2026-05-29 Fri
塵壺419号 「 三春藩主秋田家江戸藩邸菩提寺 浅草大雄山海禅寺」 令和8年6月吉日発行
かっぱ橋や浅草など東京出張の際には、お参りするお寺さんがあります。
上野から浅草へ向かう途中にある旧三春藩秋田家江戸屋敷の菩提寺大雄山海禅寺さんです。
浅草新鳥越町(現・台東区松が谷)、今のかっぱ橋道具街から道一本西手に入ったところにある臨済宗妙心寺派の禅寺で、慶長8年(1603)に起立、寛永元年(1624)神田明神北の妻恋に草創(そうそう)します。
寺号(じごう)「大雄山」は、平将門が下総国相馬郡に創建したとされる同名の寺院に因んで命名したと伝わります。
※「海禅寺縁起」(下総守谷藩主堀田正俊の寄進)によると、平将門が、紀州の高野山に真似て建立したと記載があります。
後に、明暦3年(1657)1月、3日間に亘って江戸城をはじめ城下を焼き尽くした「振袖火事」の後に、当地へ移転しました。
諸国の在京大名家江戸藩邸や幕臣、旗本の方々の檀家寺となっていますが、中でも檀家筆頭の阿波・淡路2国25万7千石徳島城主の蜂須賀家から厚く庇護を受けたことから「阿波様寺」とも称され、塔頭4ヶ寺(霊梅軒{霊梅寺}、泊船軒、寒窓軒、瑞光庵)を擁立(ようりつ)していました。
また、江戸城下の妙心寺末寺の触頭寺院(ふれがしらじいん)として、湯島麟祥院、高輪東禅寺、牛込松源寺と共に勤めて、江戸市中にある妙心寺派寺院の統制も行っていました。
徳島藩蜂須賀家は、大河ドラマ「豊臣兄弟」にも登場する秀吉の盟友で、川並衆を率いた播磨国龍野城主蜂須賀小六正勝(はちすかころくまさかつ)の嫡子、蜂須賀家政(いえまさ)が藩祖となっています。
海禅寺の主な檀家大名としては、この蜂須賀家。
関東大震災後、墓碑銘を残して徳島の万年山墓所に改葬、この墓所は徳島藩10代藩主が造営した一族の儒葬墓地。また、家祖・正勝以降が埋葬された仏式の興源寺墓所を遺髪のみの拝み墓としています。
豊前国小倉藩15万石小笠原惣領家。
常陸国土浦藩9.5万石土屋家。
土屋家の江戸屋敷は本所松坂町にあり、忠臣蔵の敵役吉良義央の屋敷と隣り合っていたために映画やテレビではおなじみですね。
伊予国大洲藩6万石加藤家。
大洲藩と云えば、坂本龍馬率いる亀山社中改め“海援隊”が武器輸送に運用した大洲藩船籍の「いろは丸」と徳川御三家紀州藩船籍の「明光丸」が瀬戸内で衝突、いろは丸だけが沈没した際に万国公法に基づいて龍馬の死後、土佐商会が紀州藩から多額の賠償金をとることに成功した「いろは丸事件」の被害船主の藩です。
播磨国林田藩1万石建部家(歴代藩主の墓所は、京都紫野大徳寺内芳春院)などがあります。
そして東洲斎写楽。徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ)が、写楽と同一人物ではないかと伝わっており、その墓碑が関東大震災の前までは確認されています。
さらに、幕末に吉田松陰などと同様に「尊皇攘夷」を唱えて、倒幕の先駆けとなった勤皇の志士、若狭小浜藩(福井県)藩士の梅田雲浜(うめだうんびん)の墓所としても知られています。
三春藩秋田家。江戸藩邸で亡くなった秋田家一族は、海禅寺に葬られましたが、関東大震災後にそれらのお墓は「雑司ヶ谷霊園」へ改葬され、さらに昭和10年5月26日に三春城下荒町にある秋田家菩提寺の安日山高乾院秋田家墓所へ改葬されています。
尚、三春城下のもう一つの秋田家菩提寺龍穏院には、藩主の中で8代藩主の秋田謐季公だけがその墓所に埋葬されています。
三春藩の江戸藩邸は、江戸城下に3か所ありました。
上屋敷は愛宕山愛宕神社下(現・慈恵医大附属病院付近)、中屋敷は東京タワー近く麻布台のロシア大使館付近、そして下屋敷が西新宿の東京都庁付近、後に、代々木(現・文化女子大学付近※大火移転)にありました。
また、旗本秋田氏5千石の屋敷は、築地本願寺の西手(現・電通本社付近)、そして拝領屋敷が深川(現・清澄庭園大正記念館付近)にありました。
蒼龍謹白 拝 さすけねぇぞい三春!
『いろは丸沈没事件』
いろは丸(以呂波丸)は、江戸時代末期の1860年代にイギリスで建造され、伊予国大洲藩6万石加藤氏(現在の愛媛県大洲市)が所有していた蒸気船で、45馬力の蒸気機関を有しておりマスト3本を持つ帆船の機能もありました。
坂本龍馬の海援隊による運航中に紀州藩の明光丸と衝突事故を起こした事で知られます。
事件は、1867年5月26日(慶応3年4月23日)23時頃、
長崎港に向けて同海域を航行していた紀州藩の軍艦・明光丸(船長・高柳楠之助)が、備中国笠岡諸島(現在の岡山県笠岡市)の六島付近で進路が交差、接近。
いろは丸が取舵、明光丸が面舵をとり、同じ方角に回避行動をとった結果、両船は衝突。
明光丸はイギリスで建造された長さ四十二間、幅六間、深さ三間半、百五十馬力、八百八十七トンの蒸気船で、その大きさの差はあまりにも大きく、更に一旦後退した明光丸が再び前進して再度衝突を起こした為、いろは丸は大破し、翌日早朝、鞆の南10km付近にある沼隈郡宇治島沖で沈没。
操船していた坂本龍馬はじめ海援隊士らいろは丸乗組員は全員、相手方の明光丸に避難のために乗り移っていました。
その後、龍馬らは鞆の浦に上陸。
紀州藩の用意した廻船問屋の桝屋清右衛門宅や対潮楼に4日間滞在し賠償交渉を行いました。
紀州藩側は幕府の判断に任せるとしますが、龍馬は当時日本に持ち込まれたばかりで自身が「万国公法」を持ち出し、
紀州藩側の過失を追及。事故から1か月後に紀州藩が折れて積荷代に相当する賠償金8万3526両198文(約164億円)を支払う事が聖福寺での交渉の席で取り決められました。
実際の受け取りは、龍馬の暗殺後、海援隊の解散後でしたので土佐藩の運営する商社」「土佐商会」が受け取りなど残務処理を行っています
| ryuichi | 23:04 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春藩始末記 秋田氏五万石雑記 |
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