CALENDAR
S M T W T F S
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30       
<<  2018 - 09  >>
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
    k1
OTHERS




22th QUEEN’S DANCING SHOWCASE 2018 QUEEN'S DANCING STUDIO



22th QUEEN’S DANCING SHOWCASE 2018  開催!!

QUEEN'S DANCING STUDIO





日時 2018.10.14 [SUN]

・OPEN/12:30 START/13:00


会場/郡山女子大学内建学記念講堂

入場無料

年に一度の発表会いよいよ開催です。


ご家族お友達お誘いの上、会場で是非ご観覧下さい!!







QUEEN'S DANCING STUDIO


代表 甲野藤 一恵


3歳より日本舞踊を習い始め、
12歳にYOKOJAGY研究所 石井陽子師と運命的な出会いをする。
後、インストラクターとなりアメリカN.Y.へ短期留学。
1997年3月にクィーンスダンシングスタジオを設立。
ジャズダンス・ヒップホップ・エアロビクス・マタニティエアロビクス
よさこい・健康体操などの指導と振付の提供。
各学校・企業・公共企画などの講師でもあり、
TV・CMの振付・指導・出演も行っている。








〒963-8851 
郡山市開成2丁目24-21
開成山公園プール斜め向かい


TEL/FAX 024-922-3550








| ryuichi | 05:14 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
司馬遼太郎著小説「峠」が、「峠 最後のサムライ」のタイトルで映画化発表‼




司馬遼太郎氏の名作小説「峠」が、「峠 最後のサムライ」のタイトルで映画化することが発表されました。

監督は、小泉堯史氏監督。

河井継之助役には役所広司、妻・おすが役に松たか子はじめ、田中泯、香川京子、佐々木蔵之介、仲代達矢ら豪華キャストが出演しています。

1966~68年に毎日新聞で連載された司馬遼太郎原作の「峠」は、幕末の風雲児と呼ばれた越後長岡藩家老・河井継之助を題材にした作品です。







私と河井継之助との出会いは約40年くらい前のNHK大河ドラマ「花神」の中に登場した髙橋秀樹さんの演じる河井が最初でした。

子供ながらに、田舎の小さな大名、それも一代限りの家老が、永世中立を称え「会津と薩長の仲立ちをして平和解決を目指す」という壮大な夢に感銘を受け、さらに平和解決が無理となるや当時世界レベルの軍事力にまで仕上げた長岡藩を率いて、徹底的に戦うと・・・これがが始まりです。

それから、10年後カネサン書店で司馬遼太郎の「峠」上下巻に出会って衝撃を受けたことを覚えています。







「峠 最後のサムライ」

物語の舞台は、徳川慶喜による大政奉還も奏上され、260年余りに及んだ江戸時代が終焉を迎えた幕末。幕末の動乱期を生き、最後には武士として、新政府軍と会津を中心とする奥羽列藩同盟の戦いの中。

長岡藩は、河井の指揮のもと行政改革を断行し借財の返済貯蓄の充実を図って、当時世界でも類を見ない最新式の武器と調練によって鍛えた兵士によって最強の軍隊を組織していました。

その武力を背景に永久武装中立を主張し、新政府軍と佐幕会津藩の仲立ちを買って出ます。

しかし、両軍からの妨害各種工作によって奥羽列藩同盟に加盟し新政府軍と対抗する道を選んだ河井の生涯を通じて“「サムライ」=日本人の生き方”“リーダーとしてのあるべき姿”を問いかけるという作品です。








田中と香川が継之助の両親である河井代右衛門、お貞、佐々木が継之助の盟友・小山良運、仲代が長岡藩先代藩主・牧野忠恭(雪堂)として登場する。

そのほか、坂東龍汰が良運の息子・小山正太郎、永山絢斗が継之助の従者・松蔵、芳根京子が旅籠屋の娘・むつを演じ、榎木孝明と渡辺大が、長岡藩士の川島億次郎&花輪求馬として出演します。







大名・松平定敬役の矢島健一、百姓の老人役の山本學、月泉和尚役の井川比佐志、徳川慶喜役の東出昌大、土佐藩士・岩村精一郎役の吉岡秀隆といった、そうそうたるメンバーが顔をそろえている。







「峠 最後のサムライ」は、9月中旬から約3カ月間、継之助の故郷・長岡市をはじめ、新潟を中心に茨城や京都での撮影を予定。
最も壮烈な「北越戦争」を描くため、約5000人規模のエキストラを募集する。

2020年に全国公開。








只見町にある「河井継之助記念館」です。

幕末、越後長岡(現新潟県長岡市)の非門別家老で”戊辰戦争”に際して、長岡藩軍事総督として長岡藩を率いて戦いました。
画像は、当時世界で3基しかなかった「ガットリング砲」と河井の銅像です。

何故只見町に長岡藩の家老の記念館?と不思議に思うかもしれませんが、薩長等の西軍との戦いで奪われた長岡城を再度奪い返すなど、戊辰戦争電の最大の激闘を繰り返し、約半年間にわたり善戦しましたが、自身も銃弾の倒れ大けがを負い、長岡藩の敗走となり、長岡から栃尾経由で”八十里峠越”を超えて会津若松を目指す途中、この只見の塩沢の医師矢沢宗益宅で亡くなりました。







追撃する西軍が迫る中、死を悟り、河井は下僕の松蔵に棺桶と薪を用意させ「自分の亡骸を西軍に渡して成らぬ・・・」と云い残し、燃え上がる薪を観ながら息を引き取ったと司馬遼太郎の著書「峠」では締めくくられています。








火葬された河井の遺骨は、大きな部分は松蔵が会津へ運び埋葬され、後に長岡の河井家の菩提寺栄涼寺に改葬されます。

拾い残した遺骨は、村人が現記念館の東手にある医王寺に埋葬され、毎年命日の8月16日には慰霊の墓前祭が開催されています。







この只見の記念館とは、こんな立派な記念館が出来る30年位前にバイクで初めてお邪魔したのが最初でした。

その時は、まだ矢沢さんの子孫である強面のおじいさんが、河井終焉の間だけを只見ダム建設に伴うだ只見川増幅移転の際に移築して自宅兼用で細々と個人記念館として開館していました。

看板もお手製と思われるような粗末なものでしたが、河井継之助館主である矢沢さんの熱い想いには感服したことが思い出されます。








当時、遺品や説明のパネルが並ぶその終焉の間d、小説「峠」の中に在る河井の終焉の場面で、矢沢宅の隠居で、天上を眺めていた・・・涙が一筋~という下りを思い出し、ちょっと横になったらそのまま寝てしまい、矢沢さんに夕食をごちそうになった事が懐かしく思い出されます。








以来、時折お邪魔していますが、平成3年にこの記念館がオープン、そして平成20年にリニューアルして現在に至るです。

当店のチラシ「塵壺」も、「菓匠蒼龍」も、さらにペンネーム蒼龍も、この河井継之助からというのは言うまでもありません。







以前、長岡市内に河井継之助の記念館がなかったころの話ですが、長岡の商人の方々と会食した折に”吉の川”を呑みながら、「河井継之助は、山本五十六と共にこの長岡の世界に誇れる宝です!」
「記念館の建設を行政とともに進めるべきだ!」「長岡の商人は何をしているんだ!」と随分と意気込んで話をしたことが懐かしく思い出されます。






長岡河井旧宅付近にある河井継之助記念館



長岡も、戊辰戦争(北越戦争)では、軍事総督である非門別家老河井継之助の戦争の調停・回避・中立等の奮闘虚しく、戦争に巻き込まれ、敗戦国となります。












さらに、一時賊軍の汚名を着て長岡の歴史を語るのを憚られていた時期もあります。






後に、海軍の山本五十六大将(後に元帥)は、その汚名払拭の為にどれほど尽力したか計り知れません。



大平洋戦争直前に、郷里長岡中学での山本五十六の演説を聞きますと、その思いが伝わり胸が熱くなります。




山本五十六は、当時の欧米事情にも詳しく、戦略的に見て日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していました。

私は河井継之助が小千谷談判に赴き、天下の和平を談笑のうちに決しようとした。
あの精神をもって使命に従う。
軍縮は、世界平和、そして日本の安全のため、必ず成立させねばならぬらぬ。




世界海軍軍縮会議予備交渉に出席する際に、郷土長岡の先人河井継之助の小千谷談判を持ち出し友人に語った言葉








河井継之助も山本五十六も、結果的には戦争の最高責任者として敗戦を全て背負いこむことになりますが、その前段でどれだけその戦争を回避しようとしたか・・・
今を生きる、我々は忘れてはいけません。







三島にある早戸温泉鶴の湯です。


只見で河井が没した後、若松を目指した長岡藩士が傷をいやしたといわれる温泉です。






悠久の流れが平和の象徴に思えてなりません。







”義をもって戦に臨んだ”と河井継之助を表する方がいますが、私はさにあらず司馬史観でいうところの河井継之助の学派陽明学の教えに則って”自分の為すべきことを為しただけ”だったんだろうともいます。


当時、内戦の国益としての損失を考えられたのは、勝海舟と河井継之助だけだといわれています。


義を義とするならば、その儀は武士として殿様や領民に尽くす忠義であって、佐幕や勤皇といった輩に対するものでは断じてないと思っています。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





| ryuichi | 04:29 | comments (x) | trackback (x) | 🌸蒼龍窟 河井継之助 |
『タイヤは夜の向こう』 きのこ集団Protomass第4回公演





『タイヤは夜の向こう』きのこ集団Protomass第4回公演

当家の次男坊の主宰する劇団です。



郡山公演二日目に観てまいりました。

親が言うのも何ですが、次男坊の成知(ナリチカ)ワールド全開の芝居でした。


一つの舞台を二つに使い分け、舞台を3っつに分割して、それぞれ役者がペア・トリオとなってそれぞれの空間で漫才チックなコント仕立てのボケツッコミ、そしてそれらが入れ替わるという言葉遊びや、その中でもオカルト的な要素を取り入れたり、一人だけ現実(今の時間)をキープしながらお話は進んでいくという舞台を熱演していました。
この手法が、舞台を、幾重にも重なり、緊張感のある場面展開の中で、何倍にも大きく見せてくれて、あっという間の90分でした。


成知曰く…
ナンセンスコメディとか前衛劇とかの類で、対話形式で色々難しいこととか無茶苦茶なこととか話したり、突飛なことが起こって大変ダァってなったりする……みたいなのを作ってます。
そして、ゆくゆくは「ムムッ!福島に行けば面白い演劇見れるんじゃなぁい!?」と言われるようになり、お客様が各地から福島に足を運んできてくれる。
福島の活性化にちょこっとでも貢献できる。
んでもってお金をフヒヒ……なんて目論んでます。







きのこ集団Protomass公式ホームページより




公演概要
脚本・演出 髙橋 成知
キャスト たつろう
圓谷 颯
佐藤 夢子
大江 優花
渡邉 麗奈
飛田 ことみ
島倉 拓士
東洲斎 竹蔵
櫻井 孝樹
新良貴 飛梁

裏方 舞台監督:稲田 清香
照明:二瓶 碧
音響:髙橋 成知
宣伝美術:大江 優花
制作:島倉 拓士
進行管理:二瓶 碧
舞台補佐:熊田 康太








きのこ集団Protomassとは、日本の新人演劇集団。
2015年冬、福島県郡山市の高校演劇部有志を中心に結成し、2016年5月『出口はどこかにある』(作・演出:髙橋成知)で旗揚げした。
福島県郡山市を中心に活動しているが、仙台や横浜、京都でも上演したい、という思いを胸に日々惰眠。
















春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:56 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春昭進堂菓匠蒼龍 ::劇団きのこ集団プロトマス |
庚申坂弓町新地妓楼「二葉楼」解体




三春昭進堂の向かい側の道を入ったところが弓町です、この一番奥が「新地」とも「新庚申坂」とも呼ばれた、遊里遊郭跡があります。


“三春庚申坂七色狐、わしの二、三度騙された”


この三春甚句にも歌わるほど、旧藩時代より、三春城下新町末の庚申坂の色街は有名でした。

大正・昭和となり、場所が庚申坂から新地(弓町)に移転してから最盛期を迎え5軒の妓楼に約30名を超える遊女が在籍し、昼夜もない繁盛ぶりだったと伝わっています。







そして、その華やかさの陰には、花街につきもの事柄がたくさんあったことでしょう。

庚申坂秘話

悲恋の恋の花が咲き、心中あり、駆け落ちあり、円満身請けあり、倒産あり・・・数々の秘め事話を残しています。







その遊郭、先の花屋楼に続き二葉楼の取り壊しが始まりました。

老朽化のために傷みがひどく、取り壊しとなったんでしょう。

以前、知人が借家として借りていたこともあり、二葉楼には度々お邪魔をしていました。







この二葉楼も、赤線廃止後から下宿「二葉荘」として営業していた時期もありました。







平成の初頭まではアパートとして知人が家族で借りていましたが、その頃になると奥座敷や奥の間がある二階建ての建物は廃墟と化しており、知人の借りていた玄関横にある一間以外は人の入れる場所ではありませんでした。







しかし、時には肝試し感覚で妓楼の建物内部を探検させていただきました。







この二葉楼は、建て増し建て増しによる建築と見えて、手前の二階建ての構造物一階には帳場や宴会場的な部屋があり、2階は個室が並びます。

また、中にはを挟んで第二の妓楼が渡り廊下上下二段によって連絡されています。

またその奥には、奥座敷がありここも二階建てで上下二段の連絡橋で結ばれています。






二階へ通る階段が2か所ずつあり、計6っか所設けられており、すべての階段が一方通行になっていました。


これは客同士が会わない仕掛けなんだと聞いたことがあります。

トイレに行くにも入り組んでいて複雑な構造の大きな建物です。









二階には小さな部屋がいくつもあり、いろいろと想像を膨らませていました。

郡山駅前アーケードの一角にあった旧妓楼跡が自宅という郡山商業の同級生がいまして、遊びに行った時の建物の構造と同じだったことを覚えています。



取り壊し前の風景



今は、妓楼も朽ち果て、その面影をしのぶだけです。

三春の歴史が、また一つ消えていきます。









撮影は平成30年9月17日です。


現在は更地になっています。



尚、ここはすべて私有地です。



常識ある行動にて、無断での侵入はご遠慮ください。



春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:49 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下新町 |
「柳橋歌舞伎」平成30年度定期公演




「柳橋歌舞伎」平成30年度定期公演


先の柳橋歌舞伎伝承館(黒石荘)に於いて開催された、「柳橋歌舞伎」平成30年度定期公演。


ここ何年か、雨模様が続いていましたが、今年は晴天の中での開催です。


会場となる黒石荘には、天候にも恵まれ大勢の観客が詰めかけ盛んに声援を送っていました。









柳橋は、当三春昭進堂先先代の女将の実家(長岡氏)があり、そこの当主夫妻も柳橋歌舞伎へ出演したり、着付け係、指導者等々の関係者です。



また、会長はじめ関係者の方々には柳橋神楽社中として、新町の田村大元神社夏季例大祭の時には楽人としてご協力をいただいています。


そういってご縁もあり、ご案内をいただいて観劇と相成った次第です。


やはり柳橋は祖母の出宿がある地域なだけあって、親しみを覚えます。









丁度中学生の歌舞伎上演の真っ最中で、来場された会場を埋め尽くす大勢の観客の皆様方で会場内は熱気に包まれていました。



また、会場内には売店が多数出展されていて、大盛り上がりです。






観光協会の資料によると、

柳橋歌舞伎は、柳橋は江戸時代、天領(徳川幕府が、直轄領地として直接支配していた地域)であったために芸能が自由に行われ、菅布禰神社の祭りに村人が芝居や歌などを楽しんでいたことが歌舞伎の始まりになったといわれています。



柳橋歌舞伎の特長は、舞台のセットから台本まですべて柳橋の農民の手で作られたものであること。

また、江戸の歌舞伎と同じく男性のみで演じられることです。 

明治時代、興行の取り締まりや規制が多くなり一時中断しましたが、昭和55年柳橋地区全戸で「柳橋歌舞伎保存会」結成して、の支援を得て復活しています。
現在では、演じる演目は「一ノ谷嫩軍記」など15を数えます。

この秋彼岸の前。

稲刈りの少し前になりますが、この時期に秋の収穫を願って、柳橋の村人が、見様見真似で芝居や歌を楽しんだと伝えられています。









平成の世になっても、目の前で繰り広げられているのかと思っただけで、是には、正直、感動しました!

かつて天領だった柳橋村の民度ともいわれる文化レベルの高さがうかがえます。










尚、御舘小学校や御舘中学校生とも出演し伝統文化の継承に力をいれています。





御舘小・中学校は、平成18年から文部科学省伝統文化補助事業実践モデル校に指定され、御舘小・中では連携して柳橋歌舞伎の授業を行っています。

来月の御舘中学校文化祭でも柳橋歌舞伎が上演されます。









この日も、会場内には、子どもたちから年配者までが、柳橋のほとんどの方々が来場され、一般公開当日の”柳橋の文化祭”的な雰囲気の中で、歴史ある伝統芸能を楽しんでいました。






春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂



| ryuichi | 05:18 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
お彼岸 




お彼岸

春分、秋分の日をはさむ前後七日間を彼岸です。

初日は彼岸の入り、中心の日は中日、最後の日を彼岸明けといって、合わせてこの七日間は、各寺院、家庭で彼岸会の法要が行なわれています。

「春分の日」は「自然をたたえ生物をいつくしむため」に、また「秋分の日」は「祖先を尊び、亡くなった人をしのぶため」に、国で祝日に定めているように、
彼岸は、あの世(彼岸)の死者の安らかな成仏を願うという意味にあてられているます。






仏教では、生死の苦しみに迷う現世を此岸と言い、悟った捏磐(ねはん)の境地を彼岸と言います。


この彼岸が、なぜ春分、秋分の日と結びついたかというと、浄土三味経に八王日(立春春分、立夏夏至、立秋秋分、立冬冬至に善行を修すべし)の思想があり、また春分と秋分が、昼夜等分で長短のない中道の時で、仏道もまた中道を尊ぶところから、この時に仏事を行なうという考え方が生まれたと言われています。

彼岸の習俗としては、寺参りや墓参りをして亡き人を供養し、家庭では仏壇を清めて精進料理やおはぎ・ぼたもちを供え、親類知人に配るなどが一般的です。









年に2回(春・秋)のお彼岸には、お盆のときのように特別な飾り方などはございません。

お仏壇をきれいに掃除し、お供え物(菓子・花など)も新しくして菩提寺とお墓へのお参りをしましょう。



おはぎ

三春昭進堂では、彼岸の入りの日、9月20日(木)より、中日の23日(祝・日)まで、秋のおはぎを販売いたします。



こしあんこ、黒すりゴマ(粒あん)、こがし黄粉(コシあん)の3種類をご用意。

一個130円です。







焼き饅頭 大 一個 220円税別

焼き饅頭 小 一個 110円税別


こちらは予約販売のみとなります。

前日までにご予約くださいますようお願いいたします。





春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:18 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯::季節のお菓子  |
三春古四王堂修復 写経木板



真照寺山内「三春古四王堂」の修復工事も順調に進んでいます。


柱が立ち始めました。


使える部材を残しつつ、新しい部材での修復です。



大工さんも一苦労ですね!







般若心経を写経した木板が出てきました。



先の修復、戦後か、明治期か、はたまたその前か・・・



戦争に出征する息子の生還を祈願しての願掛けか・・・





奉納願主のお名前までは識別できませんが、写経木版を収めた方々の思いが現代によみがえります。







大切にしたい人への思いのつまった、やさしい人の心の表れだと思います。








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍




| ryuichi | 05:23 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主秋田家祈願所 真照寺::古四王堂平成の大改修  |