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三春物語298番「富沢宮代神社」


三春城下北部、富沢村にある「宮代神社」は,
旧神号を三渡大明神、祭神を、南北朝期の後醍醐天皇、後村上天皇、陸奥宮としています。



 鎌倉末の南北朝期の三春地方は、荘司田村氏が南朝方として最期まで奮戦したこともあって、その戦禍は田村郡内の村々に広く及んでいます。
後醍醐天皇は、鎌倉から南北朝時代の第96代天皇。謀術策にたけた専制君主といわれた。

1288(正応〈しょうおう〉元)年11月2日生まれ。後宇多天皇の第2皇子。母は参議藤原忠継(ただつぐ)の子忠子(ちゅうし=談天門院〈(だんてんもんいん)。第95代花園天皇(はなぞのてんのう。1297~1348 在位 1308~1318。持明院統の伏見天皇の皇子)の譲位をうけて31歳で即位した大覚寺統の天皇。



1318(文保2)年に記録所を再興して、政務に励むとともに、学問、武芸の振興に努め、天皇親政(天皇自らが政治をおこなう体制)を企て、1321(元亨元)年に院政を廃して親政を開始、吉田定房(さだふさ=天皇の信任厚く、建武新政府に重きをなした。南北分裂後は初め北朝、のち南朝方)、北畠親房(きたばたけちかふさ=建武政権成立後、東北経営にあたった。南北朝分裂後、天皇を吉野に遷して南朝の重鎮として活躍)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ=藤原宣房〈ふじわらののぶふさ〉の別名=吉田定房・北畠親房とともに「後(のち)の三房」と称される。正中の変では鎌倉に赴き事件の解決をはかった)、日野資朝(ひのすけとも=参議・権中納言などを歴任。討幕運動の中心人物となった)・俊基(としもと)らの人材を集め、鎌倉幕府討滅計画したが、1324(正中元)年、鎌倉幕府が承久の乱(じょうきゅうのらん=1221〈承久3〉年後鳥羽上皇らが鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、執権北条義時を中心とする幕府軍に鎮圧された事件)後、京都の政情を監察し、かつ治安を維持するために設置した、政務・軍事を統轄する執政官の六波羅探題(ろくはらたんだい)に露見して失敗(正中〈しょうちゅう〉の変)した。

その責任を日野資朝(佐渡に流されて処刑された)に押しつけ、危うく難を免れた天皇は、その後、皇子の護良親王(もりよししんのう。1308~1335)を天台座主(てんだいざす=比叡山延暦寺の最高位の僧職で天台宗一門を統轄する者)にすることによって比叡山(ひえいざん)勢力も引き入れて、再度倒幕計画を進めたが、1331(元弘元)年4月、吉田定房が計画を幕府に密告して失敗した。

後醍醐天皇は同年8月、奈良・東大寺に逃れ、ついで笠置(かさぎ。現・京都府相楽〈そうらく〉郡笠置町)に立てこもり、幕府に不満をもつ諸国の武士、寺社勢力などに蜂起(ほうき)を呼びかけたが、幕府は大軍を送って笠置を包囲して後醍醐天皇を捕らえ、1332年隠岐(おき)に流した(元弘〈げんこう〉の変〈乱〉)。



翌1333年(元弘3)年閏(うるう)2月、後醍醐天皇は隠岐脱出し成功、それに呼応して各地の諸将が蜂起、同時に、新田義貞(にったよしさだ。1301~1338。後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉幕府を滅ぼし、新政権で足利尊氏と対立、尊氏に破れ、戦死)や足利尊(高)氏、楠木正成(くすのきまさしげ=大楠公【だいなんこう】)らの支援を受けて鎌倉幕府を討滅し、伯耆(ほうき=鳥取県)の名和長年(なわながとし)らの援助で6月京都にたどり着き、復古的新政権(建武〈けんむ〉の新政=建武中興ともいう)を樹立、幕府の擁立していた持明院統の北朝第1代光厳(こうごん)天皇を廃し、建武新政を開始する。



後醍醐天皇は、雑訴決断所等を設けて一般政務や訴訟問題の処理にあたったが、武士階級の不満を解消できず、1335(建武2)年、武士らの不満をになう尊氏が、別に北朝第2代光明(こうみょう)天皇を擁立して室町幕府を開いたため、新政権はわずか2年半で崩壊、後醍醐天皇は吉野にのがれて南朝をたて、北朝や尊氏と対立した(南北朝の内乱)。

だが、吉野に従う公家は少なく、孤立が深まるなかでは、1339年義良(のりよし/のりなが)親王〈後村上天皇〉に譲位、同年8月16日、失意のうちに吉野にて52歳の波乱に満ちた生涯を閉じる。





| ryuichi | 16:24 | comments (0) | trackback (x) | 旧沢石村::富沢 |
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