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成田山新勝寺参詣 朝一番の護摩祈祷!


先日、所用があり、千葉にある成田まで出張してまいりました。

折角の成田です、空港近くのホテルに一泊では味気がありません。


ここは、私三春城下新町の真照寺門前で、四代に亘って商いをさせていただいていますので、同じ真言宗智山派の成田山新勝寺門前にある若松屋本店さんに宿をとりました。

三春城下真照寺では毎年「成田山講中」の成田山新勝寺参拝を兼ねた旅行を行っています。

近年では、成田山新勝寺参詣の後は、その時節にあった名所旧跡などを廻り、近くの温泉に宿泊していますが、1985年のつくば万博までは、この若松屋本店さんが定宿でした。




高速道路は渋滞もなく、予定より早く着きましたので、早速新勝寺さんに参拝し、門前町の散策と洒落込みました。


実は、6月にも真照寺さんの成田山講中に父親の代わりに成田山新勝寺には参詣に来ていますから、今年二回目です。




日曜日の午後、丁度お寺さんで”雅楽”の奉納があったみたいで、お寺さんは本より、参道門前町も参詣や観光の方々で大変な人出です。





また、参道には鰻を焼くいい香りが、いたるところから近寄ってきてはおなかを刺激していきます!




そうなんです。

成田山は、鰻と羊羹が名物と来て居ます~





早速、鰻の老舗”成田近江屋”さんにて、山葵をチョコッと添えた”うなぎの肝焼き”と”白焼き”で一献!

これが美味しいに何のって・・・・





成田駅の方まで続く、約500メートルくらいの参道沿いのお店は見ているだけでも飽きません。


夜は、成田山新勝寺の参道にある“川豊本店”。

築95年で、昔は旅籠として使われていたそうで、なんとも風情のある建物です。

二回の座敷で、静かな宴会です。

おお姐さんはって?

ここはお寺の門前町ですよ・・・・






新勝寺の仁王門です。





御存じ、成田屋七代目市川團十郎の石造です。

ここ成田山を信心して男の子が授かったという縁から屋号を”成田屋”とした、市川一門。

十一代目 市川 海老蔵さんの闘病中の奥方麻央さんの病気平癒をご祈念申し上げます。





正門の脇、境内広場には、名物のたくさんの売店が並んでいます。

当家の豪栄道にと思い何かお土産を物色いて見ました。




ありました、大好きな働く車!

そして、風車は参道にある老舗”藤倉商店”で買い求めました。

何だか、孫に買っていく感覚ですね・・・・

また、同じ境内堂庭にあるおでん屋さんでは、嫁に来てから50年やっているという看板娘さんが切り盛りしています。

なんでも、息子さんが私と同年代で、成田山参拝の今昔物語で、話で花が咲きまして・・・

また、看板娘さんのおじいさん(明治25年生まれでしたか)が龍吉という名前だそうで、同じ名前ということで、これも御縁だろうと、長命箸をいただいてしまいました。

本当に、ありがとうございます。

門前で宿泊し、門前町で飲食をし、お土産を買う。

昔ながらの成田山参りを経験していますが、これはアリですね!

心身ともに満たされているよう気持ちです。





翌朝は、午前六時から行われる第一回目の護摩祈祷に参詣しました。




これも、真照寺住職に食事の場所を伺いに行ったときに、折角門前に泊まるんだったら朝一の護摩焚きの参詣しては!と案内をいただいていました。

これも、さきの真照寺成田山講中で参詣した折に経験していましたので、勝手知ったるです。

護摩を焚きながら朝課をされます。






この時、参詣の方々が手荷物を手に前の方に進み、若いお坊さんや紋付き袴の職員にそれらを手渡し、護摩の焔で炙ってもらっています。

これは、邪気を払うということらしいので、私も財布や携帯電話、そして免許証、車のキー、さらには家族全員の保険証、学業成就祈願お守り等を入れてて来た巾着を若い修行僧の方に託し護摩の焔で炙っていただきました。

これで金運アップ!商売繁盛!家族の健康!子供たちの学業成就!間違いなしです。





自分への土産です。

春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 05:26 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録::男の隠れ家 |
「あきらめない」 法蔵寺 心のカレンダー10月



「あきらめない」

三春城下荒町 時宗法蔵寺 心のカレンダー10月





矢沢永吉さんの名言に「ドアの向こうに夢があるなら、ドアが開くまで叩き続けるんだ。」

正に、あきらめないということなんでしょう!





「言いたいのは、それひとつだよ。 その生き方を人のせいにしちゃダメだ。」 永ちゃんカッコいい!


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 05:20 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
「三春盆踊り思いでの写真28」みはる観光協会



「三春盆踊り思いでの写真28」みはる観光協会

みはる観光協会の名物企画「三春盆踊り思いの出写真」を新町若連会長の橋本様より届けていただきました。

今年の夏、観光協会の役員ということもあり、十年ぶりくらいに会場に到達することが出来ました。

それまで、新町若連を退会して以来、消防団での警備や当店夏休み、そして途中で酔いつぶれなどが重なり、会場へたどり着けませんでした。




以前は盆踊りも、三春昭進堂へ就職以来、十有余年に亘り、文字通り“本気”で取り組んでまいりました。

三春城下の盆踊りでは、踊り場を持つ八幡町若連と、セリ場のある新町若連が両巨頭としてあったと先輩から教わっていました。

特に新町は地蔵盆、庚申坂新地遊郭の遊女も参加する華やかで人出の多く、正に朝まで踊り明かしたといわれる土地柄です。

その伝統ある新町若連の再興、伝統ある盆踊りの活性化そして継承など全力で当たってきたように思えます。







古より先人の方々が羽織ってきた新町若連の法被、時代の中で塵芥の今見れ汚れてきました。

それを、石屋のかっちゃんが洗濯して、もう一度私が洗濯した。

しかしその時すでに、ボロボロで何とか継接ぎしながら着てきましたが、乞食然とした姿見るに堪えなくなり、橋本会長が新しい法被を新調したということなんだろうと思います。

一人がいつまでもやっているんじゃないという思いの中で、フェードアウトさせていただいてから早十有余年・・・

新調された新町若連。すっかりあか抜けて、後輩達が頑張ってくれています。


三春盆踊りも安泰です。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 04:52 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記::三春盆踊り・だるま市 |
平成版三春古蹟漫歩「南原の大池」



南原の大池

熊耳境南原の大池は、旧要田村大字熊耳字南原にあります。

この池は、旧三春藩三代藩主の秋田輝季が水田灌漑用のため池として構築。宝永8年10月の完成と伝えられています。

但し、宝永8年の4月2日に正徳と改元されているので、正徳元年ということになるんでしょう。

徳川の将軍家で言えば第6代将軍徳川家宣の時代です。

工事の担当は、郡奉行代官大金数馬と名主橋本某で、創設当初は100アール(一町歩)でした。
それでも、灌漑面積が3000アール(30町歩)に及び、熊耳から平沢までの水田がその恩恵に浴していましたから、領内最大のため池でした。

この工事に使った人夫は、延べ人数で2万人と称され、徴用使役として藩内の各村から100石から150石まで毎に毎日2人の出役が割り当てられました。





池の完成後は満々たる水を湛え、魚も溜り、水禽も棲みついたので、これを禁漁禁猟地として、歴代藩主が群臣を引具して猟魚を楽しんだと記録されています。

昭和2年、改築を加え、現在の150アール(一町5半歩)に拡められている。

かつては、櫻も植えてあるので春の花見、初夏の若葉や山躑躅、秋の紅葉、冬の雪景色と四季それぞれの趣がありました。

また、周囲の山は、茸狩りの好適地でもあったといわれます。


古い広報三春内コラム参照


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:49 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧要田村::北成田・熊耳 |
塵壺303号 「明王さまの仁王像二尊」田村大元神社仁王門
 


 「明王さまの仁王像二尊」田村大元神社仁王門

 今でも、「明王さま」(訛ってミオさま)と呼ばれる、三春城下山中にある田村大元神社。

 江戸期、秋田藩政下では大元帥明王社・三春藩領内総鎮守として三春五万石の領民の崇敬を受けてきました。
しかし、神仏混淆(しんぶつこんこう)の大元帥明王は、明治維新後の神仏分離、廃仏毀釈の影響により、明治二年に本殿、拝殿ともに取り壊され、仁王門と仁王像の二尊も、廃棄の憂き目にあいます。

 仁王門は竣工間もない新築なので、そのまま「随身門」として残され、仁王様の二尊は、元々明王社を管理していた別当の三春藩主祈願所真照寺に拾われて、軒下に仮の宿を求めていました。

 時は下って太平洋戦争後には、信仰の自由解放となって“神仏混淆の禁”も解けたこともあり、三春城下の新町の氏子信徒の熱望と、文化財保護の施策とが実を結んで、久しい間“真照寺の仁王さま”と呼ばれていたこの仁王像の田村大元神社随身門(仁王門)への帰還の運びとなりました。

 さて、この仁王さまですが、大元明王社は、江戸中期の寛文10年7月晦日に火災に見舞われ炎上消失してしまいます。
 
後に、本殿・拝殿は再建され、仁王門は、幕末の慶応元年の竣工で、その時に御本尊大元帥明王の守り佛としてこの門に安置されました。

 尚、現在の社殿は田村大元神社として明治32年に再建されたものです。



仁王像の作者は、伊東光運と伝えられていますが、一説には芹ケ沢の西尾官吉だともいわれます。
 光運の監督下で、官吉が彫ったのかもしれません。

光運は、石森の人で久我之助観吾と称し、父は観正院の法印でした。

木工に秀で、三春大神宮の神馬や、大元神社神門梁彫刻等の作品も残っています。

 下絵は、三春城下の絵師中村寛亭だとも伝えられているこの仁王さまは、東大寺の仁王様に象徴されるような“筋肉隆々、胸を反らして威を張るような姿”ではなく、全体的にふくよかで、少し前かがみの姿勢は、どこか愛くるしいお姿をされていますが、参道を上がってきた参拝者に「悪いことはしてはいねがー!」と優しく諭しているようにも見えます。
 これは、本姓を安倍安東とする秋田氏の本拠地が青森五所川原や秋田の沿岸部となれば、「佞武多祭り」「ねぶた祭り」そして「なまはげ」を連想させるものであります。




 仁王二尊は、金剛力士とも云い、仏法の守護神とされています。

 左には金剛、右には那羅延金剛で、ともに裸体で腰に布をまとい勇猛な相をしており、左は口を開き、右は閉じていて、「阿(あ)」「吽(うん)」の対をなしています。





 この「阿」「吽」とは、仏教の輪廻的な意味では、人は生まれたときに“あ”と口を開いて生まれるといいます。
 また、亡くなるときには“うん”と満足して逝くといわれています。





 即ち、生きるということは全て修行であり、一生懸命生きなさいという“命の大切さ”を説いているとされています。

 先に記したように、この仁王さまが、時代の流れの中で明治21年から戦後までの間、およそ80年に亘って真照寺の軒下で風雨にさらされていました。
 かつては鮮やかであったであろう丹青の色も消え、半ば朽ちた巨体を再び本来おわすべき随身門(仁王門)に戻って鎮座されました。




 平成になって、城下馬場の影山組・やわらぎの湯社長の影山勝男様からの篤志寄進と三春町からの補助により、仁王像二尊の修復がなされ往年の姿に戻っています。

   さすけねぇぞい三春!  蒼龍謹白   拝


| ryuichi | 04:55 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
平成版三春城下怪奇伝説 「庚申坂悲話」



三春城下怪奇伝説

「庚申坂秘話」

“三春庚申坂七色狐、わしの二、三度騙された”
この三春甚句が、風のように日本全国の巷を吹きまくったことがあります。


旧藩時代より、三春城下新町末の庚申坂の色街は有名でした。
大正・昭和となり、場所が庚申坂から新地(弓町)に移転してから最盛期を迎え5件の妓楼に約30名を超える遊女が在籍し、昼夜もない繁盛ぶりだったと伝わっています。





そして、その華やかさの陰には、花街につきもの事柄がたくさんあったことでしょう。
悲恋の恋の花が咲き、心中あり、駆け落ちあり、円満身請けあり、倒産あり・・・数々の秘め事話がを残しています。






今は、妓楼も朽ち果て、その面影をしのぶだけです。

これは、大正の中ごろのお話で、やや生々しいしい昔話ですがある妓楼(店名は秘す)に、越後白根在の小作農家出身の“大和(やまと)”という源氏名の遊女がいました。






越後美人で気立ても優しく、廓でも一二位を争う人気となっていました。

この遊女に入れあげた客の中でも、芦沢村の柏原という百姓いました。

分別盛りの五十を超えた男でしたが、最も足繁く通いつめます。





そして、一年も経たぬ間に、田畑山林まで人手に渡る始末になり果てました。

遊女大和は、この男柏原の身を案じて廓通いを諫めますが、糠に釘打ちでした。

柏原は、いよいよ最後の手段として北海道への駆け落ちを迫りますが、大和に強く拒まれます。






そして秋の色ずく頃でした。
いつもの様に登楼してきた柏原に対し、酒席の中で大和は素っ気なさを装って柏原を帰そうとして座がシラケてしまいます。

その翌朝、まだ夜の明けきらない早朝四時半ごろ、“恋心余って憎さ百倍”・・・柏原はかねてより用意していた出刃包丁をふるって寝ている大和の鼻柱に斬りつけます。

“無理心中”とばかりに、悲鳴とともに起き上がった大和に向かい柏原は執拗に斬りつけ、耳下、後頭部、背部と滅多突きにしてしまいます。

医者よ!警察よ!と早朝の花廓は大騒ぎとなってしまいます。





そのどさくさの中で、柏原は凶器の出刃包丁で自分の喉を突き、返す歯で男子のシンボルを切断し、流血の末に苦しみながら死んでいきました。

大和は、案外、傷が軽く、一命をとりとめますが、女の命といわれる顔に深い傷が残ってしまい、再び客前には出ることは出来なくなりました。

この無理心中があってから、この妓楼には不幸が続きますが、この柏原の祟りではと巷では噂が流れていました。




大正十四年発効「三春名所案内」には、遊郭の広告が掲載されています。


古い広報三春内コラム参照

春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:41 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春怪奇伝説::三春城下夜話 |
新町買い物駐車場の消防屯所新築に伴う工事



当店のある新町の「お買い物駐車場」の旧三春家畜市場、通称”セリ場”に、消防団の屯所を作ることとなりました。

丁度三分の一くらいの面積になります。


その工事が始まりました。

お客様方には何かとご不便をおかけするかと存じますが、よろしくお願いいたします。






とうとう、江戸時代から続く、三春城下の三春産馬セリ市場、三春駒発祥の地の痕跡が過去のものとなりつつあります。




また、先の新町睦会による新町大宴会や、新町盆踊り等のイベントの会場、そして、町内にある広場というのは地域住民のコミニティー中心になるところですが・・・・

消防屯所と字事務所(集会所)の揃った防災の拠点になるんでしょう。





かつての提出したことのある提言書には1000t容量の地下式防火水利タンク(補給水機能付き)が併設で要望を出したはずですが・・・

| ryuichi | 15:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |