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平成版三春怪奇伝説 “美代淵” 旧山田村



三春怪奇伝説“美代淵の由来”


三春城下から西に約一里にある下山田停留所から、2百米ほど西で道路が大きく曲がる辺りに、川の流れが渦を巻く小さな淵があります。
晩春の頃になると、藤浪の花が川面に美しく揺れている場所で、何時しか「美代淵」と呼ばれるようになりました。

江戸中期の寛文の頃、鷹巣村に岩崎という庄屋があり、気立てが良く働き者の下女が住み込んでいました。

その下女が、この“美代淵”の名前の由来となる”美代”です。

当時、美代は、娘盛りの19歳の春を迎えました。

そしていつしか恋を知りました。

相手は、同じ岩崎家の下男作助です。
二人は人目を忍びながら、嬉しい逢瀬を楽しんでいました。

ところが、そこに美しい美代に恋を寄せるもう一人の男が現れます。

主である庄屋岩崎家の次男坊誠三です。

それとなく美代に言い寄りますが、美代はまったく靡かず、心すら許しません。

業を煮やした誠三は、「可愛さ余って憎さ百倍」とばかりに、手段を択ばず理不尽な仕打ちをしますが、それにも抵抗し続けて操を守り通します。


いつしか、誠三は作助と美代の間柄に感づきます。
そして、その年の暮れに、庄屋である父親に作助に、あれやこれやとありもしない罪を擦り付け、讒言し続けて、解雇してしまいます。

作助は、美代のことが気がかりで、後ろ髪を引かれる思いのまま庄屋を離れ、行方をくらましました。

取り残された美代は、誠三の露わな挑みと闘いながら、片時も忘れかねる作助への慕情を間やし続けていました。


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翌年5月初旬、美代は裏の水車小屋の傍らに立って、ぼんやりと川面に目をやっていた。

川岸には藤の花が真っ盛り、川水を薄紫に染めあげ、とろりと凪ぎていました。

すると、その川底に愛しい作助の面影がほのぼのと見えるではありませんか・・・・

美代は、一瞬身をひるがえして水底に見える恋人作助の抱きつきに行きます。

明治19年県道整備、大正3年磐越東線敷設、昭和になって国道288号線整備など、道路や河川整備工事が進み、“美代渕”の川の流れやその形も変わってはいますが、幾幾年川岸にある藤の花だけは、時節になると川面を薄紫に染めて、美代の悲しい恋色に咲きだしています。




古い広報三春内「怪奇伝説 美代淵の由来」参照


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:05 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春怪奇伝説 |
第三十四回「ANAチャリティー大歌舞伎 福島特別公演」



先日、郡山市民文化センターにて開催された、「ANAチャリティー大歌舞伎 福島特別公演」に女房を伴って見物に行ってきました。

10月が誕生日なので、そのプレゼントとして秘かにチケットをゲットしておきました。





この大歌舞伎は、ANAが全国各地で開催し、今年で27年目(34公演目)を迎えます。
今回は、熊本地震の募金チャリティーも兼ねていました。




市川 猿之助さん、坂東 巳之助さん、のダブル初演

演目:『獨道中五十三驛(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』京三條大橋より江戸日本橋まで
浄瑠璃「写書東驛路(うつしがきあずまのうまやじ)」
出演:市川 猿之助、坂東 巳之助、市川 猿弥、市川 春猿、市川 寿猿、市川 笑三郎、市川 笑也、市川 門之助 他


会場では、福島民報会長渡部世一さんも奥さんとご一緒にお見えになっていましたので、挨拶だけさせていただきました。




私たち夫婦も、和装着物でお洒落して、歌舞伎見物です。

その日は午後から三春中学校の「三春シンポジウム」の講師に招かれていましたので、最後に20年たっても夫婦でお洒落してデートできる家庭を作ってくださいと締めてみました。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 04:53 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
「三春シンポジウム 28」 三春中学校一年生総合的な学習の時間


「三春シンポジウム 28」 三春中学校一年生総合的な学習の時間

昨日、わが母校三春中学校の一年生総合的な学習の時間「三春シンポジウム28」の講師に招かれてお話をしてきました。

町産業課課長の新野さん、商工会ビジョン委員会委員長伊藤さんと三人が講師です。

昨年に続き、二回目となります。





私は、菓子屋、商人、そして歴史や伝説といった観点から三春ことを話してまいりました。

「三春シンポジウム」 三春中学校   平成28年10月25日(火)
自己紹介
三春昭進堂 塵壺(平成3年より303号) 平成版三春物見遊山
ホームページ 三春9割  全国に発信!
三春(ロマンチックな名前)、瀧桜 全国区の地名 三春の饅頭屋 

修業 湘南は茅ケ崎 東京 三春が言えなかった みんな知っている
郡山商業 大学行ったら三春に帰らない

経営者 仕事がら、全国の経営者 
挨拶や懇親会 お国自慢 自分の出身地を背負って 社会で活躍!
胸を張って三春の歴史や長所 伝える    三春=自分 

三春という小さな町 少し目立つことをするとメディアが拾う
車社会 県中 郡山25万人 近い 強味  
自転車でGO!三回 テレビや新聞、雑誌  福島県民手帳 スイーツパスポート
NHK以外 広島テレビ 新潟テレビ

歴史と文化  郡山にないもの 歴史 一寸法師 
明治維新 廃藩置県・全国の諸藩は長年の累積負債・借財の山 
経済は貨幣~武士の給料は米 両替が必要 

三春も明治初年藩の財産、殿様江戸(東京)へ参勤交代 家家族は江戸常在
御城石垣、蔵、倉庫や庭園の灯篭、上大町 公官庁建物売却 債権放棄 返済
   お城山上段の石垣 秋田家慰霊碑 その残り

明治初年 三春小学校明徳門 学校の門(教育のシンボル)として残す
~三春人の民度の高さ 

教育 江戸末期の大火 藩学校講所 明徳門 
各村々に学校創設  お寺 村に寺子屋 三春の教育水準の底支え 

尼ケ谷 {正徳の六地蔵}天女碑 幕府の奨励
武士は「お謡(能謡曲)、町人は浄瑠璃(文楽の歌)で日本語の教範としていた」




司馬遼太郎著「坂の上の雲」冒頭のナレーションより引用
明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。 
産業といえば農業しかなく、人材といえば江戸時代の三百年の間、読書階級であった旧士族しかなかった。
明治維新によって、日本人は、はじめて近代的な「国家」というものをもった。
誰もが「国民」になった。 日本という感覚をもった
不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。(幕藩体制では、三春・会津といった各藩は個別の国的感覚 通行手形)

社会のどういう階層(士農工商の階級)のどういう家の子でも、ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。
この時代の明るさは、言い換えれば教育欲は、こういう楽天主義から来ている。


明治維新後の、士農工商身分制度からの脱却 自由民権運動 河野広中ら 三春の教育

「日本の唯一の資源は人であり、人を育てるのは教育しかない」 
                        
街並み

首都圏三春出身縁 三春舞鶴会 同級会 友達 サークル 三春旅行
名誉町民田部井じゅんこさん ファン来店 

小さな城下町 三春 観光バスが大勢の人がわんさか来る場所ではない 小グループ 

春先の桜の時期、観光バスはじめ 多くの観光のお客さまは、滝桜周辺を見てお帰り 
平均滞在時間は1時間  その一割でも町中に

世界的に活躍する日本を代表する建築家や照明デザイナー(美人に見える工夫)、写真家などが長期間のプロジェクトに参加
きれいに整備され街並、一方昔懐かしい町並みの面影が残る

単に歴史や文化が感じられるというだけでなく、生活のにおいがする魅力的な小さな城下町
地元の人々が居住し生活する場であり、近郷近在よりの買物のお客さまが出入りする場であり、さらに近年は 春、桜の時期だけではなく四季を通じて観光のお客様が訪れる魅力的な城下町でもあります。

これは、城下だけではなく、それぞれの地区に様々な魅力がある

各神社の祭礼(郊外11月3日)「三春盆踊り」、だるま市、お城山まつり 秋まつり
様々なイベント 今を生きる私たちの生躍動する活観 

城下の道は、城下町のなごりで、道路は狭くて複雑であるため、生活に不便な点もありますが、御城坂 北町の坂や桜谷、天狗谷、谷間が多く、道が狭いことがかえってこの街の魅力を高めています。
北国の小さな城下町三春は、城下にこそ魅力があると思います。

城下の隅々を歩く 裏道の路地をぬけ、桜川や裏道の小さな公園にあるベンチでくつろぐ。
また、郊外では、稲穂 田園風景や道端の地蔵さんや石碑で心が和む、そして地元の人々とのふれあうなかに本当の魅力を発見します。 
城下 街中 地蔵・石碑は立てられなかった

来月初めには、三春ウォーク 

三春は大型バスで来るような大規模な観光地ではなく、歩いて楽しむまちであり、駐車場に車をとめて、まちの中を歩きまわってはじめてその魅力を肌で感じ、十分に味わうことができる小さな城下町です。

伝えたいこと

冒頭の地元・出身地を背負って 日本人の社長の皆さん
初めての人は、三春をその人をフィルターとして見ます。

課題としては、今の子供たちは自己の肯定がすくない 自分の生き方 仕事 家庭 趣味サークル 自信を持つ

地元を見る=足元~自分自身
掌に人の字 下を見る 足元が目に入る

どこに行ってもどんな状況でも、自分自身を見失わない 足元

どこから来た 「はい、三春です」 胸を張って 

最後に、これから家内と着物でお洒落して歌舞伎を見に行きます。

結婚二十年たってもお洒落してデートできるような家庭を作ってください。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 05:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 学校支援 |
平成版三春今昔物語「三春城下中町懐古の巻」



三春今昔物語平成版「三春城下中町の巻」


三春城下中町は、昔から大店が店を構え、商売で繁昌してきた商人の町です。
毎月の2と7の日には市が立ち、“折り返し糸”や“たばこ”などの農産物から、鎌や鍬などの農耕器具、工芸品、そして茶店などが出店していました。

本陣本店川又氏、桐屋橋本氏、小野屋橋本氏等々、幾百年か続いた老舗大店です。







御免町は、藩士侍屋敷で、小堤氏、熊倉氏などの武家屋敷がありました。

御免町から裏町へ抜ける通り、旧代官町には、昭和の初めまで料理屋を営んでいた「玉川」(佐々木氏)がありました。

この場所は、江戸時代初期に松下氏が三春城主になるまでは、当時三春を納めていた会津120万石所領時代(約70年間)の代官所のあった場所でした。

小野屋角(現松竹クリーニングと福内屋付近)から、荒町職人横丁への道は、牢屋小路。

大藤屋魚店裏とベニマルの間の通りのいわゆる“しょんべん横丁“には牢屋がありました。

馬場、尼ケ谷全域は、昔の御厩があり、百間馬場が整備され藩士の乗馬鍛錬場でした。
また、馬場桜が毎春になると見事に咲き誇っていたといいます。





旧三春藩総社であった三春大神宮は、貝山岩田地内より元禄2年に、現在の場所である「神垣山」に遷宮されましたが、明治維新の廃藩置県や廃仏毀釈、さらには明治の中ころの大雨による土砂崩れなどにより、廃れていましたが、昭和6年に、当時厄年だった壮年有志の皆様の手により幣殿拝殿の再建拝されました。




このとき、社殿周辺の敷石や基礎の用いるために、三春小学校児童約1700名と教職員は、町内を流れる桜川から川石一人二個づつを拾い境内に運び上たと三春町史は伝えています。

芥川賞作家玄侑宗久さんが住職を務める福聚寺は戦国時代の永禄の頃に、日和田三丁目から移され、戦国期の三春城主田村氏田村義顕、隆顕、清顕三代の菩提寺です。

また、前記の代官町玉川の隣地には、お不動山と呼ばれる小高い丘があり、不動尊を祀った清水寺がりました。

御厩跡には、明治12年には旧士族たちが交付公債出資で製糸工場「厚生社」を創立しますが、士族の商法で事業不振になり、同32年には「三盛社」(日向町にあった前の三春中学校の場所)に合弁されます。

今の愛宕下の「清酒三春駒」の“佐藤酒造”、以前は“金かぶ酒造”でした。
それ以前は「清酒白つつじ」の“緑川酒造”で、大越伊勢屋の「清酒黄水」とともに、商都三春の銘酒として、中通りのみならず、浜通りの方々にも愛飲されていました。

明治36年当時の記録によると、田村、安積、安達の三郡酒造醸造連合共進会に於いて「菊水」が一等賞に輝いたとあります。





新築の中町公民館が立つ、旧ベニマル跡地には、かつて田村郡蚕連事務所があり蚕・繭の市が開かれていました。
これは、大正14年旧三春馬車鉄道会社跡に、三春銀行頭取・山三渡辺商店の社長である渡辺平助氏などの尽力により創設された繭市場の建物でした。


尚、昔から谷間に開けた三春城下では大火の多い場所でしたか、中町は不幸にして、明治になってからも39年と43年の二回大火に遭遇していしまいます。
今の道幅は、この大火の跡に拡張された道です。

古い三春広報内「三春今昔物語中町の巻」参照


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:04 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下中町 |
「菅名岳」 阿賀野川ライン下り名物船頭”中ばっぱ”一押しのお酒



先の三春大神宮祭礼で、荒獅子が新町セリ場で休憩している時に、42年生まれの弟の同級生儀同くんや太くんが、若者に混ざって荒獅子に世話人として参加しています。

神輿渡御の際の先ぶれの時はお祝いは獅子に食ってもらいましたが、頑張っている姿に敬意を表して山口の銘酒「獺祭」を差し入れしました。




すると、世話人の儀同君から「菅名岳という旨い酒を買って来たから飲んでみ」といわれていました。

早速、昨日差し入れしていただきました。

中ちゃんも太鼓判を押していた菅名岳というお酒。

正直初めて知りました。




阿賀野川ライン下り名物船頭の"中バッパ"一押しのお酒だそうです。

何でも、三春城下荒町消防団の旅行で舟下りに乗船し、上記の中バッパから阿賀野川ライン下りに乗ったら船着場でしか売っていない酒だと、さらに飲んでも美味しいと太鼓判をおされた酒らしいんです。

皆さんがいう通り、スッキリしたのみ口と喉越しで美味しい!

ありがとうございます。





寒九の水汲み
古来より一年で一番寒さが厳しくなる「寒の入り」から九日目に汲んだ水(寒九の水)はもっとも澄んでいて、酒造りにおいては最高の酒が出来るといわれています。
毎年寒の入りから九日目に菅名岳どっぱら清水へ仕込水を求めて、200人を超す参加者が雪を踏みしめて、10L又は20Lのタンクを背負い山道を歩きます。 こんな苦労して汲み上げた仕込水を使って造った酒が菅名岳でもあるのです。
菅名岳ラベルより




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 06:10 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
田村庄司 領内要害一覧(天正年間前後~)  


田村庄司 領内要害一覧(天正年間前後~)  

守山山中城 田村相模守

牧野舘   猪狩下野 三百五十石 三春札場へ三里二十六丁

七郷堀越舘  堀越尾張 六百五十石  三春札場へ二里十五丁

駒枝舘   永井五郎

黒木舘   黒木大膳

海老根舘  三本木十郎右エ門

耕田舘   大河原丹後守

芦沢舘   橋本修理 後田村民部 千七百石 三春札場へ二里

湯沢舘   燧内大学 五百六十石 三春札場へ八里

和名田舘  根本豊次

小塩庭舘  草野伴右エ門

羽出庭舘  大塚尾張

赤沼舘   塩田堅物

蒲谷舘   会田遠江

波籠石舘  中野道満

小戸神舘  郡司喜右エ門

中津川舘  中津川兵部

吉野辺舘  吉野辺外記

飯豊鴨ヶ舘   郡司掃部 小野与力衆 郡司豊前守敏良 愛姫侍従おさきの父 天正17年7月3日下枝城攻の帰路討死
          同小野与力衆 郡司雅楽頭敏貞 郡司豊前守の嫡子 天正17年7月3日下枝城攻めの帰路討死

小野山神舘 先崎周防

雁股田舘  吉田宮内

大倉舘主  先崎主水介徳近  

田母神舘  田母神玄蕃

熊耳舘   熊耳太郎左衛門  六百九十三石 三春札場迄二十四丁

石森舘   金堂右エ門  七百六十石  三春札場迄一里二十八丁八間

新舘舘   鹿又備前   七百九十石

南宇津志舘 菊池兵部太夫 五百二十三石 三春札場迄四里十六丁

上宇津志舘 田村宮内太夫 七百石 三春札場迄五里

御祭舘   小山左馬之助 五百五十石 三春札場迄二十二丁

鹿又舘   田村月斎 千四百六十石(岩瀬郡今泉城に帯地) 

丹伊田舘  丹伊田玄蕃 千三百石 三春札場迄一里十二丁 (田村頼顕、月斉椿舘二子)

門沢舘   門沢式部 六百石 三春札場へ三里四丁

栗出舘  門沢右馬助 三百六十石  三春札場へ四里

神又舘   神又久四郎 後常 葉 久 四郎 (常葉甲斐守弟) 八百八十石  三春札場へ五里十七丁 小野城下衆

神又船形城 舘主不明 三春札場へ五里半

早稲川舘  早稲川修理亮 四百六十三石 三春札場迄五里二十五丁

常葉城   常葉甲斐守 五千石 

赤石沢修理 千八百石 野伏七貫 一騎之者百人

西向舘   三善中納言常光 千二百石 常光寺建立 七代目庄屋七右エ門傳 後舘主新城宮内
     
笹山舘   笹山五郎兵衛   六百九十三石 三春札場迄一里六丁十五間

大倉舘   小笠原彦七郎   六百六十五石 

石沢舘   田村右エ門   七百三十石 三春札場迄二里二十一丁二十九間

富沢舘   富沢玄蕃 千二百石 三春札場迄一里二三十丁

七草木舘  七草木新助 五百石 三春札場迄二十五丁

長外路舘  鹿又太蔵   四百九石  三春札場迄二里三十五丁

鬼生田舘  鬼生田弾正 千五百石 三春札場へ二里

菅谷舘   佐藤隠岐 二千石 三春札場西里三十丁

上広瀬舘  広瀬今泉

上大越城  大越紀伊守信貫 一万石(安積六百石、二千大越、三百五十石牧野) 紀伊守没後息の田村宮内領す 本丸、北ノ丸、西ノ丸、東ノ丸、西北丸

下大越舘  大越紀伊守 大越郷は、元下沢郷と称していたが大越紀伊守の声が大きいため田村公より大声(大越)の名字を拝命、是より下沢を大越と改めたという。
紀伊守は、此城より上大越城に移り、田村清顕死後相馬公に与し、相馬家中大越氏はその子孫と伝わる。

関本舘  関本太郎右エ門 三百石  三春札場迄四里六丁

上広瀬舘 舘主広瀬今泉守 二千石 三春札場へ六里

下広瀬舘  富沢丹波 八百五十石 三春札場へ六里二十七丁

阿生田舘主 大竹築後守秀延 

水谷舘   永谷豊前 二百七十六石  三春札場迄二里二十丁

小野新町城  田村左馬之助

荒井舘    荒井式部

手代木舘   遠藤右近

小川舘    馬場掃部

道渡(谷田川)舘 折笠左近

川曲舘   川曲宮内太夫

谷田川舘  大寺安房

金屋舘   佐原内蔵之助

大善寺舘  柳沼門主

安原舘   安原下野

阿久津舘  阿久津右京

舞木舘   舞木出雲

木村舘   木村内記

白岩舘   久我主膳

柴原舘   橋本和泉

蛇澤舘   新田蔵助

三城目舘  穴沢新助

實澤舘   實澤山城 千三百石 三春札場四里十丁

行合舘   松崎主膳

沼澤舘   沼澤孫兵衛

上石、過足舘 中山太郎右衛門尉

牛縊舘   牛縊五郎エ門 三百五十石 三春札場迄一里半

樋渡舘   樋渡藤八郎

宮田舘  舘主宮田惣兵衛

春山舘   太田信濃 千五百石  三春札場迄一里二十丁

船引城   田村秀明 七千三百石 本丸、西ノ丸、東出丸、辰巳丸 

貝山舘   貝山藤兵衛 七百石 三春札場迄二十五丁

西方舘   千葉紀伊 大越紀伊弟 三百十六石 三春札場迄一里半 本丸妙見山

斉藤舘   斉藤大膳 三百五十石 三春札場迄二里

高倉舘   今泉山城 千石 三春札場迄二里 本丸 東西四十三間 南北二十間 (今泉氏築ク) 下舘11ノ丸縦三十間横二十間 (橋本藤蔵築城)

下枝城   橋本刑部 千百石 三春札場へ三里 

木目沢舘  木目沢式部 五百石 三春札場迄二里半

柴原舘   柴原助左衛門 三百五十石 

赤沼舘   赤沼弾正 二百五十石 三春札場迄三里

細田舘   中津川右衛門 六百石 三春札場へ四里半

浮金舘   為 源次

移、中山舘 大多和泉



田村小史 影山常次著参照


| ryuichi | 05:04 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
真照寺アオサギ撃退用テングス



初秋を迎えた、真照寺方丈池です。

池の上に何やら光る線が数本見えますか?





これは、三春城下の寺院の池にいる魚を狙ってここ数年やってくる”アオサギ君”を撃退するために張った釣り用のテングスです。

磐梯造園さんが、9月の終わりに設置しました。

お陰様で、アオサギ君もまだ近寄っては着ません。





このままあきらめてくれるといいんですが・・・・

しかし、三春城下の寺院の池を回遊しながら餌を捕まえているとは、頭がいいんですね。




尚、本堂階段の御影石張替の工事が完了しました。

さすが、てっつぁんです!
職人技が生きています。


尚、三春城下秋の風物詩「紅葉ライトアップ」が11月5日から始まりますが、この真照寺方丈庭園の紅葉もライトアップされます。

ご期待ください!


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂




| ryuichi | 05:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸猪苗代磐梯造園 親方の教え |