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平成版今昔物語  「斉藤舘址と白岩舘(舘山舘)址」 田村四十八舘



戦国時代田村四十八舘、斉藤舘址と白岩舘(舘山舘)址


斉藤舘址は、旧中妻支所跡の南方にそそり立つ城形をしている丘陵にありました。


旧記では三春札所(三春城下大町四つ角)から2里(約8キロ)となっています。


この舘は石高350石、戦国期の三春城主田村義顕が築いた領内防備の館、いわゆる田村四十八舘の一つで、重臣斉藤大膳が居城していました。

城郭は、根回り340間、高さ15間、本丸の南北39間、東西25間という記録が残っています。



この斉藤舘は、もう少し西(現郡山市白岩町)にある白岩舘(城主久賀肥前)とともに田村氏の戦国戦史の中でも異彩を放っています。


愛姫が伊達正宗の正室としてに嫁いだ翌年の天正八年八月、田村家三代清顕の弟孫八郎重顕が、岩瀬の塩田、洞樫に出陣しますが、須賀川城主二階堂の臣浜尾善九郎率いる岩瀬勢の激しい攻撃に会い討ち死にしてしまいます。

勝ちに乗じた岩瀬浜尾勢は田村に向かって進撃し、三春の南西部にある大平を落とし大善寺を陥れ、清顕の大叔父に当たる田村月斎頼顕(田村初代義顕の弟)の守る今泉城に迫ろうとしていました。

一方、須賀川二階堂勢は常陸佐竹氏を頼み御代田城に猛攻を加えます。

そこで、仙台伊達正宗の父輝宗が仲裁に入り、今泉城は二階堂に渡し、御代田は田村氏に返させたので小康保つことと相成りました。

しかし、勝ち誇る二階堂勢は、須矢部、伊藤、浜尾の各武将に命じて須賀川勢、岩瀬勢を率いて、翌三月、行合、大平の二方向から三春田村領へ再び侵攻してきました。

そして、その最前線になったのが、斉藤舘と白岩舘です。

須賀川、岩瀬勢は、このそれぞれの侵攻口から斉藤、白岩舘に猛攻を加えます。

田村氏としては伊達の援軍がまだ着陣する前の闘いで、実に危うい戦さとなってしまいます。

しかし、斉藤舘を護る総大将斉藤大膳と、白岩舘を護る総大将久我肥前は田村家中一二を争う戦巧者と言われ、ありとあらゆる戦術を使い必死の防衛戦を展開し、さらには勇猛果敢に打って出て、それぞれの総大将めがけて反撃を繰り返します。

これには、須賀川岩瀬の連合勢は、これに攻めあぐね、多数の戦死者を出すという痛手を被って敗退します。


この戦績は、四面楚歌だった三春田村氏の時代の中でも、存亡にかかわる未曽有の危うさから救った輝かしい武功だったと伝えられています。



昭和30年代の広報三春内コラム参照


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:15 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2016 『BUTCH!!』 in sendai



EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2016 『BUTCH!!』 in sendai

一昨夜、矢沢永吉さんのライブ2016年「EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2016 『BUTCH!!』」が仙台はグランディー21セキスイハイムスーパーアリーナで開催され、今年の締めくくりとして参戦してきました。

年末の永ちゃんのライブに来なけりゃ年が越せませんよ


永ちゃん! 永ちゃん!  永ちゃん! 永ちゃん! 永ちゃん!

 今年は、22年ぶりに、コンサート用の白いダブルのスーツを新調してみました。





永ちゃんのライブは、会場前から大盛り上がりで、郡山からの仲間に加え常連の方々の顔も見えます。
今日もよろしく!の挨拶が飛び交っています。


やはり、E・YAZAWAのライブです。

独特の緊迫した囲気に会場全体が包まれています。






 同世代である友人たちは、永ちゃんのつもりで粋がっていても、しっかりメタボです。(気持ちはあの日のままですが・・・何か?)

 ステージは、永ちゃんの「言葉」であり、「魂」であり、それが全部のドラマを語っている・・・永ちゃん流の言い方でいうと、その奥深さ…分かるかな?

「まだまだ矢沢は走り続けます!70になっても80になっても・・・」その言葉通り、永ちゃんは、あら‘70とは思えないパワフルなステージです。

 目の前に、67歳となる永ちゃんがいる。

シワは増えていても、「永ちゃん、かっこいいよな、もしかして今の方がかっこいいんじゃないか」と思えるくらいです。





「成りあがり」 大好きだね、この言葉。

素晴らしいじゃないか。

こんな、何もかもが確立されきったような世の中で、

成りあがりなんて・・・

せめて、やってみろって言いたいよ。

矢沢永吉 語録より 






ライブは新旧取り混ぜての曲の構成です。

“世は歌に連れ・・・”という言葉があったかともいますが、正に自分の歩んできた道全てのシーンに永ちゃんの歌やコンサートは欠かせないものです。

永ちゃんのMCにもありましたが、「人生は、いろいろあるよ!」です。

白いスーツに身を包ん粋な姐さんがニコニコしながら近寄ってきます。
なんと、ガキんちょだった35年前に一緒に永ちゃんのライブに行ったことがある古い友人でした。

また、雰囲気が怪しい(喧嘩していた)カップルがいて、タオルのない可愛い彼女に、お土産に買ったタオルを差し上げたら、なんと私の友人の娘だったり・・・・ここれは、矢沢ミラクルです。

そんなことがありながら、みんなで大合唱した古いラブソング「you」の時には、両眼から涙がこみあげてしまいました・・・




いやがるものを 押しつけるほど 若くはないけれど

本気さ Don't say noかけらでも

Oh my darling  

You 罪な人 You 愛となく

You 魂を You 惑わせて・・・




流行のスタイルが変わるロック・シーンで、あくまでも1つのスタイルにこだわり続けるのはそう簡単なことではありません。


そして、アンコール!

”止まらないHa-Ha”、”トラベリン・バス”の大合唱とビーチタオル投げ!

最高の夜でした。永ちゃん、ありがとう!

永ちゃんコールに付き合てくれたみんな、ありがとうね!

来年も、ヨロシク!






私も、御多分に漏れず13・4歳でキャロルのボーカルである矢沢永吉を知り、すっかり魅了されてしまいました。

中坊の時に、キャロルが解散!

その翌年に、郡山市民会館(現市民図書館駐車場)に、矢沢永吉さんがソロコンサートにきました。

この時には、スタッフ気取りでお客さんの案内掛をしました。

この時永ちゃんに「お疲れ様。ありがとね!」といって握手していただいたのは一生忘れられない思い出でとなっています。

永ちゃんのコンサート、生の永ちゃんはこの時が初めてでした。

以来、40年来の矢沢永吉ファンです。





「うぬぼれと言うといやらしく聞こえるけど、

考え方一つ変えていい取り方すれば

うぬぼれ屋ほど自分の主張を大切にしているんですよ。

前向きなうぬぼれならいくらうぬぼれてもかまわないんです。

それは言い換えれば自信だから。

自信ということは何かといえば責任なんですよ」
                              矢沢永吉






永ちゃん! 永ちゃん!

永ちゃん! 永ちゃん! 

「ん!白い寅ちゃん?」・・・・・ち、違いますよ!





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 05:30 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「前向きな自惚れ」永ちゃん、最高❣️ |
平成版今昔物語「旗本五千石秋田氏」



旗本五千石秋田氏

三春二代藩主秋田盛季の弟、季久に始まる旗本五千石秋田氏

江戸屋敷は、築地本願寺の西手にありました。


旗本秋田氏 五千石
 
  ・居屋敷 現中央区築地四丁目 電通本社周辺                                 
 
  ・拝領屋敷 現江東区平野一丁目老人福祉センター 

五千石秋田氏は、徳川家直臣の旗本籍ですので、江戸定府と定められていましたので、領主秋田氏が領地の赴くことはありません。
また、大名分地ですので、代官一人の他には、家臣の常駐もなりません。

その代官は淡州様代官(初代季久官職淡路守のちなんだ通称)と称され、屋敷はお不動山の麓にありました。




初代季久
幼名熊之丞。母は土浦城主松平伊豆守信吉の娘。
慶安二年六月十日分知の礼に登城し将軍家光に初見します。
それを機に右衛門季久と改めた。寄合組に編入される。
万治元年閏十二月、従五位下淡路守に任官、以来、度度公役(小普請役)を勤める。

万治二年八月、赤坂口警衛
寛文五年二月、中奥小姓として日光山法会に供奉、高家吉良義冬同行
天和三年八月、駿府城加番

貞享四年六月に,その年1月に始まった生類憐みの令に反して、家臣が吹矢で燕を射落とした事件に連座するところ、取り調べが行き届いていたとの理由で不問に付された。

元禄六年九月御小姓組番頭に昇進し,宝永元年八月辞職、寄合組に入り、同四年六月六十九歳にて死去した。





二代季晶
幼名を万太郎と称し、後に采女季豊
延宝三年十月十四歳にて将軍家綱に初見,宝永四年八月四十六歳にて家を継承。
正徳元年十二月五十歳にて死去。
岳父は、柳生宗冬の女婿朽木則綱(大番頭六千石)であった。

三代季成
季瑞、内膳、また、兵部と称します。
正徳元年、十二歳で家督継承し、同二年二月井伊又五郎直定らとともに将軍家宣に初見の礼を取り、寄合組に入った。
享保二十年五月、定火消役となり、同年十二月布衣着用を許されている。
元文四年に病のため寄合組に入り、寛保元年十二月に致仕し、寛延二年十月に五十歳にて死去した。
妻は三春三代藩主輝季の娘おトヨの方であった。




四代季通
幼名虎之丞、後に内膳とも称した。
元文元年三月、将軍吉宗に初見し、寄合組に入り、寛保元年十二月、父致仕の日に家を継承します。
寛延三年、定火消役となり、その年の暮れに布衣を許された。
宝暦三年九月小姓組番頭となり、その暮れ、大和守に昇任。
同九年十月西城書院番頭となった。
明和二年八月寄合組に戻り、翌年八月致仕し、養老料三百俵を賜わった。
安永九年六月六十一歳にて死去。

五代季高
幼名巳之助、後に兵部を称した。
宝暦十三年三月将軍家治に初見し、西城小姓となる。明和元年十二月内膳正に進み、翌年八月に家督を継承。
明和七年暮れ中奥小姓に転じ、安永九年二月寄合組に戻り、天明元年八月致仕して、康瀛(こうえい)と号し、同七年三月死去。三十九歳であった。
妻は土屋篤直の養女、後妻は三春七代藩主秋田定季の娘お富の方であった。

六代季済(すえまさ)
中務、内膳、季礼とも称した。
毛利高丘の四男である。
天明元年八月家を継ぎ、その年の暮れ将軍家治に初見。
文化元年三月致仕し、文化八年に死去している。




七代季穀(すえつぐ)
左近、中務と称した。
文化元年三月、季済の養子となった。
文化四年、駿府城加番、
文政元年、深珠院殿葬送警衛
文政四年十月、定火消役
同十二年十二月小普讀組支配に転じ、
天保二月九月、浦賀奉行となり,同八年十月小姓組番頭となった。
その暮れに淡路守に任じられる。
翌天保九年、西城書院番頭となり、西城造営に際し百五十両を献じ、時服を賜わっている。嘉永六年没した。

八代季幸(月編に幸)
帯刀、中務を称し筑後守に任じた。
天保二年十二月、家斉に初見し、弘化111年十一月召し出され、嘉永六年家を継承し、中奥小姓となった。
元治元年五月寄合組に戻り、慶応元年に没した。

九代中務 名乗り不詳。
尚、慶応二年八月、寄合銃隊頭に秋田玄次郎の名を「統徳川実紀」に見いだせるが、委細不詳。
慶応二年十二月布衣を許され、同四年勤仕並寄合より寄合肝煎となった。

領地として、旧三春領仁伊田村、富沢村、荒和田村、大倉村、新館村、石森村(分村)、粠田村で五千石とされています。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 04:55 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
三春中学校1学年“総合的な学習の時間”「郷土三春」28



三春中学校1学年“総合的な学習の時間”「郷土三春」

先に開かれた、三春中学校1学年“総合的な学習の時間”「三春シンポジウム」の関連授業で多数の生徒さんにご来店いただきました。

初雪の舞うあいにくの空模様でしたが、生徒たちは元気に足を運んでくれました。

昨年に続き2回目となります。





それぞれの7グループに分かれて郷土三春の特質を【自然】【歴史】【産業】【環境】など、様々な視点からとらえて自分自身との関わりを見つけ、自らの生き方を考えていく郷土「三春」について考えていくといった授業となっているようです。

当店には、おたりまんじじゅうの事や三春の歴史、そして伝説、三春城下の街並みといった質問内容でした。

午後からと指定していましたので、午後1時前から午後4時過ぎまで、代わる代わる3~4名の小グループに分かれた生徒さんが列をなして訪れていただきました。

約3時間強しゃべりっぱなしです・・・・




これからん三春を支えてもらう可愛い後輩の為です。
様々な話をさせていただきました。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 05:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 学校支援 |
「小川ロン20th 冬枯れコンサート」 真照寺阿吽講


三春城下初冬の風物詩

今年で20回目を迎える、真照寺阿吽講主催の小川ロンさん冬枯れコンサートが開催されました。

告知ポスターにフャイナルの文字が気になりましたが、20回がとりあえず節目ということで来年も元気な姿を見せてくれることでしょう。




いつもロンさんには、間のMCで、三春昭進堂を宣伝いただきましてありがとうございます。

本HPの案内でも紹介させていただいた「小さな家」も演奏していただきまして、本当にありがとうございました。

幼いころお母さんをなくしたというロンさん。
一枚だけあるというお母さんの写真・・・・小さな家がいいが余計に心に響いてきます。

私も母を亡くして30年になりますが、いくつになっても母の面影を探しているのかもしれません。
いつまでも男はマザコンなんでしょうね?




ファンである小学校五年生が夏休みの自由研究に”ミュージシャン小川ロン”を題材にしたようでその発表題材が会場に飾ってありました。


「今回のコンサートでは自分の臓物をすべてさらけ出してしまいました」と自分の生い立ちや、歌手デビューから現在までの活動等々軽快なトークに乗せて、笑いを混ぜながらにお話しくださいました

歌を歌うときには“あなたのために歌っている”と会場に来ているみんなの為ではなく、一人一人のために心を込めて歌っているという小川ロンさん。

今回も、臨場されたお客様一人一人の顔を見ながら心をギターの調べに乗せて歌っていただきました。




打ち上げでは、三春城下中町にある酒処「麒麟」にお邪魔しました。

第一回目からお世話になっていた“五万石の洋ちゃん”が営む和風居酒屋です。

三春の大先輩である五万石の洋ちゃんは、45年前の三春観光キャンペーン第一期の主要メンバーの一人で、今に続く民主体の三春観光を基礎を築いてくれました。

ロンさんとは旧知の中で、以前患った大病の影響で少しお体が不自由な洋ちゃんの為に急遽ギターを取り出して歌を歌ってくれました。

洋ちゃんはもとより、店内のお客様一人ひとりに、語り掛けるようにギターを鳴らし、詩を語る姿には感動です。

酔っぱらいのお客さんもいい気分でお帰りです・

目頭が熱くなりました。



今回は、フォーク大好きの船引江戸光の大将も駆けつけていただき、本物のフォークソングを堪能していった様子です。




先の真照寺成田山講中でご一緒させていただいた、同じ真言宗智山派の須賀川岩瀬にある白山寺住職夫妻とそのお友達も来場されていました。

尚、真言宗智山派第2、第3教区の御坊様方には詠歌オペラ「お大師様のご生涯」を開催され、真照寺ご住職様の御誘いで当店女将も拝見させていただきました。

当店も協賛させていただきました。




Had you come some other day
Then it might not have been like this
But you see now I'm too much in love

TheBEATLES "If I Needed Someone"より 




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 07:09 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主秋田家祈願所 真照寺::阿吽講「小川ロン独演会」 |
乳頭温泉「鶴の湯」28 日本の秘湯を守る会


所用があり、秋田へ出張となりました。

秋田は一泊圏内です。

周りには秘湯がたくさんあります。

市内のビジネスホテルではもったいない!

ということで秋田は田沢湖の奥にある、乳頭温泉最古の湯宿「鶴の湯」に宿をとっていただきました。




如何ですか?この鄙びた感じ・・・

正に、日本の秘湯ですよね!





時期的にもオフシーズンになるんでしょうね?

先週初雪が降ったみたいでして、通年営業の宿ですが自分で運転するとはちょっとっていう感じです。





お陰で、3時前には到着し、早速混浴の露天風呂へ。

先客が一人という、貸し切り状態でゃありませんか・・・





日帰りのお客様方が帰って、宿泊のお客様の到着もちらほらといった偶然訪れた幸せの時間です。




近もこの時期にしては珍しく、暖かく自然のテラスで一献!

のんびりと湯浴みをして、お客様方とほっこりおしゃべり・・・・

携帯電話も圏外、テレビもありません。

時間も気にせず、静かな時間が流れています。

至福のひと時です。

え、Wi-Fiは使える・・・・これはこれで助かります。




夕闇が迫り、夕食です。

宴会ではなく、夕食です!

カラオケも綺麗ところも一切なし・・・・





食べ始めてずい分経って写真に気づきました・・・


同席させていただいた、アメリカ出張中の貴重な休暇を割いて二泊していた杉山様。

そして、日本を代表するフォトグラファー興村憲彦様


楽しい時間をありがとうございました。






興村様には、フォトグラファーになった経緯、そしてBMW2002や縦目ベンツのクーペなど車スキの私もついついおしゃべりに夢中になってしまいました。

楽しかったです。

三春をぜひ売り込んでください!




茅葺屋根の雪対策中です。

屋根にビニールをかけています。


翌日は、一の関での要件を済ませて平泉中尊寺へ・・・・




地震も気がかりでしたが、三春は震度3程度みたいで、被害は長男のフィギアが倒れた位でしたので、昼食を兼ねて金色堂参詣してきました。




紅葉がきれいでした。




わんこそばです!



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 05:08 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録::男の隠れ家 |
「第1回三春美術展」 三春城下戦後の文化活動


三春城下、戦後の文化活動

今年も、三春町文化祭が開催され、町民を楽しませています。

三春城下は、古より文化や教育、そして生活水準などを総称する「民度」が高く、心身ともに豊かな暮らしをしてきました。

太平洋戦争から復興するにあたっても、終戦の翌年には民間の力で文化祭を開催しています。

下記は、三春町史を参照して、その下りを記してみました。

戦時中、三春賛文化協会と称し、戦意高揚迄もになってしまった三春文化協会は、太平洋戦争の終結と戦後の混乱のなかで、文化活動は休止状態に、そして、その存在の意義を失ってしまいます。

しかし、軍国主義的な通告がなくなり、本来の文化活動に復帰すべく、かつての会員の有志が集まり、衣食に追われてながらも、敗戦の翌年、山三渡辺商店の二階で「三春の古画展」-開きます。

町内の寺院や旧家所蔵の絵画が出品されて、敗戦の傷がまだ色濃く残る三春城下の町民たちの眼を楽しませました。


三春町に疎開していた独立美協の西田藤次郎が、戦後初めて個展を開き、続いて春山新三が従軍のスケッチ展を開きます。

これらの個展開催の経緯のなかで、西田氏、春山氏、そして川又氏らが中心となり、当時三春に赴任していた県美術界の中心飛田昭喬の指導を受けて、昭和二十一年十一月十五日より三日間、三春小学校講堂を会場として第1回三春美術展を開催することとなります。

もちろん、戦後間もなくのことで、展覧会の設備などはなく、戦時中の旗台の枠数個と同人の建築業者からバタ板を借用し、古釘を集めて四つの枠を作り、安達中学校より幕を借用してなんとか会場設営が整いました。

出品作は、日本画二七、洋画六五、洋画の内訳は水彩画三-図案四、油絵四四、ペステル画一 、鉛筆画一 、クレオン二、写真一九合わせて、百十一点にのぼり、敗戦後の索漠としたなかに文化の灯をともしたものでした。


尚、前記の三春文化協会は復活することはなく消滅してしまい、三春町文化団体連絡協議会が発足するのは昭和四十二年のことでした。


昭和二十二年、三春小学校第一校舎が全焼し、再建後、十八年から跡絶えていた三春町文化祭が復活します。

美術展も会場を小学校に移し、各教室に小·中学生の作品展や書、華道展、農産物展、切手展などを催し、食堂も開設されて町内外の見学者でにぎわうようになったと三春町史には記されています。

三春美術展は以後第三十三回まで続き、あとを三春美術協会に引き継ぐのである。

華道は小原流の吉田清雪が指導を続け、敗戦の翌年ころから三春小学校を会場に華道
の展示会が開かれていました。

以来、文化祭に欠かせない展示会となり、やがて、三春華道連合へと発展して行きます。

書道は、渡辺俊太郎先生を中心とする絃川会が作品活動を続けていました。

また、前川栄先生がが小·中学生の指導にあたっていましたがが、この当時老齢のためやめたあと、父兄の書道会復活要望により、渡辺需先生が三十年に日本美術書道会三春支部をつくった。

また、昭和二十三年からラジオの放送文芸が始められ、天野多津雄らが選者をつとめます。こののち歌人たちの作歌活動が活発となりますが、三春の梢短歌会が復活し、歌誌『梢』が復刊されたのは昭和三十年のことである。




三春町史参照(画像も三春町史より)


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 05:28 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下大町 |