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塵壺306号(平成29年1月)EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2016  


塵壺306号(平成29年1月)EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2016  

EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2016  

“ルイジアナ!・・・・♪” 矢沢永吉コンサートに参戦してきました。
事情があり数年ぶりに、正装である白いスーツを新調し、気分はロックン・ロール♪

やっぱり、年末のE・YAZAWAのライブに行かなきゃ年を越せないって感じです。
 永ちゃんのライブは開場前から大盛り上がりで、郡山からの仲間に加え、全国からの常連の方々の顔を揃え“今日もヨロシク!”の挨拶が飛び交っています。

やはり、E・YAZAWAのライブです。独特の雰囲気に会場全体が包まれています。 
永ちゃんのつもりで粋がっていても、しっかりメタボです。(気持ちはあの日のままですが・・・何か?)ヨロシク!





私も御多分に漏れず、中学の頃に矢沢永吉を知り、高校2年の時に、「時間よ止まれ」を引っ提げての郡山市民会館(現市民図書館駐車場)でソロコンサートがあり、仲間を誘ってスタッフ気取りで手伝いに行ったのが初YAZAWAでした。

この時「何か外的要因の圧力によって己の信念が曲げられそうなときに、何くそって!跳ね返す力を“ツッパリ”というだ!」と教えられました。

当日、来場したお客さんの案内掛をしましたが終了後、永ちゃんから「お疲れ様~ありがとね!」といって握手していただいたのは一生忘れられない思い出でとなっています。以来、矢沢永吉大ファンです。

今回のライブ中MCで「まだまだ矢沢は走り続けます!70になっても80になっても・・・」その言葉通り、永ちゃんは、アラ‘70とは思えないパワフルなステージです。
永ちゃんの歌や言葉、そして生き方を見ていると、真剣にそしてシンプルに生きるということに向かいあってきた一人の男の真の生きざまとして胸に響いてきます。

ライブは、新旧取り混ぜての曲の構成で“世は歌に連れ・・・”という言葉ではありませんが、正に自分の歩んできた道、全てのシーンに永ちゃんの歌やコンサートは欠かせないものだと思います。




人生、立ち止まることも、涙することも、つまずいて、落ち込んで、自分自身がいやになってしまうこともあります。
しかし、みっともなくても、這いずり回ってでも“前を向いて生きていく“というそれ自体に意味があるんだと・・・
すべて認めてくれたうえで、それも“かっこいい!”と思わせてくれる永ちゃん。

コンサートでのMCにもありましたが、「人生は、いろいろあるよ!」でよね?
そんなことがありながら、みんなで大合唱した古いラブソングの時には、両眼から涙がこみあげてしまいました・・・

流行のスタイルが変わるロック・シーンで、あくまでも1つのスタイルにこだわり続けるのはそう簡単なことではありません。
そして、アンコール!”止まらないha-ha”、”トラベリン・バス”の大合唱とビーチタオル投げ!最高の夜でした。永ちゃん、ありがとう!

「人間っていうのは、必ずドアを叩かなきゃいけない時がくるのよ。
その時、叩くって勇気いるよね、怖いしさ。
どうなるのかなんて思うけど、そこで分かれるよね。
叩く人間とそうでない人間に…」 

矢沢永吉語録より



永ちゃん! 永ちゃん! 永ちゃん! 永ちゃん! 永ちゃん!
永ちゃんコールに付き合てくれたみんな、ありがとうね!






来年も、ヨロシク!

「ん!白い寅ちゃん?」・・・・・ち、違いますよ!

蒼龍謹白 さすけねえぞい三春!  拝


| ryuichi | 05:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
「節納豆」 ~ 納豆ねかせ~


正月を迎える準備は、いろいろありますが、三春在方にある珍しい行事を三春町史から拾ってみました。

「節納豆」 ~ 納豆ねかせ~
在方では、正月準備は、まず節納豆ねせから始めると記されています。

三春各地では十二月二十六日にねせるところが多い。
蛇石 西方のようにその前日ねせるところもある。

この納豆を「節納豆」といって、この豆は食べるものでないという禁忌がある。
これを冒すと腹が痛くなるとか、富沢あたりでは“シト虫”に刺されるなどという。

日常食す納豆と違い、この日の納豆は神に供え、あるいは嫁の礼日に里に進物とするところが多い。

また、納豆の糸の出具合はマユの糸の出来をト(ボク)するというので、養蚕農家の多い三春各地では特に慎重にねせる。

概して納豆,味噌,酒,梅漬などはその出来如何がその家の吉凶を予兆するというから、すべて自家製であった昔は、責任者である家刀自は特に潔斎してこの作業を入念に行なったものである。

伝説として下記の話が伝わっています。
「腕に自信のある、ある村の主婦が、どうしたものか節納豆に全く糸ができない。急いでねせ直したがまたもや失敗した。さては何か家に凶兆では、と一家思案にくれた。はたしてその年災害に遭ったという。」

各村の家々では、それだけに美事な銀の糸をひく節納豆の出来ばえのときは、思わず小おどりして、早速そのひと苞を神棚に供えたと伝わっています。



三春町史参照



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 04:51 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記 |
田村警察署署長感謝状贈呈式 28


昨日、先の三春地区交通安全ポスターコンクールに協力したということで、田村警察署の署長感謝状の贈呈式に案内を受けて出席してきました。

以前、三春防犯協会でお世話になった小椋副署長の進行の元、佐藤田村警察署長からの感謝状贈呈と御礼の言葉をいただきました。





平成28年に、田村警察署の業務全般に関する協力など功労のあった方々に対する署長感謝状贈呈式ということで沢山の対象者、出席者がありました。

また、当日は同署員の皆様も多数臨席され、有意義な感謝状贈呈式となりました。






案内ありがとうございます。


当三春昭進堂は、先のコンクール表彰式に副賞のお菓子を提供させていただきました。

このポスターコンク-ルは、同田村警察署の若きエース中郷駐在警察官の佐々木さんの発案によるものと聞いています。

これからも、田村の安心安全のためよろしくお願い申し上げます。




免許関連や道路使用許可等1階の窓口には時折お邪魔していますが、3階会議室や道場は以前三春防犯協会の役員をしていた時以来の入室で、懐かしくもありましたが、地域貢献という事柄の重要性を改めて感じました。


福島民報県南版より


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 05:08 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
年末年始の休業のお知らせ 29


 年末年始の休業のお知らせ

年内は、12月31日(木)まで営業いたします。

新春   

1月元旦 (日)   元旦正月休み
      
1月 2日 (月)    新春初売り 午前八時から午後五時まで 
      
1月 3日 (火)    新春初売り 午前八時から午後五時まで 
      
1月 4日 (水)    正月休み
      
1月 5日 (木)    正月休み
      
1月 6日 (金)    通常営業
      
1月 7日 (土)    通常営業

よろしくお願いいたします。




三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:49 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
ものまねタレント「ノブ&フッキー」Xmasディナーショー! inベルヴィ郡山館



ものまねタレント「ノブ&フッキー」Xmasディナーショー!
inベルヴィ郡山館

じゃーん!図景にあるベルヴィ郡山館「ノブ&フッキー」のものまねXmasディナーショーにいってきました。

当店の女将が、ものまねが大好きなもので、夫婦で観てきました。




何せ、新婚旅行でハワイに行った時も“モノマネパブ”に行ってプレスリーやマリリンモンロー、そしてマドンナのモノマネを最前列で観た位ですので・・・・

おまけに、プレスリーのそっくりさんからロングスカーフを貰ったのが一番の思い出になったくらいですから。


ディナーショーなので、スパークリング・ワインを頂きながら、ベルヴィ郡山自慢のシェフが作るスペシャルディナー料理に舌鼓!
満たされた時間です。


偶然にも同席頂いた、二本松の三浦手延べうどん店様、そして会津藩別格家老の海老名氏の子孫である奥様、貴重なお話ありがとうございました。

お陰様で、このディナーが2倍3倍にも楽しく有意義な時間となりました。

本当に、楽しい時間をありがとうございました。





尚、会津藩家老海老名家を最近調べていたもので、あまりの御縁に驚きました。


白河城下の龍興寺山内には、戦死塚と刻まれた同盟軍を埋葬した墓と、会津藩軍事奉行であった「海老名衛門季久慰霊碑」があります。
海老名衛門は、敗戦の責任をとりこの地で自刃したと伝えられている会津藩軍事奉行です。

嘉永4年、房総半島の警備を命じられた会津藩の軍事奉行として出動。
その後品川砲台(金杉陣屋)、蝦夷地警備でも軍事奉行として活躍します。

海老名衛門は、会津藩では公事美行・郡奉行・軍事奉行・大目付などを歴任して家督を息子である季昌に譲り隠居していましたが、慶応四年の戊辰戦争に際して軍事奉行に復帰し、白河に赴きます。

最も激戦だった慶応四年五月朔日の戊辰戦争白河口の戦いにおいて、稲荷山周辺に布陣していた奥羽越列藩同盟軍が、新政府軍の攻撃に圧倒されて敗走、この責を負い切腹します。
享年五十二歳
 
この「海老名衛門君碑銘」は明治十七年に長男季昌が建て、文章は会津藩士で当時東京大学教授を務めていた南摩綱紀が作ったものである
現地案内板参照


長男季昌は、「禁門ノ変」においては、藩主松平容保の京都守護職就任に伴い、は幕末の京へ赴きます。

後に、パリ万国博覧会に使節団として派遣される徳川昭武の随員として抜擢され、横山常守と行を共にします。
しかし大政奉還が行われるなど会津藩に危機が迫り、11月28日(11月3日)に帰国。

戊辰戦争と会津戦争では、鳥羽・伏見の戦いに参戦し負傷。
会津に帰還後各地を転戦しますが、会津若松城籠城戦では、北出丸の責任者となり、この間家老へ就任している。
海老名は藩主父子の助命嘆願書に他の家老、若年寄とともに連署しています。


会津藩降服後は、一時東京で幽閉され、赦免されたのは1872年(明治5年)のこと。
斗南へ赴いたが短期間で会津へ戻ります。
1875年(明治8年)警視庁警部補となり、1878年(明治11年)山形県西村山郡郡長、そして、自由民権運動福島事件では、民権運動の取締りを行っています。

後に、信夫郡、北会津郡、石川郡、東白川郡の各郡長を務め、警察官としては警部、警視属し、後に初代若松町長となり、市制移行に尽力。






季昌の妻は、会津藩士日向新介の娘海老名リンです。
リンは会津地方の女子教育及び幼児教育の功労者で、会津女学校、若松幼稚園を設立します。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 05:49 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録::エンターテイメント |
「ふくしま ほんものの旅 2016冬号 JR版」に、「三春昭進堂のおたりまんじゅう」が掲載されました。


「ふくしま ほんものの旅 2016冬号 JR版」に、「三春昭進堂のおたりまんじゅう」が掲載されました。


駅からはじまる至福「福の旅」中通り」のコーナーです。

発行元: (公財)福島県観光物産交流協会

制作、印刷は、「モンモ」でおなじみの(株)日進堂印刷所、(株)進和クリエイティブセンター様です。
当店は、福島手帳や「モンモ」などでいつもお世話になっています。

[JR版】

発行時期:平成28年12月下旬予定

発行部数:約50,000部

設置場所:首都圏を中心としたJRの駅などで無料配布です。

インターネットでも県のhttp://www.tif.ne.jp/jp/tif/download.phpからダウンロードできます。





主な内容

県内の風景写真 ·温泉 ·グルメ ·福島県MAP ·交通情報

·冬の旅の紹介(JR沿線の旅女子旅ふくしま/駅前グルメ/インバウンド向け体験観光Cool!ふくしま

など)





尚、同じページには、岳温泉の「花かんざし」も美人女将ともに取り上げられています。


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 12:31 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::メディアで紹介されました |
平成三春古蹟漫歩「三春の切支丹」



三春の切支丹

今でこそ宗教の自由が憲法によって認められていますが、旧藩時代には、神仏以外の信仰は許されていませんでした。
特に、徳川家光以来禁制となったキリスト教は、厳しい弾圧が加えられていました。

しかし、根強い宗教の芽は、その弾圧をくぐり抜け、命詠を保ち続けます。

三春藩にも、その芽はあり、その遺跡が見られます。

城下荒町の龍穏院、本堂に向かって左手、平地の墓処に、梶塚家の墓があります。
いわゆる切支丹の墓です。
25基の碑が並んでいますが、最も古いのは、延宝九年戌午五月二十四日、離相独遠禅定門と刻まれているのか確認できます。
秋田輝季が藩主の時代で、今から300年余のものです。

また、他の墓碑も十字を刻んであり、巻外道○眞士というように、特殊な戒名が見られます。

文献によると、天明八年八月に記された公儀代官による「三春藩巡視録」に、“切支丹有無につき3名在藩離脱す“とあり、再詮議が厳しかったので、藩士中の墓石で十字をつけていた梶塚二郎兵衛のものを地中に埋め、申し開きの一礼を入れて事なきを得たと記されています。

梶塚家は200石で、屋敷は北町亀井水の近くでした。
祖先は、豊後守隆重(ぶんごのかみたかしげ)と名乗り、生国は上野国。
伊織という人の代になって秋田家に仕えています。
寛文の頃には、二本松藩の某家よりヤソという人が嫁入りしています。
多分、ヤソというのは耶蘇の意でありましょう。




二本松藩の藩主丹羽家は、織田信長に仕えた旧家だから、藩士の中には切支丹信者もあり、前城主松下家以来、三春との往来も続いていただろうから、その感化も考えられます。

武家は勿論、百姓町人の縁組にも、「嫁入持参申し渡一礼」にみられるように、切支丹疎遠が一筆記された一礼を持参させるなど厳重な禁制下に、国禁である切支丹信仰を保持することは、困難なことだったと想像されます。

三春地方のキリスト教の歴史は、恐らく戦国末期の慶長時代会津蒲生領の頃からと推定されますが、文献、遺構に乏しいのが現状です。

だた、旧中妻村斉藤新田に教堂がったと伝えられています。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 04:59 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春ノ信仰1 |