2026-06-20 Sat
鎌倉公方 奥羽探題「稲村公方」 稲村御所
応永6年(1339年)頃に足利満貞の館跡と伝わっています。
足利満貞は、鎌倉公方足利満兼の弟。
応永6年(1339年)陸奥・出羽統治のために陸奥国岩瀬郡稲村に下向し、稲村公方と呼ばれていました。
稲村は二階堂氏の所領で、稲村二階堂氏・須賀川二階堂氏・安積伊東氏などの諸将が周辺にいました。
応永20年(1413年)、伊達持宗が反乱を起こし鎌倉からも出兵して戦いますが、南奥羽の諸将は鎌倉公方の命には従う気もなく戦意も乏しい状態で、伊達勢を討伐できずに引き上げています。
その後、永享の乱が起こり、篠川公方は幕府方、稲村公方は鎌倉府方と分裂して対立し鎌倉府方は敗れます。
鎌倉府方の武将は鎌倉永安寺に入って剃髪して上杉憲実を通じて幕府方に助命を嘆願したが聞き入れられず、稲村公方満貞、稲村城主二階堂伊勢入道、二階堂民部少輔らも自害して果てたと歴史は物語っています。
稲村御所跡にある赤城寺、そして北郭に位置する赤城神社にある「赤城神社之碑」には「室町幕府関東管領奥羽探題稲村御所足利満直の祈願所」とありますが、「喜連川判鑑」の不確実な内容からの記載であり、稲村公方は「足利満貞」。
偶然出会った、近所の方に場所の案内と、昔話とともに歴史のお話を伺うことが出来ました。
稲村御所館跡は、足利二代将軍義詮の甥、氏満の第二子満直(通称稲村御所)が明徳3年(1392年)奥州管領として館を築いた土地で、群馬赤城山麓出身の足利氏に関連して赤城寺、そして赤城神社と名付けられたとのことです。
赤城寺本堂から長い石段を登り切った稲村御所館跡の子安観音堂には、その昔には安産祈願の籠り堂とされ、お嫁さん達が子宝・安産祈願で集まりお籠りをしていたとのことです。
鏡沼(かげ沼)の由来
鎌倉時代初期、信濃源氏の泉親衡による「泉親衡の乱(いずみちかひらのらん)」、さらに「和田合戦」
北条討伐の謀反が発覚し、加盟者は捕らえられた。和田胤長もこれに参加したため、岩瀬郡稲村に配流されに処刑された。
胤長の妻は鎌倉よりこの地に至り、里人に夫の死を知らされ、鏡を抱き沼に入水し果てますが、守り佛の木造観音様が浮かび上がり、里人はお堂を立ててこの観音様を祀り妻の霊を慰めたと伝わっています。
また、赤城寺、赤城神社を目印に行きまして、稲地区集会所を駐車場にしてねと案内していただき、駐車させていただきました。
お世話になり、ありがとうございました。
三春城下御菓子三春昭進堂
| ryuichi | 03:22 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
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