2025-12-03 Wed
伊勢朝熊(あさま)にある石城山永松寺様の本堂落慶法要に臨席してきました。
永松寺は、三春人としては「お伊勢参り」の際には欠かせない場所だと思っていて、お伊勢参りの際には、實季公の墓参とお寺様であいさつに伺っていました。
青山紅葉朔風趨
五色雲飛殿裡隅
今日落成茲再造
净財辛苦徳檀徒.
この度は、ご縁があり本堂落慶式法要に際して来賓として案内をいただきまして、三春人としてお祝いに駆け付けた次第です。
本堂と共に、御位牌の入る厨子やお位牌も漆で再生され、須弥壇に安置されていました。
修復された厨子の中には、安倍實季入道 戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」の位牌が収められています。
そして、手前の御位牌は、片山殿、娘のお千世方のお位牌も修復され、同じ須弥壇の上に安置されています。
「穹清院殿功月昌光禪定尼」 片山殿
「月峰晴挂大童女」 於千世方
永松寺は内宮から車で10分余の神宮神田近くにあります。
三春藩秋田氏の初代藩主河内守俊季公の実父で、高乾院殿前侍従秋田城之介安倍實季入道、秋田實季(あきたさねすえ)公が、徳川幕府によって幽閉され、亡くなるまでの約30年、永松寺の草庵にて蟄居生活を送ったお寺さんで、幼くして亡くした娘と側室片山氏と共に墓所にて眠っています。
安東秋田家は、嫡男の河内守俊季公や秋田家家臣による幕府への忠節と、父實季公の正妻円光院は、管領職細川昭元の娘でその母は織田信長の妹お犬方で、徳川2代将軍秀忠(生母お江はお市の娘)とは又従弟という関係から幕閣に様々な方面から働きをかけて改易は免れて三春藩五万石の大名として明治維新まで続いています。
實季公は、「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、優れた和歌をはじめ、書道、茶道に通じ、又、薬方にも詳しく、秋田候教示万金丹の名もここから出たと伝わっています。
墓碑には、「高乾院殿前侍従厳梁空大居士」「万治二年己亥(1659)十一月廿九日」「安倍実季入道」とある。又、傍には、その幼女、側室片山氏の墓石もあります。
同じく来賓として参列された同席の方は、なんと石田三成の妹婿の福原右馬助公の末裔の方でした。
宴席の中でしばし歴史談義に花が咲き戦国の世に思いを馳せることが出来ました。
この福原公とは、豊臣秀吉の小姓頭で、「慶長の役」では、三成の差配で軍監として朝鮮に渡り、後の関ヶ原の合戦で東軍に組する大名たちの軍令違反を奉公しています。
慶長五年(1600)、関ケ原で敗れ、大垣城にて抗戦しますが、和議に応じ出家して「道蘊」(どううん)と名乗り、わずかな家来と共に朝熊永松寺に謹慎をすべく落ち延びますが、永松寺門前にて東軍側の追っ手に討たれたと聞き及びました。實季公墓所の下にある墓碑には、「一任殿順積道蘊禅定門 濃州大垣城主福原右馬助」「慶長五年十月二日」と刻まれています。
付き人 交野五郎佐衛門奉納の天和元年(徳川綱吉御代1681年)の灯篭があります。
春陽士譜では、明智の狐との記載や、伊勢交野郷で拾って守役として養育したとか、がありますが詳細は不明です。
以下、三春秋田氏から永松院へ役領を寄進した際の受領書
右として
高乾院殿前拾遺空巖梁空大居士の墓所の掃除料) 謹んで永松庵の下に寄付し終えた。
そもそも、寛永年中秋田城介安倍実季が、常州(常陸) 宍戸から勢州(伊勢)に赴かれるときに、愚臣交野重兵衛常信、早川又兵衛氏職らが駕籠に付き従って、朝熊の郷に住んだ。
家務を統括し、侍として、しもべとして奉仕すること三十年たったことだが、ついに万治巳亥の年(万治二年/一六五九)に易簀(他界)となった。その後、奥州三春城主 (秋田) 安房守盛季がその功績に感じ、俸禄を賜り、子孫も連綿とつながり今も絶えていない。
しかし、実季の遺徳である愚子孫らは、雨にも風にも志は馳せるといえど、百里の外の海が阻むところ、山が阻むところにて、古い墓所の塵や芥を掃うことができず、徒に時が移ること数十年、今に至った。
宝永戊子の年(宝永五年/一七〇八)、五十回忌をここに迎え、孝心のある曾孫(秋田) 信濃守輝季が孝養として田地を永代茶ノ湯料としてなぞらえて寄進した。
【不俊(不肖の私)たちまたはその後付き従った者の僅かの畑地は永松庵の落芥を掃くに要するものである。】
宝永六年三月
(日向訳)
伊勢度会郡朝熊村
石城山永松庵
中巌座元
※ 渡邊日向 訳
秋田城之介・安倍姓安東入道実季公墓所
永松寺、伊勢神宮より少し外れた伊勢朝熊山の麓にある臨済宗南禅寺派の禅寺。
山門脇の階段を上った小高い丘に実季公の墓所はあります。
戒名、高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士 秋田城之介 安倍實季入道
江戸時代初期の寛永7年、徳川幕府の命令で宍戸城主安倍・安東実季(あきたさねすえ)はわずかな近習を引きれ、伊勢の朝熊へ蟄居を命じられます。
長男の初代三春藩主秋田俊季との不和に加え、従来からの檜山系と湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとも考えられています。
寛永7年以降約30年にわたり、実季は伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を余儀なくされ、万治2年(1660年)、同地にて死去。 享年85
実季には、正室円光院と側室との間に、6人の男子と3人の女子をもうけていますが、朝熊幽閉には、側室の片山氏とその娘千世姫が同行しています。
片山というのは姓であり、出身や俗名は明らかにはなっていませんが、後年落飾した後は法名を「穹静院」と号しています。
お千世姫は、実季公の第二子であると思われます。
千世姫は、実季が齢50歳を過ぎた頃に出来た娘であり、片山氏は実季に最も尽くし、そして、最も愛された側室であった事だろうと想像がつきます。
しかし、そんな平穏な暮らしの中、寛永14年(1637)3月、愛娘の千世姫が、小児喘息やリウマチを患っていたとされ懸命な看護も虚しく、わずか11歳で病没します。
片山は、不遇の中、異郷の地で娘を亡くしたことを憐れんで、落飾し“穹静院”と号して、夫である実季と共に、亡き愛娘の菩提を弔いながら余生を送ります。
そして、片山氏本人も、承応元年(1652)12月、夫である実季に見守られながらその生涯に幕を降ろします。
「お陰参り」 伊勢神宮参拝と秋田城之介安倍實季入道墓参の旅
江戸末期の天保五年(1835)、早春から初夏にかけて行った“伊勢神宮参詣”の道中記「御代参日誌」
三春から江戸、箱根、富士山、桑名、伊勢神宮、北野天満宮、熱田神宮、そして鎌倉鶴岡八幡など、行く先々でのエピソードや当時の風俗をユーモラスに描き、今にも書物から飛び出しそうです。
伊勢では、三春藩士らしく伊勢朝熊の永松寺にある三春藩主初代俊季公の実父である高乾院殿、前侍従・秋田城之介安倍實季入道公墓所にも参っています。
この安東秋田實季公は、かつては「日之本将軍」と称した安東水軍の統帥で、正室“円光院”の父は、室町幕府管領家の吉兆細川氏の当主昭元、そして、母は織田信長の妹“お犬の方(お市の方の姉)”です。
即ち豊臣秀吉正室“淀君(茶々)”や徳川二代将軍秀忠正室“崇源院(お江)”と従姉妹という関係になります。
三春秋田氏の先祖は、平安期の武将安倍貞任の家系とする安東氏で、平安の頃より出羽、東日流(津軽地方)を領有し、強大な戦力を持つ貿易水軍「安藤水軍」を率いて樺太や蝦夷(北海道)・朝鮮半島、そして中国は元より東南アジアやインド近郊まで海運貿易をしていた「蝦夷探題」を継承する海将の一族でした。
天正19年(1591)には、天下統一を果たした豊臣秀吉から「奥羽仕置」の際に、秋田郡5万2千石を安堵され、御蔵入地(秀吉の直轄領)2万6千石の支配も命じられますが前後し
て蝦夷地における勢力(蝦夷探題職・海外交易海運事業権等)が没収されます。
同年の「九戸政実の乱」の鎮圧や慶長20年(文禄元年)からの太閤朝鮮派兵、そして伏見城の築城などに従事、「関ヶ原合戦」では、徳川家康より「慶長出羽合戦」に於いて上杉、佐竹(西軍)に与したとの嫌疑をかけられ、佐竹義宣の秋田転封に伴って常陸国宍戸5万石への転封を命ぜられ常陸宍戸藩初代藩主となりますが水軍を取り上げられ「安東水軍」は終焉を迎えます。
後の大坂冬・夏の陣では、徳川勢力(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や祖父伝来の土地である秋田への復帰や水軍を召し上げられたことなどへの不満が幾重にも募り、剛毅な戦国武将らしい気骨ある實季公らしく、それらの不満を徳川幕府二代将軍秀忠や三代家光にぶちまけて居たのでしょう、官位からの苗字「秋田」を名乗らず「安倍」や「安東」そして「生駒」を名乗ったりしています。
本来であれば宍戸藩安東秋田氏自体が改易なのでしょうが、生真面目な嫡男俊季公や家臣一同の幕閣への働き掛けもあり實季公の朝熊幽閉と相成ったと私は思っています。
幕府からの命で、宍戸藩主を俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、自身は“領内に圧政を布いた”ということで寛永7年、わずかな近習を引き連れて伊勢の朝熊(あさま)へ蟄居を命じられます。朝熊には側室の片山氏とその娘である千世姫が同行しています。
千世姫は、實季公が齢50歳を過ぎた頃に出来た愛娘でしたが体が弱く、僅か11歳という若さで病没。そして、片山氏も、実季に先立つこと8年前にその生涯を閉じます。
實季公本人は、約30年永松寺草庵にて蟄居生活を送り当時としては長命の85歳で生涯を閉じ、愛娘と妻が眠る墓所に埋葬されています。その墓石には戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」そして、秋田城之介という官位銘と安倍實季入道の法名が刻まれています。
また、菩提寺である永松寺本堂の須弥壇には實季公のお位牌の納められた厨子、そして片山殿、娘のお千世方のお位牌が安置されています。
幽閉されたとはいえ朝熊での實季公は、歌道・文筆・茶道にも優れた教養人で「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し優れた和歌や文筆を残しています。
]江戸期より明治初頭にかけて伊勢神宮参拝のお土産として名高い万能薬「秋田教方萬金丹」(現・萬金丹)は、實季公直伝によると伝えられています。
「
我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」 凍蚓
蒼龍謹白 さすねけぇぞい三春! 拝
三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記::伊勢神宮参詣 朝熊永松寺 |
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