2025-06-11 Wed
田村大元神社 随神門(ずいしんもん)。旧仁王門 明治時代の落書き?
三春五万石の領内総鎮守だった現田村大元神社の三門 旧仁王門・随身門(現在は随神門)
明治維新の廃仏毀釈前の旧藩時代には、正面が仁王門と呼ばれ、社殿側を随神門と呼んでいたんだろうと考えていますが、その随神門の左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々(随神)、左大臣とも称される豊石窓神(とよいわまどのかみ)、及び右大臣とも称される櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が、それぞれ弓矢をもって鎮座しています。
子供の頃より慣れ親しんだはずの田村大元神社の随神門ですが、よくよく見ると、その右大臣、櫛石窓神の背後の板に何やら明治の年号や名前文字、田村大元神社などと一緒に、天狗を連想するような似顔絵や“ねのへのもへじ”の顔、そして、ローマ文字などが見えます。
これは驚きです。
明治期に書かれた落書きらしきものがあったとは~
中には、小若連の文字や大世話人~ というような文字も見えます。
中に入ってじっくりと調べたいものです。
尚、随身(ずいじん)門とも書かれた書物もありますが、随身とは、御随身(みずいじん)と称し、平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことです。
旧三春藩領内総鎮守「大元帥明王」の仁王門(現田村大元神社随神門)です。
幕末の秋田藩政下、領内人足役三千人高にて慶応三年に完成した、入母屋造り八脚門です。
これが秋田三春藩としては最後の大工工事でした。
翌年、戊辰の役、会津戦、明治維新と激動期を迎え、竣工後二年で廃仏毀釈の災難に遭遇します。
学頭坊泰平寺は廃棄され、仁王門自体は、まだ新しいという事で随神門として残されましたが、阿吽の金剛力士像は、別当職であった真照寺に移されました。
以後、この門は随身門として、正面には、左大臣、豊石窓神。そして、右大臣、櫛石窓神が鎮座していたんだろうと考えています。
仁王様が、田村大元神社の随神門(仁王門)へ新町氏子によって戻されたのが昭和40年ごろですので、約100年間は、この右大臣、左大臣の場所は何が収まっていたのかははっきりしません。
したがって、この落書きがされた場所にはなのもなかったのか?とも考えられます。
年号から推察するに、明治期の社殿の新築の記念、もしくは祭礼復活の記念等々想像は膨らみます。
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| ryuichi | 03:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩総鎮守 大元帥明王(現・田村大元神社) |
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