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「三春張り子人形」 天狗谷古川悟朗コレクション



「三春張り子人形」が店内にお目見えしました。

天狗谷の母と慕う橋本和子さんから旧三春農協の組合長だった故古川悟朗氏のコレクションをお借りしてきたものです。

生前、悟朗さんが収集した故小沢太郎氏の作品です。








ある雑誌に、当店が紹介された折に「店内で三春張り子がお出迎えしている・・・・」と記載されていました。

この記事を見て、他の市町村かららお越しくださるお客様目線で観れば、三春にちなんだもので飾りなどの調度品で統一された店内の方がより三春らしさの演出になるのではないかと考えました。





早速、天狗谷の妹に連絡をして悟郎さんの三春張子人形のコレクション拝借を打診してみました。


実は、このコレクションの存在は子供のころより知っていました。

田村大元神社夏季祭礼神輿渡御での御輿掛けになっていた古川家ですので、三匹獅子や長獅子・祭典掛りなどで、訪れる際に応接間で拝見していた品々です。

その悟朗さんの娘である”天狗谷の母”こと和ちゃんから 「いっぱいあるから季節ごと位に交換して飾ったら?」と快く貸し出していただきました。

やはり頼りになる天狗谷の母です。







何でも困ったことがあると相談できる、わがままも言える頼もしい本当の母のような和ちゃん。


多分、私と天狗谷を知る人の何割かの方々は、本当の母親だと思っている方も少なくありません。

何せ、天狗谷の名字は橋本なので、旧知の方でも私の事を「橋本君」と真顔で呼ぶくらいですから・・・・







悟朗氏コレクションの三春張子人形は、見れば見るほど、素朴さの中にも華麗さがある、北国の小さな城下町春陽郷三春の郷土玩具です。

三春張子人形は、江戸時代、三春藩領だった高柴村(現在の福島県郡山市西田町高柴)で作られはじめました。

江戸時代後期の正徳・享保年間 (1711~36) 以前は、“デク”、“デコ”と称する張り子玩具を作るのに、三春7代藩主秋田倩季公が、江戸から人形師を招いて「でこ屋敷」を与え、参勤交代の折りに歌舞伎や伝説上の主人公の人形を参考に、農民に技法を教えさせたと伝わっています。






現在は、三春だるまや各種のお面、恵比寿様、大黒様、そして、干支の縁起物をはじめ、雛人形や歌舞伎・浮世絵に題材をとる人形まで多くの種類があります。

人形が成立した時期などについて、正確なところはわかっていませんが、江戸時代、文化・文政のころに最盛期を迎え、その当時、非常に優れた人形が作られていたことがわかっています。






三春張子人形制作は、明治期に一時衰退していました。
それは、人形に使用される染料に制限が加えられたりしたことにより衰えはじめ、ダルマなどがわずかに制作されるまでになっていました。





これを復興させたのが、大東亜戦争後の民藝ブームの中、大阪のコレクターである本出保治郎氏に力づけられた高柴の橋本広吉さんをはじめとするデコ屋敷の方々と、小沢民芸初代で故小沢太郎氏でした。



春らしい五体の三春張り子人形です。

店内の飾り棚に配しますので、ご自由にご覧ください。


また、季節ごとに作品を入れ替えしながら古川コレクションをお楽しみいただけます。






春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 09:34 | comments (x) | trackback (x) | 🌸猪苗代磐梯造園 親方の教え |
三春藩主秋田家祈願所 真照寺節分会 2018 諸願成就祈願!




三春藩主秋田家祈願所 真照寺節分会 2018


一昨夜、三春城下の旧三春藩主祈願所日乗山東門院真照寺の節分会が盛大に開催されました。

朝から、檀家や近所のお手伝いの方々や、ご祈祷を受ける方々や福授け豆まきの景品を奉納する方々、そして古いお札や正月飾りのお焚き上げの方々だ度がなどが、行き交う参道です。

山内には、多くの方々が福を拾いに詰めかけました。







早めの夕食を済ませた方々が、三々五々境内に参集してきます。

豆まき開始は午後八時ごろから、二回に分けて行います。

豆まきには、例年通りの大勢の方々が来場し、住職や年男、そして役員の方々が撒く「福豆」を拾っていました。
もちろん、お目当ては「磐梯熱海一力」や「馬場の湯若松屋」「斉藤下の湯」などの宿泊券です。



さらには、豪華景品は、魚券、酒、ゲーム、毛布、プラモデル等々、今年初めの運試しです。






露天商、そして火気警備の消防団員や三春分署員さんもその賑わいの演出者となっています。

皆さん、お焚き上げの炎で体を温め無病息災を祈願しながら、豆まきの時を待ちます。






裃姿の福男がお焚き上げの炎にあたり、邪気を払い豆まきの準備万端!

本堂内で、ご祈祷です。






所願成就の祈願を申し込んだ参詣者や、豆まきをする方々が、”護摩焚き”によるご祈祷を受けています。


今年は、真照寺ご住職や妹である瞳ちゃんのご配慮で、先週から肺炎で入院する父の病気回復、そして、長男坊の就職を祈願して、裃姿での豆まきとなりました。

ご住職さま、御心使い本当にありがとうございます。







福は内! 福は内!  福は内!  福は内! 福は内!

真照寺では、鬼は外とは言いません。

何故かって?






御本尊の不動明王さんは、改心すれば鬼をも助けるということです。

心の中にいる鬼も改心すれば・・・「罪を憎んで、人を憎まず!」です。


人間、誰にだって心の中に「鬼」を持ってます。

日常生活の中で、カッ!となる「心」を鬼と呼ぶんでしょう。






「福」というのは自分の長所であり、「鬼」というのは自分の短所つまり欠点のことだと云われています。
 
人は、それぞれ長所・短所を持ち合わせているものです。

節分の豆まきは、「春」立春を迎える「節分」にあたり、豆を撒いて1年に1度、短所を追い払い、長所を伸ばそうという行事なんだろうと思います。
 
心の中の鬼を調整するのも自分の心次第、そういう心を戒めて、心穏やかに暮らしていけるよう日々生活していきたいものです。







そして、いよいよ豆まき、ペアの旅行券やお酒、魚、醤油や油、任天堂3dDS,ソニーPSP等のゲーム、そして特賞掃除機等々豪華賞品を目指します。


今年も沢山の方々が来場していただきました。

”笑顔” ”笑顔” ”笑顔” ”笑顔” 笑顔が境内にあふれます。






一般の交換が終わった後には、祈願申込者の方々限定の大交換会が始まります。

この場合も、お札受け本人もしくは代理の方がいないと無効となりますので、皆様そのまま待機しています。






住職が大鐘の中から名前の記載された紙を見ながら当選者の名前を呼ぶたびに、ため息とともに歓声が上がります。

私も、ここ数年はあたりがありませんが、以前は旅行券や婦人服などなど豪華景品をゲットしていました!


また、祈願成就のお札を申し込まれた方々には”福銭”が下されます。

この福銭を一年間財布やレジに入れておくとお金がたまるといわれています。

そして、一年後に本堂のさい銭箱にお礼の気持ちを込めてお返しください。


その後は、不動明王さんに奉納されたお神酒の御下がりを頂き、直会を行って撤収となります。







ご本尊「不動明王立像」もちょっとだけ顔をのぞかせています。
前にある白木の大日如来座像です。


そして、須弥壇左右に鎮座する「弘法大師木造座像」と「興教大師木造座像」です。





天明の凶作や天明5年の大火による城下町の焼失後も猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた三春藩4代藩主頼季の孫である7代藩主倩季公が、この木像の胎内に滋野多兵衛の位牌を入れて祈願所である真照寺に納めて、その怨霊を鎮めたと伝わる木像です。







この弘法大師と興教両大師木像は、木像安置の70年前に起こった「正徳・享保事件」そして「腹切り梅」「三春化け猫騒動」と呼ばれる、三春に伝わる古い伝説が付随しています。
 
三春御家騒動・正徳、享保事件と「三春猫騒動」
 
 三春藩主継嗣問題に端を発し、「三春猫騒動」にまつわる正徳事件と、家老荒木玄蕃高村
および四代藩主秋田頼季(玄蕃の子)の閉門を中心とした享保事件は、徳川幕府幕閣から、町方まで巻き込こんだ御家騒動といわれます。
 
正徳事件・「三春猫騒動」・当時、家老荒木内匠は、世継ぎとなりうる幼君を亡き者とし、我が子を藩主に据え藩の実権を握ろう企んでいました。
しかし、幼君の傳役滋野多兵衛にその野望を阻まれた、やがて滋野は荒木によって無実の罪をきせられ、大町紫雲寺の境内、白梅の木の下で切腹させられ、傍らにいた猫が怨霊と化し、間もなく野望を果たした荒木に祟るようになったと云います。
今も紫雲寺に、残る滋野多兵衛の墓には、猫の怨霊に苦しめられた荒木が、槍で突いたという傷がのこっています、又境内の白梅は紅梅に変わり、猫の怨霊は、約七十年後の「天明の大火」の時再び登場する。




 
享保事件は、家臣団の勢力争い・対立の末、幕府老中同士の対立を呼び、その政治紛争で負けた、荒木玄蕃高村の蟄居と、その子である、藩主秋田頼季の閉門により、正徳の事件より約八年続いた、御家騒動は、幕閣の介入により幕をとじました。
 
天明五年二月、八幡町より火の手が上がり荒町、高乾院・荒木家の墓を焼払い、北町を駆け下り、舞鶴城天守を炎上させました、その後も火の勢いは衰えず、大町から南町そして新町へと軒並み家屋を灰にしていきました。

消火指揮に出向いた、時の藩主秋田千季(荒木玄蕃の孫)の避難所・真照寺へ追うかの様に火は、勢いを増し南町,山中、新町へと向かった




 
真照寺住職が門前まで迎えに出たところ、殿様の後ろに猫の怨霊が見え、袈裟の袂で殿をかばい隠すようにして寺へ向かい入れました。
火勢は、ちょうどその場所・今の昭進堂の場所で、三春全域を焼き尽くした火災は、鎮火したと伝えられています。

この大火後も猫(滋野)の怨霊に夜毎魘された千季公は、真照寺へ、弘法・興教両大師像の中に紫雲寺で切腹した滋野多兵衛の位牌を入れて納め、怨霊を鎮めたといいます。



自然と手を合わせたくなるお姿です。

合掌







福拾いの帰りには、当店で振る舞っている御汁粉も、約200名のお客様が来店され、笑顔と共に戦果報告を楽しそうに話されていたそうです。

あれ、社長は?

私は、お寺で直会の真っ最中です!

立春前夜、節分の夜に十二年ぶりに御顔を見せたお不動さんを囲んで夜更けまで般若湯を酌み交わしたものですから、心の中の鬼も退散してしまったようで、晴々とした立春を迎える事が出来ました。








翌、立春の日、入院している親父さんの様子を見に行きますと、劇的な回復の兆しが見え始めてきており、来週早々には治療が簡素化されるとの吉報をいただきました。


もちろん、入院先の三春病院の院長先生はじめスタッフの皆様の手厚い医療・看護のお陰だと思います。

そして、何といっても、お不動さんをご本尊とする旧三春藩主祈願所真照寺の節分会。

自身の諸願成就を祈念して{豆まき福男}という大役の御縁をいただきましたことが大きかったんだと思っています。


改めまして、真照寺御本尊不動明王様、そしてご住職、お寺のご家族、天狗谷、磐梯造園、檀信徒役員等々、そして節分へご来場の皆様等々、有縁無縁全ての皆々様には、心より感謝申し上げます。


ありがとうございました。

春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主秋田家祈願所 真照寺::節分会・初寅会 |
塵壺第319号平成30年2月発行 「弘法大師木像、興教大師木像」 三春藩主祈願所真照寺




塵壺第319号平成30年2月発行

   「弘法大師木像、興教大師木像」 三春藩主祈願所真照寺

 明日2月3日は節分、三春城下真照寺の節分会です。
 御祈祷や景品交換などで本堂に上がった際には、ご本尊であるお不動様をお参りください。

その際、御本尊「不動明王」様、「大日如来」様が鎮座する須弥壇の両奥をよくご覧いただければと思います。
 ここには弘法大師木像と興教大師木像が収められています。

これは、天明の凶作や天明5年の大火による城下町の焼失後も猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた三春藩4代藩主頼季の孫である7代藩主倩季公が、この木像の胎内に滋野多兵衛の位牌を入れて祈願所である真照寺に納めて、その怨霊を鎮めたと伝わる木像です。








 この弘法大師と興教両大師木像は、木像安置の70年前に起こった「正徳・享保事件」そして「腹切り梅」「三春化け猫騒動」と呼ばれる、三春に伝わる古い伝説が付随しています。

 江戸期の三春藩秋田藩政時代に起きた藩主後継者問題による御家騒動。
 家老荒木玄蕃(輝季妹の夫)や、輝季公後妻の実家である佐塚氏が、藩重臣による権力争を憂い藩政の実権を握ろうとして、3代藩主輝季公の嫡男である広季を廃嫡して、代わりに荒木氏から旗本秋田氏に養子に入っていた頼季が藩主の座に就きました。

 この結果、広季(就季に改名)は45歳で亡くなり、代わりに荒木高村の子である頼季が藩主となり、三春藩の実権は荒木氏と佐塚氏に握られます。





 このことに不満を持つ三春藩重臣達と荒木・佐塚氏との争いから、三春藩に於ける藩政の争いと発展し、さらには、徳川幕府譜代幕閣の老中抗争の先端的様相を呈しはじめ、またその波及は藩内の秋田由来の家臣団と、宍戸由来の家臣団の権力争いも加わり、上は幕府閣僚から町方までに及ぶ“お家騒動”の事件となりました。

 幕閣での政争の末に徳川8代将軍徳川吉宗公が介入して裁断を下し、頼季の子である治季(後に延季に改名)を5代藩主に据えて、藩主頼季の閉門、家老荒木玄蕃の蟄居等、多数の犠牲者をだして終幕しました。





「腹切り梅」
亡くなった広季の守役だった滋野は責めを負い切腹を申し渡されます。
その切腹場の紫雲寺に現れた滋野の飼い猫。滋野は「主人の代わりに怨霊となり、この恨みを晴らせ」と言い残し猫の首を斬り自らも切腹して果てます。その血に染められた傍らにあった白梅は、以来紅梅になったという。






「三春化け猫騒動」
事件後、荒木玄蕃や藩主頼季の夢枕に毎夜猫の怨霊が現れるようになったと言うもので、以来、三春城下の大火の度に猫の怨霊が火を点けてながら駆け回ったと噂話になり、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。

 また、三春郊外、貝山の泉沢に「御下屋敷」とよばれる荒木玄蕃の屋敷跡があります。

荒木は、幼君を亡きものと企む中で御殿医三宅良庵と老女鳴瀬とを巻き込み、朝の食事に一服盛り、幼君を毒殺したと伝えられています。
 その朝、荒木はこの下屋敷にあって舟形の大きな石を西方村の大滝根川から運ばせている最中でした。もう少しで庭に入るという時に、幼君急死の報せが本城からもたらされたので、悲しみを装って急ぎ登城したといいます。






 その後、“腹切り梅伝説”の忠臣滋野多兵衛の亡霊譚の下りとなりますが、荒木は御城下の上屋敷には居たたまれず、この下屋敷に逃れ大きな番犬数等と警固の武士を配して引き籠ったとされます。

 このとき西方村より運んだ舟形の庭石は、これも滋野の亡霊の祟りで、その後いくら手を尽くしても微動だにせず、庭外に放置されたまま伝説を秘めて風雨にさらされています。 

 古い広報三春コラム「古蹟萬歩」貝山の荒木屋敷参照

      蒼龍謹白   さすけねぇぞい三春!   拝








| ryuichi | 05:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |