旧中郷村蛇石の蛇神様が鎮座していた辺り、根本川と樋渡川の合流点を三枝谷といっている。
昔は、両岸から古木の枝葉がのびて、うっそうと繁り、その暗い谷を、激流が岩を咬んで、ゴウゴウと音を立てていた。
元禄の頃、この谷間に大蛇が出て里人達を脅かし、藩内を驚かした。
その噂は、江戸表までもひろがっていったほどの騒ぎだった。
時の藩主、秋田信濃守輝季も捨ておくわけにはゆきません。
早速、家老荒木内匠に命じ、藩士総出動で蛇退治をすることになった
先陣には鉄砲祖、弓組の二組を編成、藩主である信濃守自身も、近臣を従えて出馬するという、大がかりなものであった。
松井正右エ門は200石取りの侍だった。彼も毆様の御供を仰せ付けられた。
丁度その折、彼の甥の松井民ニ郎が秋田から来ていて、お供を志願しますが、家臣でないため加入することができず、単独で出かけました。
三枝谷を遠巻きして、鳴物入りの蛇退治が始まります。
予想通り大蛇は谷の大岩を枕にとぐろを巻いていたので、鉄砲、弓の総攻撃を加えた。
怒った入蛇は、大きな鎌首を2米程も高くあげて、舌端火を吹きながら殿様に迫ろうとしている。
これは大変と、殿様は馬を引返して逃れ出たその時である。
物蔭に身をひそめていた民二郎が躍り出て蛇の進路に立ち塞がり、手裏剣を大蛇ののどに打ち込み、大刀を上段にかざして首を打ち落した。
やがて、民二郎は御殿に召し出され、その武勇を賞し“粟田口の太刀”を賜った。
面目を施した民二郎は、召し抱えたいという殿様の希望を固辞して秋田に帰って行った。
お蔭で叔父の正右エ門も代々無役250石の恩賞にあずかったという。
里人達は、崇りを恐れて、鎮守の祠を建てたのが今の蛇神様である。
昔、蛇石村に大蛇がいた。
大蛇の胴回りは三尺、長さは七十尺もあり、山から山へ地にも付かずに這い回っていた。
時折、山から出てきて田畑の農作物を荒らし人畜にも被害を及ぼしていたので村人は恐れ、困り果てていた。
時の三春初代藩主秋田俊季候は、この大蛇の話を聞き、何とか退治しなければならないと勇気ある侍を差し向け、何回となく大蛇退治を試みたが、その都度失敗に終わっていた。
藩の槍指南役の松井民次郎という者が大蛇退治を聞きつけ、単身で大蛇退治に乗り込んだ。
その付近は川と岩と山とが神秘的なところで、近くの山頂は「蛇枕」と呼ばれて大蛇の住処とされていた。
ここで民次郎は大蛇と出くわした。大蛇は鎌首を高く持ち上げて、ものすごい形相で睨み付け、人呑みにしようとした。
民次郎をは恐れず、槍をかまえて半刻も睨み合っていた。民次郎の態度にしびれを切らした大蛇は怒って襲いかかってきたが、民次郎は自慢の槍で応戦した。
しかし、槍を奪われてしまった。
そこで短剣で大蛇の急所を突き刺すと、血が滝のように流れ出し大蛇は音を立てて倒れた。
あたりの川は、その大蛇の血で赤く染まったという。
このことを聞いた秋田候は大変喜び二百石を与えたという。
村人たちは安心したが大蛇のたたりを恐れてお宮を建ててその霊を祀った。
現在も蛇石の厳島神社の境内裏手には大蛇の頭だったと言われる大石が残されている。
蛇石の蛇石王子神社は、蛇石鎮守として祀られ「王子権現様」とよばれていました。
以前は、世帯数も五十戸ほどあり、祭礼も賑やかだったと云われています。
11月3日に行われていますが、かつての祭礼は、旧歴の9月19日に行われていました。
前々日に若連衆が集まり、社殿内外の掃除からはじまり、五反幡を立てて、神田の収穫米で神酒の「どぶろく」と「甘酒」を造り込みます。
祭りは、宵祭り、本祭り、後祭りと三日間行われ、本祭りには、三匹獅子舞が村内の各戸を巡り、厄をはらっていました。
この三匹獅子舞は、午後三時ごろ常宿で略式三種を舞ってから王子神社へむかいます。
途中、二十三夜塔の前で一回、蛇神様(弁天様)前では、「養蚕神のためにも」といって二回舞います。
王子神社前では、三春城下山中の田村大元帥神社の方角を向いて「上げ獅子舞」と呼ばれる舞いを奉納します。
このあと獅子頭を社殿に供えて参拝し、辺りが薄暗くなるのを待って全種目を演舞します。
さらに、常宿に戻ってから「六じょう獅子」を舞います。
尚、蛇石の三匹獅子は「むぐろ(モグラ)獅子」俗称で呼ばれていましたが、これは舞の中に中腰で両手を前に伸ばす所作がもぐらの動きに似ているところかに由来すると伝えられていました。
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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