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三春盆踊り考 2025







お盆はもともと正月と対をなす、祖先の魂をお祀りする行事。

江戸時代までは旧暦7月15日がお盆の中心でした。

ちなみにこの日は必ず満月で、街灯のない時代、祖先の魂が迷わずに家に戻れるように、真夏の明るい夜をお盆の中心に決めたようです。

   もともと伝統ある盆踊りの多くは、戦国時代に戦死者の霊を祭るために始まったところが多いようです。

しかし、社会が安定するにつれ、念仏踊りや風流踊りの影響を受けて、共同体の楽しいイベントのひとつになっていきます。

  そして、盆踊りが今のような庶民の楽しみになったのは、江戸時代。







三春城下の盆踊り

祈りの形から民俗芸能が生まれました。


現在の盆踊りは、仏教の先祖供養の意味合いが濃くなつていますが、もとは神や精霊を迎える祭りの一つです。

闇につつまれた静寂と祖先供養の敬虔な気持ちが満ちる踊る姿は、美しい「祈り」の姿であって、近頃よく表現されているような「妖艶」なものではありません。

魂に響く太鼓の音や魂を引き込む番楽の動きと同様に、流れるように様々に変化する踊りは、観客の魂と一体となって、清らかな祈りを捧げているように見えました。







江戸期の、三春盆踊りには、江戸時代の飢饉の際、越後や北陸から田村地方に流れてきた避難農民によりもたらされたと考えるのが妥当だと面ます。




 

 八幡町末、城下境の日蓮宗法華寺の外側、三春城下黒門外に「踊り場」という地名が残ります。

江戸期にあった大桂寺の門前にあたります。


ここは、城下と農村の境目、所謂「隈」地帯に当たります。

江戸中期から末期に頻繁に発生した飢饉により領内からの避難民受け入れ施設を設けて施粥を施していた場所とは隣接します。


この場所で「盆踊り」が盛大に開催されていたというところに、多数の死者を出しましたが、その霊を慰めるために踊りが盛んになったことは容易に想像がつきます。


また、城下では新町の競り市場での盆踊りが有名でした。


こはは、明治から大正昭和の初めにかけて庚申坂新地遊郭があったことに由来します。

また、新町は、半農の商人や足軽が居住していた町というところも関係しているのかもしれません。

さらに、楽内や込木と境を接しているため、城下の中でも身分制度が希薄的な感覚があった地域です。


遊女がこの時だけは、郭の外に出て自らが楽しめた行楽で、踊り手もその御女郎につられて多数集まってきたと伝わっています。

江戸期以後、特に大正から昭和にかけての盆踊りは、男女の出会い的要素が多分に多く含まれていました。


時代的に、まだ、貞操観念の希薄や非人差別が尾を引いていた時代に、老若男女よも不合法な男女の出会いを求めて、太鼓や踊りをするためにも編み笠をかぶって顔を隠すこともあったように思われます。








昭和40年代に、それまで各字町内会で独自に叩き、踊っていた三春伝統盆踊りを「観光三春盆踊り」として統一して、町内ごとの盆踊り廃止論に端を発した近年盆踊り事情


100人居れば100人の盆踊りがあります。

太鼓を叩く人、踊る人、見る人、屋台露店の人、そして先祖供養の人などなど様々な方々が、盆踊り(お祭り)というワードで一つになって、それぞれが楽しんでいる。



笠を深く被って顔を隠すようにして踊る地域があります。

顔を隠すことでその人の個性や日常性を消し去り、「依代としての人」になるものでしよう。

正に夏から秋に向かう頃に行われる盆行事は、こうした日本固有の精霊信仰と、仏教の孟蘭盆会が習合してできた行事です。






大正期の踊り場での「盆踊り}


踊り手は、浴衣を着て踊ります。

浴衣とは、本来「ハレ着」とされています。

「ハレ着(晴れ着)」というのは「ハレ(非日常)」に着るものです。

祭礼で山車を曳く人、神輿を担ぐ人、その他、祭りに関係する人は、古来より礼装として浴衣を着ていました。

浴衣の語源は「湯帷子(ゆかたびら)」で、神に奉仕したり、物忌みをする者が、沐浴の後で着る物という意味がありました。

いまは綿の単衣ですが、古には麻の単衣でした。

湯帷子(ゆかたびら)は江戸時代になると、盆踊りの流行でさまざまに変化し、また、元禄のころになると、湯治場の温泉浴衣がつくられます。

さらに、浴衣は合羽代わりの道中着にも用いられるようになります。  


日本の庶民の暮らしに深く根づいた伝統芸能ですが、盆踊りは、明治時代の神仏分離令と昭和初期戦争中の遊興禁止令と近代に入ってから二度も国から禁止されています。 







竹久夢二「三春盆踊り」 三春町史より 


三春盆踊りでは、みんな手ぬぐいを頭に掛けて、いわゆる“ほっかぶり“をして踊っていました。

これは、お盆という意味のから(祭礼時も同じ意味)、この手拭は“身を改める”という意味合いあったようです。






ほっかぶりをする手拭の効果は、各所で見られるように深い編笠などと同じように、盆踊りの「仮装性」を表すものだとも考えられています。

顔を隠して誰かわからなくすることにより、盆にこの世に戻った祖霊・精霊が、ともに踊っているということを示しています。


もちろん、顔を隠すことで、誰彼気がねなく思いっきり踊れるという解放効果もあったことでしょう。







三春盆踊りは、参加も服装もまったく自由ですから、普段着でまったく気にせず踊っていますが、手拭一本あっただけで気分はもう盆踊りモードに突入です。

三春盆踊りのメイン会場となる大町お祭り広場では、月明りと電球提灯、そして、それらを邪魔しないようにと、世界的な照明デザイナー石井 幹子(いしい もとこ)さんにデザインされた街路灯が配され、女性をよりいっそう美しくみせる仕掛けでもあり、趣ある雰囲気を醸し出しています。


そして、昨今の若い女性は、メイクや髪形もばっちり決めて、浴衣を着ておしゃれをしている可愛い方が多く、手ぬぐいをかぶって顔を覆う若い女性はだんだん少なくなっているようです。







盆踊りの衣装の定番ともいうべき踊り浴衣も、お洒落聞きこなしている方が多くみられます。

その多彩な柄がおしゃれで、見ている方も着る方も楽しいものですね。

三春盆踊りも、お盆に招いた御霊をあの世へ送るための念仏踊りが始まりとされています。







尚、江戸時代の武士はどうやら盆踊りの参加については、禁じられていたらしく、幕末の越後長岡藩家老河井継之助を描いた司馬遼太郎著小説「峠」



この小説の中に、「 河井継之助は長岡甚句の盆踊りが大好きでよく 行ったのですが、この盆踊りには武士は参加できないことになったいたそうです。

しかし 継之助は、妹の浴衣を借りて、 顔をほっかぶりで隠して遅くまで町の人と踊ったという 」と記載されていました。





盆踊りの夜、ほろ苦い思い出はあります。

若い頃の話です。

当時は三春の在郷では青年団主催の盆踊りが各地で盛んに開催がありました。

もちろん城下でも観光盆踊りから新町はじめ城下各町でありましたが、ここは男若集がメインとなり踊りに若い女性がいても賞味期限赤信号点滅か知り合いだらけという状況です。

しかし、青年団の盆踊りには女性がワンサカ居ます。このチャンスを逃すてはないと私たち城下の新町若連は選抜隊を結成して応援と称して今日は中郷、明日は中妻、そして…といった具合に出張太鼓に出向いていました。


そして、ここは当時最大の盆踊りが繰り広げられおり、各地の青年団が集まり、色鮮やかで華やかな浴衣、そして各青年団の法被に白い短パンを纏った若い女性で溢れていました。


漂う匂いも汗と香水が合わさり漂っています。ここは桃源郷か!マハラジャか!という感じでした。

こうなると太鼓どころではありません。ギターを弾いている場合ではなかった若かりし頃のロックンロールパティーの如く、ダンスフロアーでチークタイムまで一直線の再来です。

踊り手に混ざり、ぼんぼり提灯に照らされた素足、そしてうなじが妙に光り輝く若い女性青年団員のみなさんと楽しいひと時を過ごしました。

楽しいひと時というのはあっという間に終わりがやってまいります。

するとお待ちかねの懇親会か開催されようとしています。

私たち新町もすっかり仲良くなった女の子達と手を取り合ってその懇親会の会場に向かいますと「ここから先は青年団だけです」と役員さんに冷たく止められました。


「エ、そりゃあんまりですよ、マハラジャでも黒服に止められたことのないんですぜ〜お兄さん」ってなもんです。


するとお手伝いの区長のおじさん達から声がかかり「オレげの婆っパが作った漬物と日本酒があっからこっちで呑め〜」と区長や老人会の役員さんと誰もいなくなった盆踊り会場の櫓の下で男だけの酒盛りとなりました。


時折り、宴会場の会館からは若い女の子たちの楽しそうに笑う声が漏れ聞こえてきます。その声は夜もふけるまで真っ暗になった盆踊り会場にこだましていました。




三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 03:17 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記::三春盆踊り・だるま市 |