2025-10-22 Wed
「奥州三春領荒和田村御年貢割帳」 荒和田 名主 橋本猶右エ門 文化十三年甲子年 八月
江戸築地御蔵 秋田中務様 壱ヶ年 御年貢 御免町代官様
田村庄司田村家、及び三春城主田村家の縁となる富沢橋本、芦沢橋本、高野橋本、荒和田橋本の末裔の一家、荒和田の橋本さんにご来店いただきました。
旗本五千石秋田氏の年貢の写しのコピーを持参して見せていただきました。
荒和田橋本家は、戦国期には、荒和田舘ヶ守(森)、田ヶ森の館主として田村家を支え、田村家改易後に於いても、御春輩として在所を守り、上杉、蒲生、加藤の代官を経て松下家は村長として、さらに江戸秋田藩藩政下では、大名分地旗本寄合席五千石の秋田氏の代官補佐の名主として五千石領内を取り仕切り、名字帯刀、裃袴を許されていた家系です。
旗本寄合席五千石秋田淡路守家は、三春秋田家二代藩主秋田盛季が、幕府規定の「後継者なしの場合は領地召し上げ大名家廃絶」という厳しい禁令の対策として、弟の秋田熊之丞季久公に、七ヶ村五千石を分割し、いわゆる大名分地とし創設された徳川旗本家です。
この時に三春領からの分割された村は、丹伊田・富沢・荒和田・大倉・新舘・石森(分村)・つくも田の各村となります。
この敷地は、戦国時代末の天正18年から寛永4年までの40年間は、会津蒲生、会津上杉、二本松加藤と三春を兼領した歴代の代官所が置かれていた場所で、江戸期には旗本秋田氏の代官の宿所となっています。
また、橋本さんはもう一冊持参していただきました。
詳細は不明ですが、秋田氏時代の三春藩の詳細、御城下や御城の門や城下町、お寺の石高、更には領内の石高の配置や様子が詳細に記された冊子です。
日光東照宮 徳川家へ献納した水晶石の記載もあります。
これはいったい何?
しかも旗本秋田五千石の領地名主の橋本家に伝わっていた意味は?
旗本五千石秋田氏は、三春二代藩主秋田盛季の弟季久に始まる旗本五千石秋田氏
江戸屋敷は、築地本願寺の西手(現中央区築地四丁目電通本社周辺)、そして御公儀拝領屋敷(現江東区平野一丁目老人福祉センター付近)もありました。
五千石秋田氏は、徳川家直臣の旗本籍ですので、江戸定府と定められていましたので、領主秋田氏が領地の赴くことはありません。
また、大名分地ですので代官一人の他には家臣の常駐も無く、その代官は淡州様代官(初代季久官職淡路守のちなんだ通称)と称され、屋敷はお不動山の麓にありました。
初代季久 母は土浦城主松平伊豆守信吉の娘。慶安二年六月十日分知の礼に登城し将軍家光に初見します。それを機に右衛門季久と改めた。寄合組に編入。
万治元年閏十二月、従五位下淡路守に任官、以来、度度公役(小普請役)を勤める。
万治二年八月、赤坂口警衛 寛文五年二月、中奥小姓として日光山法会に供奉、高家吉良義同行 天和三年八月、駿府城加番
尚、貞享四年六月、その年1月に始まった「生類憐みの令」に反して、家臣が吹矢で燕を射落とした事件に連座するところ、取り調べが行き届いていたとの理由で不問に付された。元禄六年九月御小姓組番頭に昇進し、宝永元年八月辞職、寄合組。
二代季晶 采女季豊 延宝三年十月十四歳にて将軍家綱に初見、宝永四年八月四十六歳にて家を継承。岳父は、柳生宗冬の女婿朽木則綱(大番頭六千石)であった。
三代季成 季瑞、内膳、兵部と称す。正徳元年、十二歳で家督継承し、同二年二月井伊又五郎直定らとともに将軍家宣に初見の礼を取り、寄合組に入った。
享保二十年五月、定火消役となり、同年十二月布衣着用を許されている。
元文四年に病のため寄合組に入り、寛保元年十二月に致仕。妻は三春三代藩主輝季の娘おトヨの方であった。
四代季通 内膳。元文元年三月、将軍吉宗に初見し、寄合組に入り、寛保元年十二月、父致仕の日に家を継承します。寛延三年、定火消役となり、その年の暮れに布衣を許された。宝暦三年九月小姓組番頭となり、その暮れ、大和守に昇任。同九年十月西城書院番頭となった。明和二年八月寄合組に戻り、翌年八月致仕し、養老料三百俵を賜わった。
五代季高 兵部 宝暦十三年三月将軍家治に初見し、西城小姓となる。明和元年十二月内膳正に進み、翌年八月に家督を継承。明和七年暮れ中奥小姓に転じ、安永九年二月寄合組に戻り、天明元年八月致仕して、康瀛(こうえい)と号す。妻は土屋篤直の養女、後妻は三春七代藩主秋田定季の娘お富の方であった。
六代季済(すえまさ)中務、内膳、季礼 毛利高丘の四男である。
天明元年八月家を継ぎ、その年の暮れ将軍家治に初見。文化元年三月致仕。
七代季穀(すえつぐ)左近、中務 文化元年三月、季済の養子となった。
文化四年、駿府城加番、文政元年、深珠院殿葬送警衛 文政四年十月、定火消役
同十二年十二月小普讀組支配に転じ、天保二月九月、浦賀奉行となり,同八年十月小姓組番頭となった。その暮れに淡路守に任じられ、翌天保九年、西城書院番頭となり、西城造営に際し百五十両を献じ、時服を賜わっている
八代季幸(月編に幸)帯刀、中務を称し筑後守に任じた。天保二年十二月、家斉に初見し、弘化111年十一月召し出され、嘉永六年家を継承し、中奥小姓となった。元治元年五月寄合組に戻り、慶応元年に没した。
九代 中務 名乗り不詳。尚、慶応二年八月、寄合銃隊頭に秋田玄次郎(元次郎)の名を「統徳川実紀」に見いだせるが、委細不詳。
慶応二年十二月布衣を許され、同四年勤仕並寄合より寄合肝煎となった。
明治維新、江戸幕府瓦解の後、五千石の領地を召し上げられ俸禄を失った秋田淡路守家は、江戸を離れて帰藩し、小野寺市太夫の南町屋敷に入ります。
| ryuichi | 03:15 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::笹山・荒和田 |
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