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中斎大塩平八郎と伊勢 神宮 




    中斎大塩平八郎と伊勢神宮 


大塩平八郎は、蒼龍窟河井継之助や南洲西郷隆盛と同じく陽明学の徒で、当代きっての陽明学者でした。陽明学とは、中国の明代に、王陽明という人物がおこした学問の1つで、その学派を代表する「事上磨錬」「知行合一」「致良知」を深く学んだとされています。


大塩は、大阪与力職を辞した後に開いた私塾「洗心洞」において門弟たちに講義しています.

後に「中斎学派」と呼ばれる一派を形成するまでになっています。

その中心思想は「知行合一」(行動が一致して初めて知が生きる)を根幹に据え、「理想や理屈ばかりこねて実際の行動に移さないということは、何も学んでいないのと同じだということで、その知識には行動を伴い実践しなければならない」というものです。

「形よりして言えば、則ち身は心を裹[つつ]み、心は身の内に在り。道よりして観れば、則ち心は身を裹[つつ]み、身は心の内に在り」――大塩平八郎『洗心洞箚記』





大塩平八郎は、二度、伊勢を訪れている。

神宮神官であり、国学者でもある御師権太夫足代弘訓(あじろ・ひろのり)との親交があり御師宿を取っている。

一回目は、天保四年七月十七日。大塩中斎が富士登山からの帰途、朝熊山頂で著書「洗心洞劄記」を焚(や)いて己れの思想(こころ)を天に伝えたいと、伊勢へと思い立った。

しかし中斎は山田の御師で近代の国学者たる足代権太夫弘訓から外宮附属の宮崎文庫内宮附属の林崎文庫の奉納書籍の話を聞き、朝熊山上に焚ことを罷め、天保四年七月富士登山の帰路三州吉田より海を航し伊勢に到り、両文庫に洗心洞箚記各々へ一部を納めます。

翌月更に、門人の橋本忠兵衛、同じく但馬不動二朗(但馬守)を足代権太夫の元へ遣わして、朱子文集・古本大学・及び伝習録を両文庫へ、陸象山全集を宮崎文庫ヘ、そして王陽明文抄を林崎文庫へ奉納しています。


二回目は、翌天保五年二月二十六日。内宮祠官の学問所的役割の林崎文庫にて、平八郎が書院にて陽明学を講じたといわれる。

※洗心洞箚記二冊は実に中斎畢生の大作である。「余が箚記は僣に河東の読書録、寧陵の語、及び寒松堂の庸言等に傚ひ、目の触るゝ所、心の得る所有る毎に、之を筆して以て自ら警め、又以て子弟の憤を助発するのみ」とあるは、畢竟謙遜の辞に過ぎず、彼が本書一部を伊勢朝熊嶽の絶頂に燔かうとしたは、天照大神に告げん為である。
一斎拙堂等数十氏に寄贈したは、自説の可否を諮ふ為である。富士山の石室に蔵めたは後の学者を俟つ為である。一生の心血半は注いでこの書に在りと言ふも決して空言で無い。

足代は、諸学に通じ、寛居の塾には多くの門弟を抱えていました。

足代も天保大飢饉における窮民の救済や伊勢神宮祠官の弊習を打破する運動にも奔走したと伝わっています。

後の「大塩の乱」の時には大坂で取り調べを受けています。





豊宮崎文庫が外宮権禰宜で国学者でもある出口延佳(のぶよし)らの呼びかけで建てられたのは、江戸時代初めの慶安元年(1648)のことでした。

それまで伊勢神宮には内宮に「文殿(ふどの)」、外宮に「神庫(しんこ)」という建物があり、書籍などが収められ学問の場でもあったのですが、禰宜以下の者には利用が許されていなかったのです。

 林崎文庫は、豊宮崎文庫から遅れること42年、元祿3年(1690)に建てられました。

豊宮崎文庫が広く世間に知られるにつれ、多くの学者から書籍の寄贈が相次ぎ、それによって蔵書は充実したものになりました。

また、毎月定期的に行われる和学・漢学の学習会に加え、多くの碩学の学者たちも文庫を訪れ学問所としての文庫のために教壇にて講義や講演会が行われており、その中には大塩平八郎の他にも、貝原益軒、室鳩巣、伊藤東涯など当代一流の著名な学者の名前が残っています。


豊宮崎と林崎の両文庫は図書館であるとともに神職子弟の教育の機関であり、さらには碩学大儒との交流を通じて発展し、神都伊勢と京都、大阪、江戸などの文化的先進地を結ぶ役割を果たしてきたと考えられています。


大塩平八郎(1793~1837)は、大坂町奉行所与力を務めていました。

奉行所時代は西町奉行所筆頭与力・弓削新右衛門の不正の処断、キリシタンの弾圧、破戒僧(宗教の戒律を破ったなまぐさ坊主)の処断を行い、その辣腕ぶりは大阪庶民の尊敬を集めました。


奉行所を辞職したあとは、自宅にて陽明学の知行合一の精神を重んじる「洗心洞」という私塾を創設。頼山陽などとも交際を持ちました。




大塩平八郎の乱(大坂騒動)

1837年(天保8)2月19日に大坂東町奉行の元与力で陽明学者でもあった大塩平八郎中斎が、飢饉のさなか幕府役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、摂河泉播地域の窮民救済を求め、幕政の刷新を期して決起した事件です。


大塩勢は乱に際し、中央に「天照皇太神宮」、右に「湯武両聖王(とうぶりょうせいおう)」、左に「八幡大菩薩」と書いた一流、そして五七の桐に二ツ引きの印を付けた一流を押し立て、「救民」と「南無妙法蓮華経」を大きく染め上げられたのぼりを先頭に進軍したと伝わっています。


町奉行所の与力・同心やその子弟、近隣の豪農とそのもとに組織された農民ら約300名を率いて、天満の自宅から大坂城をめざしたが鎮圧側に阻止されます。

決起直前に江戸の老中らに送った建議書が近年明らかにされ、幕閣や大坂町奉行所にかかわる不正を摘発し、「救民」にきわめて政治的意味があったことが知られています。

当時配布された「檄文」は大名から民衆まで広範囲に伝写され、また乱の情報は大塩らの40日にも及ぶ潜伏期間によって全国に伝えられ、幕藩制社会に大きな衝撃を与えました。

 大塩の「檄文」には「天より被下候村々小前のものに至迄へ」など、檄文のいたるところに「天~」という文字が多数記載されています。
そして、その檄文には伊勢神官の御札が貼ってあったと記録されています。



陽明学 河井継之助も伊勢を訪れ、山田の御師久保倉邸に宿泊。

外宮、内宮、そして二見ヶ浦を参拝しています。






安政6年6月24日。晴。
伊勢の山田町も繁盛している。
山田の御師久保倉邸に宿泊。

安政6年6月25日。晴。
朝、案内と共に外宮を参拝。
間之山を過ぎて古市に至る。
聞きしに勝る繁華なり。
内宮を参拝し二見の浦へ行く。
古市に戻り山田を過ぎて小俣に宿泊。


三春城下御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:19 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記::伊勢神宮参詣 朝熊永松寺 |