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三春物語127番 貝山村 「道祖神」


三春城下境にある旧貝山村道祖神は、道陸神や塞の神とも呼ばれる路傍の神である。
他には、鷹巣虎杉下や、実沢高屋敷の薬師堂の下などに見られる。
いずれも部落境にあり、外から来る疫神や悪霊などを集落の境で塞ぎ防ぐ神さまといわれる。また、それが旅の安全を守る神さまへも変容するとされています。
主に石碑や石像の形態で祀られる神で、古い時代のものは男女一対を象徴する ものになっている。
餅つき(男女の性交を象徴する)などにもその痕跡が残る。
 実沢の古い言い伝えによると、一人の醜男がおり、嫁の来手がなく、その腹いせに「里の娘たちが嫁にいけないようにしてやる」といって道陸神になったという。
また、貝山道祖神の言い伝えは、ある女の持ち物があまりにも大きくて、誰も相手になる男がなく、旅しながら相手を求めて各地を歩き回っていたが、その途中で思いを果たせず路傍で倒れ、後に道祖神として祀られるようになった。
それゆえ大きいほど喜ぶといって石の男根を供養のために奉納したといわれています。
 新町庚申坂のお女郎たちは、この道祖神を篤く信仰したと伝えられています。
 道祖神は、花嫁を見ると非常にやきもちを焼くき祟りがあると云われ、花嫁行列は道祖神の前を避けて違う道を通り、どうしても通らなければならない場合は、仲人である御指南様の奥方が道祖神の前に立ちふさがって花嫁を通らせた。
 また、耳の病気に御利益があるといわれ祈願するといい、全快のお礼には神の鉢やお椀の底に穴をあけて糸を通して道祖神に供えました。




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鷹巣薬師堂の道祖神


御神木の桧があり、その枝振りが虎の姿ににていることから「虎桧」と呼ばれています。


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| ryuichi | 04:25 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧中郷村::貝山・春田・春沢 |
三春物語34番 陽徳院「愛姫」誕生地の碑


 陽徳院愛姫は、永禄12年ころ(1569年)田村郡三春町に城を持つ戦国大名田村清顕の娘として生まれました。

そのころ田村氏は、蘆名(会津)・二階堂(須賀川)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(平)など、周囲を敵に囲まれていました。

このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘愛姫を米沢城の伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせました。
伊達氏の力を得て、田村氏は領地を維持することができました。

一時、夫婦仲が悪くなったと伝えられている。しかし、その後、夫婦関係は修復に向かったと思われ、彼女が京の聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)には、後に松平忠輝室となる五郎八姫(イロハ姫)を出産。

それから、仙台藩二代藩主忠宗・宗綱・竹松丸と、政宗との間に4人の子をもうけた。

聚楽第の伊達屋敷に住むようになってからも、いわば女性外交官的役割で政宗に京の情勢を知らせ「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな。匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送り、よく政宗を内助の功でもって
支えていたと思われる。







三春田村氏は、豊臣秀吉によって改易になりましたが、愛姫のはたらきかけにより、孫にあたる宗良が田村氏を名乗り、岩沼三万石の大名に取り立てられました。後に、所替えにより一関三万石を領しました。

墓所は瑞巌寺に隣接する陽徳院。

導師の雲居禅師も、愛姫について「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」と、愛姫の人柄について語る言葉を残している。また、瑞巌寺の尼僧姿の愛姫像も美しく、「愛姫=めごい(愛くるしい)姫」の愛称どおりの女性だったようである。






| ryuichi | 04:18 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春城下大町::三春城由来 |
三春物語152番 「安倍ノ称安東秋田生駒実季」
 下国家安倍安東ノ秋田家菩提寺「秋田山龍隠院」

安倍ノ称 安東秋田 生駒実季
秋田藤太郎と称した。
号は宗実。

安東愛季の長男。正室は、細川京兆家の細川信良(細川昭元)娘。
安東氏は安倍貞任の末裔と言われる。

11世紀から始まる名門であり、実季は安東氏第9代、秋田氏第2代にあたる。
十三湊を本拠として勢力を拡げたが、戦国期の安東氏は氏族が幾つにも分かれ抗争していたが実季の父愛季の代で統合され同時に全盛期を築き上げた。
1587年(天正15年)、父の愛季が病死したため、わずか12歳で後を継ぐこととなったが、その継承に不満を持った従兄弟の安東通季が反乱を起こす(湊合戦)。
通季は戸沢氏や小野寺氏とも通じていた。

実季は機先を制して出撃するが撃退され、逆に自身が檜山に籠城するなど苦戦し、3年の歳月をかけようやく鎮圧した。
この合戦は惣無事令違反と豊臣秀吉に見なされ一時問題となるが、実季の中央工作によって出羽秋田5万2千石の安堵を認められた。その後、小野寺義道と戦うがその隙を狙って南部信直が侵入、これとも激しく戦っている。
没収された領地のうち2万5千石は太閤蔵入地とされ、実季はその代官となった。
その後、実季は秀吉に従って朝鮮出兵にも参陣した。



慶長7年、関ヶ原の際の不手際を責められ、徳川家康の命を受けて常陸の宍戸に転封された。
このとき、その処遇を不満として姓を秋田から安倍伝承の宮家の名称「伊駒」へと改めている。
太閤蔵入地とされた旧領が豊臣氏の所領として家康によって没収された事に実季は不満を抱いたのではないかとも推測されている。
慶長16年、従来自称してきた「従五位下秋田城介」に正式に補任。
大阪夏の陣では毛利勝永隊と激突するも大損害を出し敗れた。

寛永7年、徳川幕府の命令で、わずかな近習を引きれ、伊勢の朝熊へ蟄居を命じられた。
長男の俊季との不和に加え、従来からの檜山系湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとする見解が出されている。
秋田氏は俊季の幕府への忠節と、実季の妻が織田信長の姪で将軍秀忠の妻崇源院の従姉妹に当たることもあり、三春5万5千石に移され存続を許された。



三春藩主菩提寺龍穏院 秋田家墓所
第8代藩主謐季(やすすえ)候だけが埋葬されています。

また、宍戸より転封の時に運んだ、三春初代藩主の祖父安倍安東愛季公の墓所でもあります。



龍穏院宇内にある金比羅堂



 新観音から移籍の「正徳六地蔵」


福井小浜羽賀寺にある実季公木造

実季公和歌 
「我が庵は 道みえぬまで 茂りぬる すすきの絲の 心ぼそしや」
凍蚓(とういん) 伊勢朝熊蟄居後雅号


| ryuichi | 04:00 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
三春物語95番 「平沢元町 物外地蔵堂」
平沢元町 物外地蔵堂

播揚物外紹播和尚は、江戸初期、三春城外の李田(すももだ)に生まれました。
三春福聚寺の悦峰西堂の弟子となり、宇都宮興禅寺、館林慧林寺、京都妙心寺等に参禅・住持して、宍戸藩主の秋田実季の招きに応じ宍戸高乾院に赴きました。
 江戸幕府二代将軍秀忠の江戸城への招きや伊達政宗の瑞巌寺開山の誘いを固辞して参禅者に教えを説いたと伝えられています。

この「物外地蔵堂」は、その母が子供の出来ないのを憂い、平沢の地蔵堂に三年間願を掛けたお地蔵様を安置してあります。
また、雲水として行脚を続ける物外禅師も故郷三春を訪れた時には、この地蔵堂の脇に設けられた「保春庵」を庵居としていました。
後に、後光明天皇の聖聴に達し、「勅諡 播揚大教禅師」の諡(おくりな)されています。


こちらは、物外地蔵堂のすぐ近くにある、「おすわ様」とよばれる「諏訪神社」です。







| ryuichi | 20:29 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧御木澤村::平沢 |
三春物語163番 三春城守護「守城稲荷神社」
 

  守城稲荷神社
 三春初代藩主秋田河内守俊季公が、常陸國宍戸から三春転封の際に、「所願成就の神」として、重臣渡辺弥右衛門に命じて「宇賀御魂神」を三春城内畑山に勧請したのが始まりです。
後に、城内の中腹にあった中森出丸(現在の場所)に移転しました。
祭礼は、初午に執り行われます。



この守城稲荷にまつわる昔話が残っています。伝承には、
その昔三春藩士秋田季賢が、狐田村の稲荷さまに「願掛け」をし、願いことが成就しました。そこで、年の暮れの大晦日に、季賢がそのお礼参りをしたいと思いたが、藩の重役をしているため狐田稲荷に参拝することができませんでした。
そこで、今年中に御礼をしたいと狐田稲荷までは行けないが、城内にある「守城稲荷」に御礼参りをして、年明けに狐田稲荷に行くことを決め、守城稲荷にお供物として雉一羽や卵を奉納しお礼をして帰ってきました。
元旦の朝、登城して守城稲荷をみたところ、奉納したお供物が見あたらなかったそうです。
犬にでも取られたのであろうと思いつつ、正月二日には早々に狐田へ参詣に行きました。
すると、驚いたことに大晦日に城内守城稲荷に奉納した雉と卵が狐田稲荷の神前にお供えしてあったと云うことです。



「お稲荷さん」と親しまれている稲荷大神は日本人に最も身近な神さまで、殖産興業、開運招福、火防(ひぶせ)の守護神として、広大無辺のご神徳を慕って多くの人々に崇敬されています。
 「イナリ」の語源については諸説があり、「イナリ」は「イネナリ(稲成、稲生り)」で、稲が育つさまを表しているとも、「イネカリ(稲刈)」の「刈」が「荷」に誤られたとも、また「イナニ(稲荷)」が「イナリ」に転訛したとも言われています。
稲荷大神はご神名を宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と称し、「ウカ」とは「貴い食物」を意味します。つまり宇迦之御魂神とは、「稲に宿る神秘的な精霊」を表し、五穀をはじめ一切の食物を司る神さま、生命の根源を司る「いのち」の根の神さまです。
宇迦之御魂神は須佐之男神(すさのおのかみ)と神大市比売神(かむおおいちひめのかみ)との間に生まれた神さまで、倉稲魂神とも書きます。
兄神には「大年神」がいらっしゃいます。父の須佐之男神は天照大神の弟神として有名ですが、母の神大市比売神はご神名に「市」をもたれるように「市場」や「流通」の神さまで、兄神の大年神は「大年(おおとし)」すなわち「大稲(おおとし)」の神さまで、私たちがお正月に「年神さまを迎える」という時の「年神さま」に当たります。
宇迦之御魂神は、「古事記」の大宜津比賈神(おおげつひめのかみ)や「日本書紀」の保食神(うけもちのかみ)と同神で、いずれも五穀の起源の神さまとして記されています。
以上のことから分かりますように、宇迦之御魂神は御自身が食物を司る神さまであるとともに、一族に流通や稲に関わる神を持つ、人間の生活にとって根源的な役割を司る神さまであられるわけです。
食物の神、農業の神として崇敬された宇迦之御魂神は、民間の工業や商業が盛んになりますと広大無辺な御神徳を慕われて、殖産興業の神としての信仰が広がっていきます。
近世になると農家ばかりでなく、商家、町家、大名にいたるまで稲荷大神への崇敬が広がり、ご分霊をいただいて屋敷神や家庭神、地域神としてお祀りする人々が増えていきました。



| ryuichi | 13:58 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春城下大町::三春城由来 |
三春物語153番 「下国家安東氏」


下国家安東氏
安東氏(あんどうし)は、日本の中世に本州日本海側最北端の陸奥国、津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した豪族でした。
津軽安藤氏ともに、本姓は安倍を名乗ります。
鎌倉期には御内人として「蝦夷沙汰代官職」となり、室町時代には「京都御扶持衆」に組み入れられたと推定され、後に戦国大名となった。
近世以降は三春秋田氏を名乗り近世大名として存続し、明治維新後は子爵となります。

経緯の詳細は不明であるが、室町時代に入ると下国(しものくに)と上国(かみのくに)の二家に分かれ対立したと見られている。
上国家は出羽小鹿島や出羽湊(現秋田市)を領し、後に秋田郡を制して秋田城介を称した。
一方、津軽を領した下国家は15世紀半ば頃、東の八戸方面から勢力を伸ばしてきた南部氏に追われ、いったん蝦夷島に逃れた後、室町幕府の調停で復帰したものの再度蝦夷地に撤退、更に出羽に移り檜山(現能代市)を中心に出羽最北部西半から蝦夷地南部を領した。下国家と上国家は、それぞれ陸奥国北辺と出羽国北辺で蝦夷管領の役割を果たしていたとも考えられる。
この頃から「安藤」の表記を「安東」とする。
更に、室町幕府の奥羽大名施策において、両安東氏を「屋形号を称する家柄」として秩序立てていた。

出羽南遷前の安東康季は、若狭国羽賀寺の再建に際して「奥州十三湊日之本将軍」と称し、天皇もその呼称を認めていたということが知られている。
初代安東政季は、分家の潮潟安藤家出身であったが、下国家の蝦夷島撤退のころ南部氏の捕虜となり、まもなく南部水軍の根拠地であった、現むつ市である田名部を知行し「安東太」を称した。
これを、南部氏が政季を傀儡とし北方海域の各地に広く分布していた安藤氏の同族を掌握したため、北方海域の安定化と幕府権威の浸透につながったとし、このとき下国家は断絶し潮潟安藤政季から新たに檜山安東氏が始まるとしている。
しかし政季もまた南部氏と対立し戦闘に敗れて蝦夷島に撤退している。
このとき、三守護職を代官として設置した「道南十二館」ことが『新羅之記録』に記載されているが、実態は安東家政、或いは安東定季が一人守護として統括していたとする見解も出されている。

下国家は安東政季以降、津軽と隣接する出羽国河北を本拠地とし、津軽帰還を試みたが果たせなかった。
1456年(康正2年)、「河北千町」を領していた、葛西秀清を政季・忠季父子が滅ぼしてここに本拠を構え、政季が築城を開始して忠季が1495年(明応4年)頃に修築を完了したのが、檜山城である。
以後、尋季、舜季、愛季、実季まで5代にわたり下国家檜山安東氏の居城となり、ここを本拠に陸奥国比内、同国阿仁方面に勢力を拡大したと見られる。比内と阿仁が出羽国の一部として扱われるようになったのは、これ以後と推定される。
忠季以降の安東氏は、檜山築城や寺院建立を行う一方で蝦夷島の経営にも努め檜山屋形と称した。
しかし、次第に蝦夷島が安東氏の統制から離れ始め、特に蝦夷において被官であった蠣崎氏が上国守護職に加えて松前守護職を名乗ったことを追認せざるを得なくなるなど、室町末期の戦国前期には実質上北出羽の一豪族となった。
しかし、下国家はなおもかつての勢力圏の支配の意欲を捨てておらず、「東海将軍」を称して内外に出羽、陸奥北部から蝦夷にかけての支配圏を誇示しようとした。
特に舜季は蝦夷地に渡り蠣崎氏とアイヌとの講和を仲介するなど蝦夷に対する一定の権威を示している。



宍戸から運んだ、秋田愛季公墓石



| ryuichi | 08:58 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
三春物語108番 西方「水かけまつり」
 

西方「水かけまつり」泥かけ祭り
大滝根川に沿った三春町西方地区の塩釜神社で、子孫繁栄と五穀豊穣祈願のため、毎年元旦に行われている行事です。

西方地内に伝わる三百年余りの伝統を持つ小正月の行事で、以前は15日に行われていましたが、現在は元旦に行われています。
この祭りは、バケツで激しく水をかけ合い、無病息災・子孫繁栄・五穀豊穣を祈願する「みそぎ」の行事です。
神事は、村に疫病が流行ったとき水場(井戸)から霧が 立ち上り、まもなく疫病がおさまり一村全滅にもなりかねない 伝染病が霧のごとく消滅した喜びに、村人達は「これは鎮守塩釜 神霊の加護に相違ない」と感じて陸前の本社で行っている、水祝い の行事で水垢離(みずごり)をとったことに始まったと言われています。



また、天正年間(1573~1591)三春城にあった田村氏の武将として名をはせた田村四十八舘で、「霧舘」と呼ばれた「西方舘」城主千葉紀伊守が、与力や領民の士気を鼓舞するために始めた祭事といわれています。



まず、前祝いの酒宴がもたれ、頃合いを見て全員がまわし一つの裸となり、村を流れる大滝根川に入って禊ぎをします。続いて一同うち揃って塩釜神社に参拝し、一気に行井戸にかけおりると、桶やばけつで水をかけあいます。
井戸水はたちどころになくなるため、田の泥水まで汲み出し、前後の判別 のつかないほど泥まみれの者も出てきます。
やがて、区長の合図で止め、「万歳三唱」して終了します。
水かけまつりの本義は、若者仲間の婚姻承認の祝福であり、氏子のひとつの試練で、新しい年を迎えての厄払い、五穀豊穣、村内安全の祈願などが習合したものと思われる。



村内にある「西方不動堂」です。
この不動様は、「おてはんにゃ様」と呼ばれ、旧歴三月十五日の祭礼には「般若経」六百巻が転読され、参拝の村人のひたいには墨の角印を押してもらい無病息災を祈願します。

また、「ちちつけ観音」と呼ばれる観音様も鎮座し、祭礼に配られる「走る馬」の焼き印を押した小板は仔馬のたてがみに結ぶとその馬が丈夫に育つといわれています。
尚、「ちちつけ観音」とは、仔馬が乳を飲みつけないときに参詣すると乳を飲むようになる。




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| ryuichi | 04:43 | comments (0) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::西方 |