2026-05-06 Wed
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」と三春城主松下氏
藤吉郎のちの豊臣秀吉が一番最初の仕えた侍は、松下加兵衛之綱(まつしたかへいゆきつな)という地侍です。
松下之綱は、江戸時代初期の三春城主松下長綱公の祖父にあたる方です。
天文6年(1537)、松下長則(ながのり)の子として三河国碧海郡松下郷(豊田市)に生まれ、元服して通称を加兵衛としています。
松下家は今川家臣の飯尾(いのお)氏に寄子として仕え、やがて遠江国頭陀寺城(ずだじじょう・浜松市)を与えられ、城主を務めました。
正確な時期は不明ながら、藤吉郎は之綱の城主時代に仕えていたようです。
なお、之綱は藤吉郎と同年齢であり、まだ10代だった藤吉郎が仕えたのは、之綱の父である長則だったのか、父の後見を受けながら之綱なのか詳細和伝わっていません。
松下家に奉公した藤吉郎は、家中で才覚を発揮していきましたが、ドラマでも描かれているように、利発で熱心な藤吉郎を之綱は可愛がり兵法と槍術を指導した一方、旧来の家臣や同僚からの嫉妬が集まって人間関係で齟齬をきたし、仕方なく之綱は藤吉郎に暇を出します。
時は下って、永禄3年(1560)の桶狭間合戦で今川義元(演:大鶴義丹)が討ち取られると、まもなく今川家が滅亡し、之綱は松平元康(松下洸平)改め、徳川家康に仕官します
。
新参者は最前線に投入されるのが戦国乱世の習い。之綱は高天神城(静岡県掛川市)の守備に回され、しばしば武田勝頼の猛攻にさらされました。
そして天正2年(1574)に高天神城が陥落、之綱らは武田軍に降伏し、捕虜となってしまいます。しかし之綱は羽柴秀吉(藤吉郎)によって召し出され、その家臣として仕えたのでした。
天正3年(1575)の長篠合戦の際には、之綱は秀吉の前備として出陣しています。
その後も之綱は秀吉に忠義を尽くし、武功によって丹波国・河内国・伊勢国などに3千石の知行を与えられました。
いずれも重要な土地であり、之綱が秀吉から深く信頼されていたことがわかります。
若いころに受けた親切を、秀吉はずっと忘れていなかったのでしょう、天正15年(1587)、之綱に従五位下の位階と石見守(いわみのかみ)の官職を与え、丹波国に知行3千
石を加増し6千石となっています。
さらに秀吉が天下を統一した天正18年(1590)、之綱は遠江国久野(静岡県袋井市)に1万6千石を与えられ、久野城主となりました。
之綱は秀吉と同じ年の慶長3年(1598)2月、62歳で世を去り、家督は次男の松下重綱(しげつな)が継ぎます。
さて、三春城主となる松下氏。寛永4(1627)年の正月に、会津藩主の蒲生忠郷が亡くなると、伊予松山の加藤嘉明と入れ替えとなり会津四十万石を拝領、三男明利が三春三万石、娘婿の松下重綱が二本松五万石を拝領します。
しかし、10月に重綱が亡くなると、翌年正月にその嫡子長綱が、明利と交替で三春藩主となり、寛永21(1644)年に改易されるまで三春を治めました。
松下重綱の父之綱は、幼少の豊臣秀吉が最初に仕えた武将として有名で、その後、常陸小張、下野烏山の城主となり、重綱が加藤嘉明の娘と結婚した縁で、二本松・三春へと移りました。
三春に移ると、新町に州伝寺を建立し、父重綱の菩提を弔い、北町に光岩寺を建てて阿弥陀如来像を祀り、後に母加藤氏の菩提寺としました。
松下長綱は、記録が少なく幕府の記録では、三春へ移った理由が「幼稚たれば」、改易された理由が「発狂しければ」とあり、幕府の仕事もほとんど任されていません。
長綱が改易される前年、会津の加藤氏が改易され、同じ立場の二本松加藤氏も改易されますが、松下氏は改易されませんでしたが、翌年、妻の父である土佐藩主山内忠義が、長綱が発狂したので領地を幕府に返したいと願い出、それが許可されて改易となります。
キリシタンであったという説もありますが、病弱であったのは確かだと思われます。
さて、今後、大河ドラマ「豊臣兄弟!」に松下氏は登場する機会はあるのでしょうか…
この松下父子は、戦国武将田村家の仙台伊達藩以来久しく荒れていた三春城城郭や石垣を補修します。
当時の都会都市を意識して城下の街並みなども改修して近代的な城下町へと整備し“東北の鎌倉”と今でも呼ばれる基礎を作ったとされます。
長綱は剛腕の反面、短気な人だったと伝わっています。

城郭や都市の備など短期間に公共工事をやってのける剛さに無理は伴うのは今も昔も変わりありません。
無理を押せば焦りも生じましょう。
領民を虐使し苛剣誅求の政治となるのは当然と言えます。
そのために領民は困窮に泣きその暴政と領民の窮状を幕府に訴えるに及びます。
正保元年、狂疾(気が狂った)した者、「藩主の能力なし」として、城地返納後の寛永二十一年(1644年)4月10日に改易となり、正室の実家だった土佐高知藩主・山内忠義(ただよし)に預けられる事になります。
長綱の家臣で、高知蟄居の道中に随行したのは、松下主馬、同小源太、同庄右衛門、鈴木八右衛門、新国平三郎、高瀬三郎介、松山忠兵衛でした。
その内、新国平三郎、高瀬三郎介の両人は、その後引き続き長綱の側に仕えた。
長綱は、土佐の久万村という所で静かに余生を過ごし、万治元(一六五八)年九月十日、彼の地において没します。
時に四十九歳。
また嫡子の豊綱は、明暦二年五月十八日、十八歳の若さで父に亡くなり高知城下真如寺に葬られます。
そのため、二子松千代が兄の三千俵を給され、万治元年九月、父の死の翌日に、将軍家綱に謁見し、寄合の列に加えられ、旗本松下加兵衛長光と名乗ります。
松下氏の領地没収後に、宍戸より秋田俊季候が5万5千石で入府します。
前城主である、重綱、長綱の墓碑がある州伝寺は、寛永四年に烏山天性寺から分寺した松下家の菩提寺で、秋田藩政下でも前城主菩提寺として20石を給せられていました。
長綱の墓碑は、その墓石を削って飲めば精神疾患が癒えるという迷信からか、文字も判らないくらい削り取られていますが、苛政への恨みも多少加わっていたのでしょうか?
亀井には、松下氏が重綱の室(時の会津藩主加藤嘉明の娘)の為に建立した光岩寺があります。
尚、長綱改易後の三春城及び三春領三万石は、幕府代官樋口又兵衛、福村長右衛門の管理支配となり、三春城は隣の相馬義胤が警備にあたっています。
三春城の引き渡しにはひと悶着ありました。
城主長綱のご乱心、そして切支丹嫌疑での突然の改易、これは三春松下家臣にとっても一大事です。
「会津藩家世実紀」によれば、このように大げさになったのは、「城地受け取りの節に、敬語として近隣諸藩に出動を命じた」という幕府の沙汰が三春の松下家の家臣たちに聞こえてきました。
「我々松下家中にまで無用な切支丹御嫌疑をかけられ、御誅殺されるよりは籠城して心情を訴え、聞き入れなければ城を枕に討ち死にしようと決議し、城中に立て籠った」という情報が伝わったためと記されています。
まず、三春城請取の役を命ぜられたのは寺社奉行安藤重長でした。
重長は四月十三日に下命を受け、五月十一日帰府し、将軍家光に謁見復命している。
その間およそ1ヵ月であったが、非常に険悪な空気が漂っていた。
山内家は、相良文磊門を松下家へ走らせて、家老たちへ「万端首尾よく引渡しますよう」にと説諭させた。
一方幕府は、重長の外に、三春城在番に棚倉城主内藤信照を、目付に使番能勢頼重·永井直元らを任命し、近隣の大名にも出動加勢を命じたとあります。
また、会津城主保科正之も、このため四月十四日に下向の暇を願い、即日江戸を立った。
途中、栗橋宿から家臣井深、馬淵らを三春城下に派遣している。
自らは二十日に白川に入った。
白川城主松平式部大輔のほか、井伊掃部頭なども参集し、対応を協議した。
なかは磐城平のように、幼君忠興を擁して三百騎を出動させたところもあった。
しかし、城付の武具改め、請け取り、渡しも行われず、侍屋敷は帳面で、重長の家臣に引き渡されたにとどまります。
引き渡しが済んだのは、四月二十目になってからでした。
昭和初期の広報三春内コラム参照
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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