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三春物語638番「三春高橋氏」




三春昭進堂の主は、髙橋姓を名乗っています。


私も当然髙橋の龍一と申します。



私で4代目ですが、それ以前(明治の中ごろまでは、当店の南2里余、三春城下在”込木柳作”の農家でした。







文献が乏しく、口伝の域を脱しませんが、三春昭進堂当家の祖先である柳作髙橋氏は、戦国期の三春田村氏の組下で、柳作を知行、舘・屋敷を構えます。


後に、伊達派と相馬派の内紛の時には伊達派に組し、太閤秀吉の奥州仕置きにて、田村氏の改易されると、この知行地にて名主・村司として帰農します。







当三春昭進堂創業者の髙橋民四郎の本家は、込木の柳ケ作(やなさく)の髙橋家です。


民四郎は、本家から“髙橋”という苗字と芹ケ沢村にある土地(後に現在の昭進堂の土地を買い求め)分家し商いを始めました。
 

その昔、11月の祭礼には、民四郎と妻の“おタリ”が饅頭を大八車に乗せて、社殿下に露店を開いていたと聞き及んでいます。

本家の母屋は“戊辰の役・会津戦争”が起こった明治元年(1868年)ごろに完成したということですので、築150年になるという計算になります。

当時の大工や職人は、現場に寝泊まりをして作業に従事していたそうですが、茅葺屋根工事を請け負っていた職人たちは皆会津地方から来ていたました。

 建設途中に“会津戦争”が勃発してしまい我が家が心配で帰郷し作業中断となります。


そして、2年ほど時が経ち戦騒ぎの落ち着いたころに戻ってきて無事作業再開の運びとなったということでした。







戦国時代末期。
須賀川城主二階堂氏の家臣にも、髙橋菊阿弥(時衆)、髙橋右衛門の名前が記録されていますが、伊達氏組下の三春田村氏(二階堂氏同様伊達とは婚姻関係・政宗の大叔母在家)の旗下である柳作髙橋氏が、家名存続の手法として分家して、その分家を、二階堂氏へ下し、合算・与力したのではないかと考えています。



田村地方および安積郡に於ける家系列成り立ちの中で、二つの大きな要因が考えられます。平安時代からの荘園制度(熊野宮荘園)と蒲倉大祥院及び田村庄司。そして伊達政宗です。

前者では荘園管理の中では西方より官史が技能士が管理官として着任。そのまま土着して管理者として分家した家系もあると考えられます。

例として当家髙橋も祖を坂の上田村麻呂とする三春田村氏の組下系と藤原姓を名乗る須賀川二階堂傘下系と2系統が考えられます。

三春髙橋氏もその位置(山奥に数軒密集)からして何かの技能衆だったと推測しています。

須賀川髙橋氏は名前に阿弥が付いているとこをから時宗(時衆)の技能衆の可能性があります。



また、後者では三春田村氏伊達組み入れ後橋本氏、貝山氏のように十一家が仕官、それ以外にも仕官した陪臣として数軒移籍しています。

また、その前後の混乱の中で伊達勢に与してそのまま移籍した家系も数軒あるんだろうと思います。










戦国当時は、家名存続の為に分家して、敵味方へ帰参し与力して分かれて戦うというのは常套手段とされていました。

“武士は二君に仕えず”とは、江戸期の徳川幕府による儒教・朱子学での、思想統制の産物でしたよね。

武士が支配階級として身分的にも分化し、農・漁民や町人が支配される側に明確にされたのは、豊臣・徳川政権の確立による農兵分離が全国的に波及してからの事です。

もちろん、武家社会は、平家や源氏に始まり、鎌倉幕府成立後にその地位を確立していきますが、生産力も充分でないなかで常備軍団を組織的に養うことは困難でした。

そのため、当時の常識として武士は、戦時以外は所領にて帰農し、地域の豪族として存在します。

これは、戦国時代だけでなく、それ以前にも放浪した農民や商人が地方豪族となったり、地域豪族の利権・境界争いに農民も武士として盛んに動員されています。



当時は、全ての領民が戦闘員だったといえます。

そして、その生活基盤となる所領を守るために一族郎党が、分家制度を取り隣接する他の豪族にも組して細分化してゆき、所領と一族の安全を確保していったと考えられます


三春昭進堂代表 髙橋龍一

| ryuichi | 04:23 | comments (x) | trackback (x) | 三春昭進堂 菓匠蒼龍 髙橋::三春昭進堂髙橋氏 |