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三春物語251番「安土桃山期の三春城主」
安土桃山期の三春城主
慶長二年、蒲生氏郷が死んで会津若松に上杉景勝が入ると三春も上杉領になりますが、「関が原の戦い」の後始末で、再び蒲生氏郷の子秀行が若松に入り,それにより三春城も再度蒲生領になります。
蒲生氏郷の子秀行・忠郷父子が相次いで若死にすると,忠郷の弟忠知と入れ替えで伊予松山から加藤嘉明が若松に入り,嘉明の三男明利,次いで松下長綱が三万石で三春城主になります。
この松下家は,豊臣秀吉が木下藤吉郎時代最初に仕えた今川氏の家臣松下加兵衛之綱(1538-1598)の子孫です。

天下人秀吉は、之綱から受けた恩義を忘れず,今川氏滅亡後浪人していた之綱を呼び寄せ,遠江久能城一万六千石に封じています。
之綱没後,跡を継いだ重綱(1579-1627)は「関が原の戦い」に東軍で参加し本領を安堵されますが,慶長8(1603)年に徳川幕府の許可を得ずに城郭を改修したことで常陸国筑波郡に移されます.後に「大坂の陣」での活躍が認められ,元和2(1616)年下野国烏山で2万8百石,次いで寛永4(1627)年陸奥国二本松で5万石を領するも同年没します。
松下長綱は重綱の子.父重綱が加藤嘉明の女婿だったこともあり,三春藩松下家は会津藩加藤家の与力のような位置にあったため,嘉明の後を継いだ明成が改易されると,そのあおりを受けて松下長綱も寛永21(1644)年に、理不尽な理由で改易されます。

正保2年,常陸国宍戸から安倍ノ称安東秋田俊季が5万5千石で入領し,その後明治維新まで秋田家が代々三春を治めます。
三春城は、御殿(現三春小学校)を含む城郭が、明治維新後に借財の為に、建物、備品、石垣等は売却や、破壊され、大正11年に行われた公園整備で三階櫓跡などが整地されてしまい,現在では近世城郭の面影は全く失われています。
現本丸跡の桜の木は、明治末に日露戦争勝利記念に植樹されたもので、今年も綺麗な花を咲かせる事でしょう。



| ryuichi | 05:39 | comments (0) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏 |
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