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三春真照寺成田山講中 29



旧三春藩主祈願所である城下新町の真照寺さんの年一回の旅行「三春真照寺成田山講中」に参加させていただきました。

今年も、伊藤檀家総代はじめ檀信徒35名での成田山講中です。






当三春昭進堂髙橋も、真照寺門前の商いをさせていただいているということもあり、御縁があり祖父の代から参加させていただいている成田山講中です。




節分会や各種法要の折にお世話になっている須賀川にある同じ真言宗智山派白山寺松木運仁様も御同行していただきました。

また、真照寺庭園改修作庭でお世話になっている、猪苗代磐梯造園の社員一同様も参加いただき楽しい成田山となりました。

さすが、成田山講中です。

普通の観光旅行につきものの、朝一の乾杯がありません!

「成田山新勝寺にお参りする前に酔っぱらうわけにはいなけぇばい!」と言っていた常連の方々の思いがわかりました。

梅雨入っているという関東地方ですが、快晴の中参拝です。

他の大勢の檀信徒の皆様と一緒に午前11時の護摩焚法要に参列させていただきました。






ほの暗い堂内、大勢の檀信徒が着座する中、成田山新勝寺のお不動さまに家内安全・商売繁昌・交通安全などすべてのお願いを、御護摩祈祷により祈願していただきます。

新勝寺は、平安期、天皇より命じられ、御護摩祈祷によって、将門の乱を収束させたという開山縁起があり、開山以来、一日も欠かさず御護摩祈祷を続け、毎日多くのご参詣の皆さまの願いごとの成就を祈願されています。

静寂に包まれた本堂の厳かな雰囲気の中、10名ほどの僧侶の方が護摩を焚きながら、読経です。






護摩焚き御祈祷の時に、参詣の方々がバックや財布を手にいそいそと羽織袴の寺職員のもとに向かいます。

ん?これは何?そうなんです。

皆さんお不動さんの護摩焚きの火焔にバックや財布をかざして厄を払ってもらっていることでした。


これは、お不動さまの御霊徳をいただく「御火加持(おひかじ)というものだそうです。

参列者の大切なもの(鞄や財布など)を御護摩の火にあてることでお不動さまの御利益をいただくことが出来るというものです。

護摩炊きとお坊様のお話が終わると、お不動様の手からつながった七色の組紐が巻きつかれた手すりに触れることができる時間があり、一列に並んで、手すりを触らせていただけます。




山内での骨董市


昨年秋、別件で成田山にお邪魔した折にお世話になった山内にあるお食事処に手土産をもってご挨拶させていただきました。

ここは祖父や父もお世話になっていた処らしく、父は、昨年女将さんからお土産にいただいた長寿箸を毎日使っています。





参詣の跡は門前にある「米屋」さんで昼食をいただき一路宿泊策の老神温泉を目指します。

ここで、ここでカンパ~!




宿泊は老神温泉紫翠亭さんです。




老神温泉名物「朝市」




大勢の宿泊客でにぎわっていました。




利害の発生しない、会社でも、地区でもない、徳を積むために老若男女のお寺の檀信徒が一堂に集う講中旅行です。




ライオンハ~ト♪


楽しい宴会でした。
翌日は、新潟経由で帰還となります。




朝一で近くにある国の名勝「吹割の滝」、そして三国街道塩沢宿を経由して越後日光といわれる「赤城山西福寺」にある幕末の天才彫刻師石川雲蝶の傑作が残る「開山堂」見学。






帰りの山岸住職の挨拶にありましたが、牛久の大仏さん、新勝寺不動明王、西福寺彫刻、会津観音、そしてなんといっても真照寺ご本尊不動明王さまに見守られながらの三春真照寺成田山講中です。
何事もなく無事講中旅行が出来ました。




山岸住職、奥様、松木様、はじめ講中の皆様には大変お世話になりました。

お陰様で、さざまな経験とともに新しい出会いなどがあり、「ご縁」そして楽しく有意義な時間を過ごすことが出来来たことに感謝もうしあげます。

ありがとうございます。






改めて三春城下真照寺のご本尊「不動明王」様に感謝を申しあげたいと思います。


合掌 拝


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 05:30 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主秋田家祈願所 真照寺::成田山講中 |
「常葉吉田家の話」 「近世墓の写真集」



八王子で法律事務所を経営されている吉田幸弘様より「常葉吉田家の話」と 「近世墓の写真集」と題された小冊子が届けられました。


吉田さまは、父方の祖先が常葉吉田氏、そして三春城下大町の影山氏ということで三春に題材を求めた小説「影山一族」とその派生小説を出品してこられました。

今回は、法律事務所・行政書士という仕事内容にもある先祖探しということで自分のご先祖様を探求ということ田村市常葉の墓所へたびたび出かけられ資料集めに奔走してまとめられた同小冊子「常葉吉田家の話」をまとめられました。




吉田様からは以前より天正年間戦国期の常葉城主には三春城主平姓田村氏の親族である播磨赤松円心の孫·赤松越前守顕則から後に常盤氏に改名した5代常盤甲斐守貞久まで居城して常葉地方を治めていたことは伺っていました。





「甲斐守公御家中」の中に常葉城主配下に知行170石を有した知行百七十石吉田隼人御用人の名前があり、この吉田氏が先祖ということになるそうです。

尚、この吉田隼人は、71歳の年(1622年) )に「元和老人物語」(常葉町史(27ページ)」)にて、蒲生氏松平下野守忠郷の命により、天正時代の戦争状況を述べている人物でもある。



吉田様より
吉田家の先祖探し報告書をお送りしました。
一点、「代々伝わる日本刀を祖父がどっかへ持って行った」
ということを書き損ねましたが、このような報告書が出来るという
見本だと思ってご覧いただければ、と思います。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 05:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸小説「影山一族」~滝桜 |
「脳を知って脳を活かす」東京大学薬学部教授 池谷裕二先生基調講演 郡山法人会第5回通常総会



郡山法人会第5回通常総会に出席してまいりました。

総会に先立って郡山法人会基調講演があり、午後1時30分から三春支部の役員の方々と出席です。





基調講演は心の盲点 の著者で、東京大学薬学部教授 池谷裕二
『海馬』や『進化しすぎた脳』など、本やエッセイ も書いています。

今回は「脳を知って脳を活かす」と題されて貴重なお話を頂きました。

日本が世界に誇る脳研究者の一人。
1970年生まれ。1998年に東京大学にて薬学博士号を取得。2002~2005年にコロンビア大学(米ニューヨーク)に留学をはさみ、2014年より現職(東京大学薬学部教授)。専門分野は大脳生理学。とくに海馬の研究を通じて、脳の健康について探究している 。文部科学大臣表彰 若手科学者賞(2008年)、日本学術振興会賞(2013年)、日本学士院学術奨励賞(2013年)などを受賞。著書に『海馬』『記憶力を強くする』『進化しすぎた脳』などがある。『記憶力を強くする』は、2002年科学出版賞にノミネート。また、『進化しすぎた脳』は、2005年科学出版賞にノミネート、amazon、bk1で総合ランキング1位を獲得。脳の最先端の知見を老若男女、世界に向けて分かりやすく伝えている。
HPプロフィールより




高級車ほどマナーが良い 年収や高学歴≒民度が高い

自分の常識や慣れ親しんでいることが基準となってしまう➡常識に囚われない
自分が感じたことが全てではないが、それがすべてだと信じ込んでいる⇒無意識的に

現代の医学寿命 2007年以降に生まれた子に50パーセントは100歳まで生きる

AIがもたらす未来 ~人工知能の現在とこれからの社会~
シェークスピア 人工知能による作詞 
作風を真似ることが出来る。
ロボットアートは人の創造性に疑問を投じる

人という生物の輪郭は人工知能によって明確になる
脳は興味がないことを消してしまう ≒マンネリ化





効率よく努力しよう~遺伝子は知っている~
人は99.9%同じ遺伝子を持っていますが、ただ1個だけ違う遺伝子を持っている。
スニップ SNP
染色体の数列の中で一文字だけ違うことを云う

遺伝子を調べれば病気が分かる⇒病気を治療から予防へ 生涯元気
遺伝子調査 安心材料が多い
500年前の先祖の住んでいた場所が分かる

性格や才能、そしてハゲ、さらには 浮気性も遺伝子の成せる業
IQの一致 30パーセント

遺伝子にあった努力をする 諸才能≒効果的な教育
現在は出来ないは本人の努力不足とされるが、発達障害の可能性がある

遺伝子から見ると「人は生まれながらにして不平等である」
努力は報われない!

ダニングクルーガー効果
出来ない人ほどできるとカン違いしている⇒低脳さが理解出来ない
能は、冷静に他人の実力を評価することが出来ない
未熟な人ほど自信満々になる。
そして、脳には自分に偏見はないと思い込んでいる。

目からウロコの講演でした。

早速、本を注文です。





| ryuichi | 05:29 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
”高田エージ 新作CD発売記念ツアーいいことあるかもしれないよ”ライブin三春町若松屋旅館 2017。



”高田エージ 新作CD発売記念ツアーいいことあるかもしれないよ”
ライブin三春町若松屋旅館 2017





「ロックの日」の前夜祭として、晴天率100%のお祭り男「高田エージ」のライブを見にいてきました。

三春城下、梅雨直前の恒例「高田エージ~ひとり旅ひとまわり2017in若松屋」が、城下馬場の湯温泉「若松屋旅館」で昨夜おこなわれ楽しんでまいりました。


勝手知ったる~のライブです。

一曲目からマックスハイテンション!

思い思いに楽しんでいました。


元来ノリがいい三春っ子です~♬



今回のユニっとは・・・・

Vo/Gt 高田エージ

ジャンベ/ながはら元、

Gt/真鍋しんちゃんの素晴らしい演奏に盛り上がりまくりライブでした。


永原元;徒然草Ⅱ~森羅万象 ながはら元さんのホームページ







昨夜の高田エージ・ユニットは、独特の風貌のアフリカの打楽器”ジャンベ”の世界的奏者永原元さんや、ブルースギターの神業プレイを見せてくれる会津の手焼きせんべい屋の主人しんちゃんと3名での演奏となりました。






内容は、ご覧の写真のように毎回の大変な盛り上がりです!





さすがアメリカ帰りの三春城下のイベント・エージェント&プロモーター”MAKUTA”です。


三春のミュージックシーンを引っ張って行ってくれてます!


春陽郷三春 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 05:13 | comments (x) | trackback (x) | 🌸若松屋コンサート! |
平成版三春奇談 “お美代淵の由来”


塵壺平成29年6月号 №311

平成版三春奇談 “お美代淵の由来”

三春城下に初夏を告げる藤の花。
今年も、あちらこちらの山々に薄紫色の花弁を自然の風景と絶妙に溶け込ませながら目を楽しませてくれました。
また、藤花は振り袖姿の女性に例えている俳句があるなど、その姿や色合いから上品な印象を与える花ですね・・・

そんな藤の花と女性に関した悲恋話が三春に伝わっています。
三春城下から西に約一里。山田のバス停留所から200メートルほど西に行きますと道路が大きく曲がる辺りに、川の流れが渦を巻く小さな淵があります。
晩春から初夏の頃になると、藤の花が川面に美しく揺れている場所で、何時しか「お美代淵」と呼ばれるようになりました。

江戸中期、寛文の頃、鷹巣村のある庄屋に気立てが良く働き者の下女が住み込んでいました。その下女が、この“お美代淵”の名前の由来となる“お美代”です。
その当時、お美代は娘盛りの19歳の春を迎えました。そしていつしか恋を知りました。

相手は、同じ庄屋に住み込みで働く作助です。
二人は人目を忍びながら、嬉しい逢瀬を楽しんでいました。




ところが、そこに気立ての良い美代に恋を寄せるもう一人の男が現れます。
主である庄屋の家の次男坊である誠三です。
それとなく美代に言い寄りますが、美代はまったくなびかず心すら許しません。

業を煮やした誠三は、「可愛さ余って憎さ百倍」とばかりに、手段を択ばず理不尽な仕打ちをしますが、それにも抵抗し続けて操(みさお)を守り通します。
いつしか誠三は、作助と美代の間柄に感づきます。
そして、その年の暮れに庄屋である父親に、作助にあれやこれやとありもしない罪を告げ口をしたり、無実の罪を擦り付けたあげくとうとう解雇させてしまいます。
作助は、愛しい美代のことが気がかりでしたが、解雇となれば庄屋から去る以外になく、どうすることも出来ないまま、後ろ髪を引かれる思いでお美代の元を離れ、行方が知れなくなってしまいました。

後に残されたお美代は、執拗な誠三からの無理な求婚を拒み続け、片時も忘れかねる作助への慕情を秘かに温め続けていました。
翌年5月初旬、田植えも終わり一段落をした美代は、裏の水車小屋の傍らに立って、ぼんやりと川面に目をやっていました。

川岸には藤の花が真っ盛りに咲き競い、川面を薄紫に染めあげていましたが、川の流れがとろりと凪ぎてきました。
よく見ると、紫色の川面のその川底に、なんと恋い焦がれていた愛しい作助の姿がほのぼのと見えるではありませんか。
驚いた美代は、パット身をひるがえして水底に見える慕い人である作助の幻影めがけ身を投げてしまいました。

明治19年の郡山街道県道整備、大正3年磐越東線敷設、昭和になって国道288号線整備など、道路や河川整備工事が進み、“お美代渕”の川の流れやその形も変わってはいますが、幾幾年川岸にある藤の花だけは、時節になると川面を薄紫に染めて、お美代の悲しい恋色を伝えています。 

古い広報三春内「怪奇伝説 美代淵の由来」参照

春陽郷三春城下 三春昭進堂蒼龍謹白  さすけねえぞい三春!   拝




尚、三春スタンプ会主催「綾小路きみまろ笑撃ライブインみはる」二次チケット売り出しの日にちですが、平成27年と表記してしまいました。

これは誤りでした。平成29年6月12日(月)~です。

お間違えの無いようにお願いいたします。





真照寺方丈庭園「心字の池」に、可憐なスイレンが咲きはじめました。



| ryuichi | 05:35 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
手作りのベイクド・チョコレート・ケーキ



近所の男子中学生より手作りのベイクド・チョコレート・ケーキを差し入れしていただきました。

時折来店しては、歴史の話をして盛り上がっています。
歴史といっても三春の歴史から日本史全般、幅広い分野のお話です。


これがまた、馬が合うというか不思議な御縁を感じています。

初めての出会いは三春中学校での総合的な学習の時間にあった校外学習「三春を知る」という授業での来店からですが、実は時折ランニングを兼ねてまんじゅうを買い求めに来ていた中学生でした。




お菓子好き、歴史好き、そして空手道という私と合いそうなワードが揃っています。

先日も、京都の歴史と三春の関係というテーマでお話させていただきましたが、その時にお母さんから習って作ったというベイクドチョコレートケーキの話になりまして、今回作って持参してくれたという次第でした。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂

| ryuichi | 05:11 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
「山本五十六記念館」 越後長岡



先日、総会シーズンということもあり職業柄の総会出席のために越後長岡まで出張と相成りました。

折角ですので、時間を見て長岡市にある「山本五十六記念館」と「山本五十六誕生の地」に行ってまいりました。





記念館には、何といっても連合艦隊司令長官山本五十六ら11名が搭乗した海軍一式陸上攻撃機の左翼部分撃墜された当時の姿のまま保管されています。

また、山本の生家である高野五十六時代から戦死時までタイムラグ的に、手書きや書など様々なものが紹介されています。





山本五十六は、当時の欧米事情にも詳しく、戦略的に見て日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していました。
戦術的にも航空機戦力に早く着目し海軍航空隊設立に尽力し、日米開戦時には「短期決戦・早期和平」という日米間に於ける国力の差を冷静に分析していました。

広い視野を持ち現実的な作戦計画を実施しようとしたことなど、旧日本海軍軍人の中でも傑出した名将としての評価は今日でも高く、海外においても広く賞賛されています。

また、明朗な性格で、部下や同僚から非常に高い信頼を寄せられた人物でした。


世界海軍軍縮会議予備交渉に出席する際に、郷土長岡の先人河井継之助の小千谷談判を持ち出し友人に語った言葉

私は河井継之助が小千谷談判に赴き、
天下の和平を談笑のうちに決しようとした。
あの精神をもって使命に従う。
軍縮は、世界平和、そして日本の安全のため、必ず成立させねばならぬらぬ。






日本海軍の山本五十六と言えば、太平洋戦争初期の旧大日本帝国海軍の連合艦隊司令長官で真珠湾攻撃の立役者として知らない方はいないはずですね・・・
ミッドウェー海戦後のラバウル航空隊の活躍する南方戦線視察・激励で昭和18年4月18日午前7時30分すぎ、ソロモン諸島バラレ島におもむく途中、アメリカ陸軍の戦闘機の襲撃をうけ墜落し、戦死してしまいます。






山本は、日米戦争に反対していたのにも拘わらず、戦時特別編成である大日本海軍連合艦隊司令長官という立場から真珠湾攻撃の作戦立案に携わる事になりますが、その山本の苦悩が洗われている講演があります。

昭和14年に山本五十六が母校の長岡高等学校で講演したときの言葉を紹介いたします。

私は諸君に対し銃をとって第一線に立てとは決して申しません。
あなた方に希望するところは学問を飽くまで静かな平らかな心を持って勉強し
将来発展の基礎をつくって頂きたいと熱望する次第であります。
どこまでも気を広く持ち高遠なる所に目標をおいて日本のため進んでくださいます。






「山本五十六長官」を護衛していた六機の護衛零式海軍艦上戦闘機

坂井三郎と共にソロモン戦域最多撃墜数保持者として日本海軍撃墜王と称された、新潟県東頸城郡安塚村(現上越市)出身の杉田庄一飛兵長も両翼端を切った最新式の零戦32型で護衛任務に臨場していました。

戦後、護衛戦闘機隊の一人柳谷氏によると当時、山本五十六が視察した地域は「圧倒的に日本軍が優勢な制空権を確保していた」ようでパイロットたちは「自分達の庭」と思っていたと語っています。当時は、柳谷氏の話のように護衛など必要ない空域という認識しかなく、零戦6機護衛隊も「形式的なものだった」という認識が司令部や全パイロットたちにもあったのではないかと考えています。


二〇四空護衛戦闘機隊

第一分隊
分隊長 森崎武中尉
二番機 辻野上豊光一飛曹
三番機 杉田庄一飛兵長

第二分隊
分隊長 日高義巳上飛曹
二番機 岡崎靖二飛曹
三番機 柳谷謙治飛兵長(終戦まで生き抜く)


被害 一式陸攻二機撃墜
戦果 P38二十四機中六機撃墜





山本五十六記念館から徒歩3分の近さにある「山本元帥誕生の地 山本記念公園」には山本の胸像があり、山本五十六の生家である高野家が保存されています。


生家を見ると「これで冬が越せるのか?」という質素なつくりの家でした。

しかし、長岡藩士の家らしい質実剛健を表すお宅です。





海軍兵学校の体格検査で「特技は何だ?」と聞かれて、

「はい、やせ我慢です!」と答えたという。

苦しいこともあるだろう。
云い度いこともあるだろう。
不満なこともあるだろう。
腹の立つこともあるだろう。
泣き度いこともあるだろう。
これらをじつとこらえてゆくのが男の修行である。
男の修行 山本五十六語録


好きな言葉です。




人生全てが修業であり、生きている間はどんなに辛いことや理不尽なことがあっても、簡単には「逃げ出さず」「愚痴をこぼさず」「弱音を吐かない」それが男子たるもののあるべき姿ということなんだろうと思います。

これは正に自分との戦いであり、ただの自己満足であるかもしれません。
しかし、自分には負けたくないものです。







日本海軍連合艦隊司令長官 山本五十六大将訓示
下記は、三国同盟成立直前に反対演説した時の連合艦隊司令長官 山本五十六訓示です。

私たちは一口で云うならば、国家の忠実な番犬であります。
日本と云う邸内を侵すものあれば、その時は身命を投げ打って相手に挑んで行く任務が在って、もともと政治には拘わりたくないのであります。
しかしこの日本の邸内を窺う賊は一名ではありません。
出入り口も三つか四つ在りますが、哀しいかな番犬は一頭で在る場合、この番犬はどんなに走り回っても護りキレ無くなるので在ります。
とは云っても賊の侵入を見逃す訳には尚まいりません。
せめて政治家が、他の口をしっかりと鉄扉で塞いで於いて呉ますなら番犬は喜んで常に一つの関門を護り得るものと存じ得ます。





宿泊は、定宿にしている燕三条在下田村にある越後長野温泉「嵐渓荘」です。

いつ行っても癒されます。




ここでゆっくりしたいから新潟の出張に来ているようなものです・・・と云ったら怒られそうですが・・・





帰りに、女将さんより嵐渓荘特製「山の塩羊羹」を頂きました。



嵐渓荘の温泉「強塩泉」を練り込んだ白隠元豆の塩羊羹です。


お菓子屋の私が食しても絶品です!




勉強しま~す。




また、加茂市に「善作茶屋」の“ところてん”が絶品です。




時代劇に出てきそうなロケーッションは最高!

息子が新潟大学に入学したもので、よい身近に感じる新潟です。

もっとも、私の母方の祖先(ひい祖父)は越後(本籍は新潟市西区)の小山氏出身ですので、DNAの中に何処か越後の遺伝子が組み組み込まれているせいなのかもしれません。





前日も、一人暮らしをする息子のアパートに食材を届け、ゴミを片づけて来ましたが、やはり初めての一人暮らしです。

心配が先に立ってしまいます。

たまには息抜きに「嵐渓荘」にでも行かせたいと思っています・・・


春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂


| ryuichi | 04:56 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録::男の隠れ家 |