2026-03-27 Fri
塵壺第417号 4月号 「洗心洞劄記」 大塩平八郎(中斎)と伊勢御師 令和8年4月発行
「大塩平八郎の乱」で知られる、大塩平八郎中斎は、蒼龍窟河井継之助や南洲西郷隆盛らと並び称される当代の陽明学者でした。
陽明学とは、朱子学と同じ儒学を源流とする中国の明代に王陽明が起こした学派で「事上磨錬」「致良知」「知行合一」を基本学理の根幹に据え「学んだ知識には行動を伴い即実践する」を第一義としていました。
大塩は、大阪奉行所の与力で天満の屋敷(現大阪造幣局付近)に私塾「洗心洞」を開設して同僚の与力や同心、近郷の豪農、医者、神官などを門弟として陽明学を講義、『洗心洞剳記(せんしんどうさっき)』や『儒門空虚聚語(じゅもんくうきょじゅうご)』などを著し「中斎学派」と呼ばれる一派を形成していました。
「大塩の乱」(大阪騒動)に際して、大塩は先頭に「天照皇太神宮」、右に「湯武両聖王(とうぶりょうせいおう)」、左に「八幡大菩薩」、そして「救民」と「南無妙法蓮華経」を大きく染め上げられた二流の幟を押し立て決起進軍したと伝わっています。
また、大塩が、配布した決起趣意書「檄文」は大名から民衆まで広範囲に伝写され、乱鎮圧後に大塩らの40日にも及ぶ潜伏期間中の広報活動によって事の仔細は食に伝達され「幕藩制社会への抗議」として大きな衝撃を与えました。
窮民を救うためと訴えた「檄文」や、蔵書を売って得た600両を困窮者に分け与えると書いた「施行札」は、大塩の人徳と争乱決起の正当性を強く世間に訴えました。
大塩の乱は、僅か半日で制圧され武装蜂起は終わりますが「檄文」は、幕府の厳しい回収令にもかかわらず民衆によって筆写を重ねられ諸国に流布し、「大塩世直し大明神」と称えられ芝居の演目にも取り上げたりと、陽明学徒である大塩の大意は成し遂げられたといえます。
この「檄文」には「天より被下候村々小前のものに至迄へ」など、いたるところに「天~」という文字が多数表記され、表紙には伊勢神官の御札が貼ってあったと記録されていることなどから「天照皇大神宮」を主祭神とする伊勢信仰が読み取れます。
江戸時代に伊勢信仰が広がった背景には「御師(おんし)」と呼ばれる人々の活躍がありました。神宮の神職でもある御師は、伊勢山田を拠点に諸国にある御料地や御厨(東国)を足掛かりに各々の師檀(担当地域)の旦那である大小名家や、代々の檀徒・檀家の世話人宅(城下検断、町肝煎・村名主等)を宿として「旦廻(だんまわり)」(巡行)して「天照皇大神宮」と記された御神札「御祓大麻(おはらいたいま)」、現在の「神宮大麻(じんぐうたいま)」の頒布や伊勢暦、海産物等を各戸配布して伊勢信仰の広布や参宮案内、そして行く先々で心願成就、豊作祈願などの加持祈祷を行うなどして御初穂料の受領を本業としていました。
一方、御師は伊勢の自邸で宿坊を経営ており、旦那衆や檀徒、檀家は伊勢講中、個人問わず、「お陰参り」と称する伊勢参宮の滞在中際には、各々の御師邸への宿泊や食事の費用(お神酒以外のお酒と道中の旅費は個人負担)は、その御初穂料に含まれるという次第が構築されていました。
最盛期の江戸後期には20000人を超える御師とその配下数万人が活躍し、御師邸453軒、総檀家数は全国戸数の9割に及んでいたと記録され、年間500万人(6人に1人)が詣でたと伝わっています。
また、諸国巡行には「伊勢太々神楽」の神楽師を配下に同行して、行く先々での御祈祷の御神楽奉納や、曲芸の披露なども行ってとの記録も残り、伊勢の神宮と民衆を結びつける役割を担っていたことが読み取れます。尚、その年末の忙しさから「師走」の語源とも云われています。
尚、この御師による「神宮大麻」の頒布は、明治維新後の制度改革により廃止されましたが、現在でも、伊勢神宮はじめ近くの神社、さらには「お正月様」としての鎮守様の神主や宮司、禰宜によって年末に授与されています。
大塩は、2度伊勢を訪れ、神宮神官で国学者でもある御師足代権太夫弘訓(あじろ・ひろのり)との親交があり宿を取って参宮をしています。
1回目は、天保4年7月。王陽明に倣い、天(天照大神)に近い日本最高峰の富士山、もしくは伊勢神宮のお膝元の伊勢朝熊山頂に於いて陽明学を研究した論文集である自身の著書「洗心洞劄記」をお焚き上げして、己の決意を天に誓いたいと富士、伊勢へ向かいますが、御師足代権太夫から、外宮の豊宮崎(とよみやざき)文庫、そして内宮の林崎文庫(はやしざきぶんこ)への書籍奉納を勧められ、お焚き上げを取りやめて神宮の文庫に「洗心洞箚記」を各々へ奉納します。
翌月にも、門人橋本忠兵衛、同じく但馬不動二朗(但馬守)を足代権太夫の元へ遣わして、朱子文集、古本大学、及び伝習録、陸象山全集、そして王陽明文抄を両文庫へそれぞれ奉納しています。
2回目の参宮は、翌天保5年2月。内宮祠官の林崎文庫に於いて、客員教授として大塩が書院教壇に立って陽明学を講じています。
両文庫は、祠官子弟の研修修学道場でしたが、後に知識階級の講所として知られるようになり図書館と学問所(学校)の機能も有して、村井古厳を始め、水戸藩主徳川斉昭は「大日本史」の初摺り、肥前島原藩主松平忠房は「古文尚書」など大名からの書物献納、さらに山田奉行、公家、諸国の学者などから多くの書籍寄贈がありました。
また、毎月定期的に行われる和学、漢学、神典、儒書の学習会に加え多くの碩学の学者たちも文庫を訪れ客員教授として教壇に立って講義や講演会が行われていました。
その中には大塩の他にも本居宣長、貝原益軒、室鳩巣、伊藤東涯など当代一流の著名な学者が名を連ね、伊勢と京都、大阪、江戸などの知的文化圏を結ぶ役割を果たしてきたと考えられています。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
※訂正 印刷物チラシのコラム欄にて、文章の重複する印刷ミスがありました。
訂正してお詫び申し上げます。
| ryuichi | 04:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
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