2026-06-24 Wed
所用があり、北陸まで行きましたので、折角ですから野沢温泉で外湯めぐりをしようかと、足を延ばしました。
途中、最寄りのインター近くの道の駅で「小布施町」のパンフレットを見かけまして、店員さんに所要時間を聞きますと隣町なので15分も掛からないんじゃないかということでまずは小布施の栗菓子屋「小布施堂」さんへ・・・
ここは約40年前に三春経営塾4班で視察研修に行った場所です。
街並み修景事業にて、北斎館の建設や小布施堂や信用金庫などの街並みを形成する修景事業の手本となった場所でした。
北斎館一帯の町並み修景が行われたのが、1982(昭和57)年。
地権者である小布施堂、信用金庫、高井鴻山の隠宅を持つ行政、そこに住む個人が共同し、「群居の姿勢」で創り上げたました。
北斎館開館を契機とした修景事業により、年間約120万人もの観光客が訪れる小布施町。
約40年前の「町並修景事業」開始時から、地域住民のまちづくりへの意識がかなり高く、画一的な都市開発の手法とは異なり、「小布施方式」といわれ全国的にも高い評価を受けるまちづくりを行ってきました。
そして、今、新たに動き出しているのが、人と車が共存できる道にしたいと町の基幹道路である国道403号の新しい道づくり。
小布施堂の界隈は、80年代に行われた「町並み修景事業」によって再構築されました。
味わい深く美しい町並みで、毎年多くの方が訪れます。
小布施堂の各店舗でのお買い物やお食事はもちろん、笹庭のベンチで休んだり、古い蔵や屋根瓦など眺めながらゆっくりと散策するのもおすすめです。
以前、研修の中でお話を伺った株式会社小布施堂代表取締役、北斎館理事長の市村次夫さんは、私たちへの講話でこう話されていました。
「人々の快適な暮らしが小布施の象徴的な空間をつくる」「町並み修景」というアイデアの根底には、主役はあくまでも住人であるという考え方です。
40年ぶりに伺って、「外はみんなのもの、内は自分のもの。暮らす人々にとっての日常が美しく幸せだからこそ魅力ある町が形成される」ということを再認識させられました。
とことん北斎にこだわった北斎館
天保13年(1842)、北斎は83歳の頃に初めて信州小布施を訪れました。そのきっかけは、幕府による天保の改革によって江戸では絵の制作が制限されたとも、地元の豪農・豪商の高井鴻山(1806-1883)の招きに応じて訪れたとも、さまざまな説があります。
碧漪軒(へきいけん)
小布施では、鴻山の庇護を受け、アトリエというべき碧漪軒(へきいけん)を与えられました。二人の関係は「先生」「旦那様」と呼ぶほど親密なものでした。非常に恵まれた環境の中で、北斎は大作を残します。
嘉永2年(1849)、北斎は数え90歳。
この頃の北斎は、浅草聖天町(しょうでんちょう)、現・台東区浅草6丁目にある、遍照院(へんじょういん)という浅草寺の支院の境内にあった狭い借り長屋に住んでいました。
「天我をして十年の命を長ふせしめはといひ、暫くして更に謂て曰く、天我をして五年の命を保たしめは、真正の画工となるを得へし」 葛飾北斎
自分の死を迎えるに床で、北斎は悔しそうにこの言葉を残したと云います。
「あと10年、せめて5年長生きできたら、本当の画工になることが出来たのになぁ~」と・・・・
生涯現役の究極の境地ですね
北斎は、亡くなる3ヶ月半前まで、大作を手掛けていたと伝わっています。
しかし北斎はこれでも描き足りるということはなく、もっともっと絵を描きたいと思っていたことでしょう。
辞世の句は 「ひと魂で ゆく気散(きさん)じや 夏の原」 九十老人卍
絵師の道を追求し続けた北斎が、死んだ後は人魂[ひとだま]となって夏の草原をのびのびと飛んでゆこうと詠んでいます。
北斎のお墓は、誓教寺(東京都台東区元浅草4-6-9)にあります。
そして野沢温泉で温泉三昧!
外湯めぐりは13の湯屋があるそうです。
地域の管理組合が管理していて基本的には無料です。
御賽銭的な感覚で、50円から100円程度の寸志を賽銭箱に入れてはいります。
それぞれ趣のある湯屋ですが、とにかく熱い!熊の手という湯以外はや大変です。
中にはやけどしそうなくらいのところもありますが、とにかく水をガンガン入れて、ぬるめて入ってくださいとのことです。
人を引き寄せる魅力あるまりとは何かということを再度認識させられました。
三春城下御菓子三春昭進堂
| ryuichi | 03:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |
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