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白河小峰城攻防戦 白河口の戦い



白河小峰城

「白河小峰城」は、関東地方と奥州の防備の要として建てられたお城です。

先祖を小山氏とする結城親朝が興国・正平年間(1340~1369)に小峰ヶ岡に城を構えたのがはじまりです。

結城氏が豊臣秀吉により改易されると蒲生氏、次いで丹羽氏が入り、丹羽長重により近世城郭へと改修され、以降は譜代や親藩の大名が城主となり、以来7家21代の大名が奥州防備の要として居城しましたが、慶応4年(1868)戊辰戦争白河口の戦いで落城し、白河小峰城は「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の舞台となり焼失してしまいました。






約120年の時を経て、平成3年(1991)に三重櫓、平成6年(1994)に前御門が江戸時代の絵図に基づき木造で復元され、市のシンボルとして親しまれています。


幕末の文久2(1862)年、会津藩主であった松平容保は京都守護職に任命され、尊王攘夷派志士の取り締まりや禁門の変において江戸幕府の中心となって動いていました。  

そのため会津藩は、鳥羽・伏見の戦いの後、慶応4(1868)年に新政府から追討令を受けます。

西軍は旧幕府軍の主力であり、幕府が将軍慶喜以下が恭順を示しているために、鳥羽伏見戦後も抗戦姿勢を崩さない会津藩を追討対象として東北に軍を送り込み、仙台藩を中心とした東北諸藩に会津藩追討を命令しました。

諸藩は平和的解決を望み、会津藩に降伏を働きかけます。

これを受けて会津藩は降伏嘆願書を提出しましたが、降伏条件が不十分なこともあり西軍はこれを却下。

交渉は決裂し、やがて東北~越後の諸藩による奥羽越列藩同盟が結成され戊辰戦争の場が奥州と移行していきます。



会津藩が新政府側の東軍の通達に対して、罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示した事と、仙台藩士が西軍の鎮撫使(監察役)である世良修蔵を殺害した事件から全面戦争へと発展することとなります。






幕末白河藩の藩主・阿部正外が幕府老中として対応した外交問題で失脚し、慶應2年(1866年)白河藩は消滅、藩領は幕府領となっていました。

正外は慶応2(1866)年棚倉藩へ転封され、白河城は二本松藩が守備することになります。そして、新政府樹立時には仙台藩が駐屯していました。

白河口の戦い

慶應4年(1868)4月20日、会津藩「合義隊」、旧幕府軍「純義隊」「新撰組」の約300名が、仙台藩を長とする奥羽鎮撫総監督府管理下にあった白河城を急襲します。

元々、会津藩に同情的な戦意のない奥州諸藩はあっさりと城を明け渡します。

しかし、宇都宮城の戦いに勝利した東軍は、白河城が占拠されたとの報を受けると、そのまま白河へ進軍を続け、25日に白坂宿へ転戦していますが、防御を固めた新選組をはじめとする白河口出張の会津藩兵に撃退され退却しました。






翌26日に、白河口の総督として会津藩別格家老・西郷頼母(さいごうたのも)、副総督として会津藩若年寄・横山主税(よこやまちから)が白河城に入城しました。

また、奥羽鎮撫総監督府から離反した仙台藩、棚倉藩(かつての白河藩士)、二本松藩の藩兵も奥羽列藩同盟を構築して白河城下に到着。

着々と戦力を増強していきました。

西軍もそれに呼応して増員し、その兵力は、同盟軍約2,500人、新政府軍約700人。






新式元込ライフル銃など最新装備の西軍の本隊は奥州街道を進んで小丸山を占拠し、正面から稲荷山の東軍を総攻撃するように見せかけ、その間に他の部隊が稲荷山に兵が集中し、手薄になった雷神山と立石山を棚倉街道と原方街道から迂回し城下へ突入します。




さらに、西軍は稲荷山を周囲から包囲する形で激しく銃撃を加え、さらに城下へと突入し小峰城は落城します。







以前、ある食事会で隣席でご一緒させていただいた方ですが、奥様の旧姓が海老名で級は会津藩湖南奉行そして戊会津戦争の折には白川口軍事奉行として白河城攻防戦の指揮官だった、海老名衛門季久の末裔でした。


白河城下の龍興寺山内には、戦死塚と刻まれた東北諸藩の列藩同盟戦没者を供養した石塔があり、その傍らに会津藩軍事奉行「海老名衛門季久慰霊碑」があります。


海老名衛門は、敗戦の責任をとりこの地で自刃したと伝えられている会津藩軍事奉行でした。

嘉永4年、房総半島の警備を命じられた会津藩の軍事奉行として出勤。

その後品川砲台(金杉陣屋)、蝦夷地警備でも軍事奉行として活躍します。

海老名衛門は、会津藩では公事奉行・郡奉行・軍事奉行・大目付などを歴任して家督を息子である季昌に譲り隠居していましたが、慶応四年の戊辰戦争に際して軍事奉行に復帰し、白河に赴きます。

最も激戦だった慶応四年五月朔日の戊辰戦争白河口の戦いにおいて、稲荷山周辺に布陣していた東軍・奥羽越列藩同盟軍が、西軍の攻撃に圧倒されて敗走、この責を負い切腹します。

享年五十二歳
 
この「海老名衛門君碑銘」は明治十七年に長男季昌が建て、文章は会津藩士で当時東京大学教授を務めていた南摩綱紀が作ったものです。
現地案内板参照


長男季昌は、「禁門ノ変」においては、藩主松平容保の京都守護職就任に伴い、は幕末の京へ赴きます。

後に、パリ万国博覧会に使節団として派遣される徳川昭武の随員として抜擢され、横山常守と行を共にします。

しかし大政奉還が行われるなど会津藩に危機が迫り、11月28日(11月3日)に帰国。

戊辰戦争と会津戦争では、鳥羽・伏見の戦いに参戦し負傷。

会津に帰還後各地を転戦しますが、会津若松城籠城戦では、北出丸の責任者となり、この間家老へ就任している。

海老名は藩主父子の助命嘆願書に他の家老、若年寄とともに連署しています。

会津藩降服後は、一時東京で幽閉され、赦免されたのは1872年(明治5年)のこと。

斗南へ赴いたが短期間で会津へ戻ります。

1875年(明治8年)警視庁警部補となり、1878年(明治11年)山形県西村山郡郡長、そして、自由民権運動福島事件では、民権運動の取締りを行っています。

後に、信夫郡、北会津郡、石川郡、東白川郡の各郡長を務め、警察官としては警部、警視属し、後に初代若松町長となり、市制移行に尽力。











| ryuichi | 04:06 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |