2025-12-31 Wed
塵壺414号 「朝熊永松寺落慶法要と伊勢神宮参拝の旅 ご縁に感謝」 令和8年1月発行
伊勢朝熊(あさま)にある石城山永松寺様の本堂落慶式の法要に、来賓として参列してまいりました。
この永松寺の山内にある墓所には、三春藩秋田氏の初代藩主河内守俊季公の実父で、秋田實季(あきたさねすえ)公(高乾院殿前侍従秋田城之介安倍實季入道)が徳川幕府によって幽閉され、逝去するまでの約30年間にわたって蟄居生活を送った草庵があった寺です。
幽閉の理由は諸説あり、秋田家のお家騒動や関ヶ原の際に行った慶長出羽合戦の軍令違反や大坂冬の陣での大敗などを理由に幕閣から御咎めを受けて常陸宍戸転封、それらを苦慮した嫡男俊季公や家臣団との不和などの理由から幕閣へ蟄居幽閉を願い出たなどが挙げられます。
一方、安東秋田家は俊季公や家臣による幕府への忠節と、實季公の正妻円光院の母は、織田信長の妹でお犬の方と呼ばれた人物で、父は細川昭元という人物で、室町幕府の管領を務めていた細川家の直系にあたり、俊季公は母方の血縁を通じ江戸幕府3代将軍徳川家光の又従兄弟という関係などから幕閣へ多方面からの働きかけによって相続が認められ、三春藩五万石の大名として明治維新まで続いています。
朝熊の實季公は、幽閉されたとはいえ「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、和歌をはじめ、書道、茶道に通じ、薬方にも詳しく「秋田候教示万金丹」もここから出たと伝わっています。
代々三春藩主秋田氏は、生前の賄料並びに亡き後の墓所管理料を持参していました。
郡・町奉行を務めた三春藩士で、絵師の中村寛亭・匡(ただし)は、藩主名代として天保五年(1835)に永松寺、そして伊勢神宮へ参拝道中の様子を描いた旅日記「御代参日誌」を記しています。

旅日記「御代参日誌」より

これらのご縁から三春人としては「お伊勢参り」の際には永松寺さんへの参詣は欠かせないと思っていまして、實季公の墓参とご住職様へのあいさつに度々伺っていました。
この度は、本堂落慶式法要に案内をいただきお祝を言上したく、三春より馳せ参じた次第です。
しかも来賓上座の案内され、気分はもう殿様の名代として「御代参」する春陽士です。
本堂と共に、御位牌の入る厨子やお位牌も漆で再生され、修復された厨子の中には、安倍實季入道戒名「高乾院殿前侍従隆巌梁空大居士」の位牌が収められ、片山殿、お千世姫の
お位牌も修復され同じ須弥壇の上に安置されていました。
また、同寺に墓所のある福原長堯(ふくはらながたか)右馬助公の末裔の方も同席されていました。
この福原公は、豊臣秀吉の側近で、石田三成公の妹婿で、「慶長の役」では三成の差配で軍監として朝鮮に出陣し、後の“関ヶ原合戦”で東軍に組した大名たちの軍令違反を報告しています。
慶長五年(1600)、関ケ原では西軍の福原は敗れ大垣城にて抗戦しますが、東軍からの和議に応じ「道蘊」(どううん)と戒名をいただき出家して、わずかな家来と共に謹慎先の永松寺へ落ち延びますが、その門前にて刺客に討たれたと聞き及びました。
臨済宗南禅寺派の永松寺さんは、昔より伊勢神宮の鬼門を守る寺とされる伊勢朝熊山金剛證寺の末寺となっています。
金剛證寺には、伊達政宗公、愛姫(陽徳院)夫妻の娘五郎八姫(いろはひめ)の婿で、徳川家康六男越後少将松平忠輝公も、伊達離縁後に兄の二代将軍秀忠公から所領没収の上改易を命じられ流罪になり同寺で謹慎しています。
※忠輝公は2年後には行儀不埒という理由から寺から追放され、飛騨高山から諏訪へ流され92歳で死去、諏訪貞松院に埋葬されています。
宴席の中で、ご臨席された方々と様々な歴史談義に華が咲き、戦国の武将に思いを馳せました。
今回の伊勢行きは、友人夫妻を案内して“お伊勢参り”も企画していました。内宮さん近くの神宮会館に宿を取り職員の方々が毎朝実施している“早朝参拝”へ参加して「第63回神宮式年遷宮」令和15年秋「遷御の儀」に向けた関連祭事の話も伺いながら内宮の参拝をしてきました。
司馬遼太郎氏は”お伊勢参り”を「暑さも寒さ、虫の声も、手を洗う五十鈴川に泳ぐ小魚も、そして飛ぶ鳥さえもご利益がるような心持にあり、本日この時に一緒に参拝されている参詣者の方々にもご縁を感じる」と称されていましたが、正にご縁に導かれた伊勢の旅でした。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 03:55 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
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