CALENDAR
S M T W T F S
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30     
<<  2024 - 04  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




三春物語252番「三春田村氏の終焉」
田村清顕の急死以降、田村家中は伊達派と相馬派に二分して混乱を来し存続の危機を迎えます。
結局、伊達政宗が出馬したことにより相馬勢による田村差配の企ては水泡に帰し,後の郡山合戦(伊達勢と佐竹勢が現在の福島県郡山市で衝突,伊達方の伊東肥前重信が戦死した)を経て,政宗の差配により孫七郎宗顕(清顕の甥)の田村家名代,清顕夫人の隠居などを決め,ようやく田村家中の混乱は収まりました。
しかしその後も今度は岩城常隆が田村領に侵攻して来ます。

岩城の援軍に相馬・佐竹・蘆名が参陣してきましたが。
政宗は巧みな用兵で相馬の背後を衝き,蘆名家中の乱れに乗じて天正17年6月,猪苗代湖畔磨上原の合戦で蘆名義広(佐竹義重の子,義宣の弟で蘆名盛隆の暗殺後,白川氏に養子に入っていたところから蘆名に乗り込んだが,却って家中混乱の基になった)を大破してこれを常陸に追い,7月には佐竹・岩城とも三春攻略から一端手を引ました。
翌天正18(1890)年が豊臣秀吉による小田原城落城・後北条氏滅亡の年であり,奥羽の諸大名も秀吉による「奥州仕置」の大波に飲み込まれます。

田村宗顕は政宗旗下ということで小田原に参陣しなかったところ,秀吉は独立大名とみなして不参を理由に改易してしまい,田村領を政宗に与えてしまいます。
宗顕は政宗を激しく恨み,政宗には従わず牛縊定顕と称して隠遁,政宗没後にその夫人陽徳院,すなわち愛姫の命を受けた片倉重長によって白石に招かれそこで正保5(1648)年没します。
田村氏の名跡は承応元(1652)年,伊達忠宗(愛姫の子,政宗の嫡子)の三男・田村右京宗良の子建顕が、山本周五郎著「樅の木は残った」の「伊達騒動」を経て、岩手県一関に入り、一関田村家を創設します。
伊達政宗も大崎・葛西一揆を鎮圧後,所領を山形より仙台に移されて三春を去り,三春は会津若松城主蒲生氏郷が拝領します。
    蒼龍謹白・・・・・・・・・・・・合掌





| ryuichi | 05:55 | comments (0) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏 |
コメント

コメントする