2018-12-14 Fri
三春藩主祈願所 城下新町 真照寺
「三春城下 お寺のライトアップ」 心穏やかにお参りください。
時宗 一遍上人 城下 法蔵寺
日時:平成30年12月14日(金)~24日(祝・月)
点灯時間 17:00~21:00
場所
三春城下新町「真照寺」 駐車場は、本堂裏水芭蕉墓苑駐車場をご利用ください。
三春城下荒町 「法蔵寺」 駐車場は、参道にございます。
冬季でございます。
路面や階段の凍結がございます。
くれぐれも足元に気を付けてお越しください。
真照寺さんは、現在北方鎮守古四王堂の復興再現中です。
法蔵寺山内本堂前には枯山水庭園がございます。
枯山水庭園への立ち入り後ご遠慮いただいております。
石畳が正式な通路です。
そちらをご利用して参拝ください。
庫裡右手にある水琴窟もライトアップされています。
凛と引き締まった幽玄の雰囲気で、より一層心が洗われます。
師走です。
大掃除と一緒に心の洗濯は如何でしょうか?
一昨年の天澤寺
昨年の馬頭観音
昨年の高乾院
一昨年の龍隠院
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2018-12-09 Sun
三春中学校1学年「三春学習」 2018
先日、三春中学校第1学年の総合学習「三春学習」校外学習受け入れの御礼の手紙が届きました。
三春中学校第1学年では、9月から総合学習として「郷土三春の特色を様々な視点で捉え、自分との関わりを見つける中で、自らの生き方を考え、自分のアイデンティティーを確立していく」というテーマで毎年「三春学習」を実施しています。
当店には、三春昭進堂・おたりまんじゅうの事、そして、三春の歴史といった質問内容でした。
午後10時前から午後3時頃まで、三々五々5~6名の小グループに分かれた生徒さん6班に訪れていただきました。
彼らは、この学習において生徒達は、課題意識を持って学習方法を学び、自ら調べ体験した上で、自分たちが住む三春をどのような町にしたいかを考えるといった授業の成果を、学習発表会で発表されたようです。
かつて、私たちが子供の頃、三春の先輩方から様々なことを教えていただき学んできました。
この恩返しになればいいなぁと考えながら様々な話をさせていただきました。
そして、自分に自信を持ってもらうには、自分を自分自身が大好きになってもらいたい。
“自分の家族”、そして自分が住む地域もです。
その為には、自分の足元である生まれ故郷三春を好きになってもらう必要があります。
これは生涯教育、そして今話題の100年生涯の分野にも言えますが、まず子供のころからの自己肯定型の学習が必要なんだろうと思います。
未来を担う、三春の後輩たちの”学び”に、少しでもお役に立てればいいなあと思います。
我々三春昭進堂では、今後も三春城下で商人として様々な学習活動へ支援していきたいと考えています。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2018-12-08 Sat
岩根愛 写真展 岩根愛「KIPUKA—Island in My Mind」ギャラリートーク
岩根愛「KIPUKA—Island in My Mind」展のギャラリートークが、三春城下大町のフォトギャラリー“いとう”で開催されました。
大阪、神田、西麻布の3か所で写真展を同時開催しました。
そして、三春でもというリクエストでということで今回のギャラリートークとなった次第です。
三春写真クラブ「舞鶴会」の代表である中村さまにお誘いを受けまして、喜んで参加させていただきました。
ギャラリートーク終わりの質疑応答の中では捨五郎さんから海を渡った初代ハワイ移民の方々の歌ったとされる「ポレポレ節」も披露され会場は盛り上がりました。
岩根氏は、御縁があり米国ハワイ州マウイ島にて盆踊りに出会い、日系移民の方々や三春出身の歴史家橋本捨五郎さんやデコ屋敷ひょとこ踊り橋本さんとの出会い、そして、福島音頭の誘われたかの如く福島三春へ・・・
不思議な人のご縁により今があるというお話をされていました。
打ち上げは、ギャラリーいとう奥様の「おでん」で乾杯です!
「ボンダンス」とは、ハワイの日系人が継承する行事で、日本の盆踊りよりも賑やかであり、先祖を尊ぶ、純粋な思いにあふれていると言います。
そんな、数ある「ボンダンス」の曲の中でも、踊り手たちの熱気がピークを迎える『フクシマオンド』は、実は福島からハワイへ渡った日系移民が伝承したものでした。
作品集『KIPUKA』の撮影地は、ハワイと福島。一見つながりのない2つの地は、福島の民謡「相馬盆唄」を原曲として伝わったというハワイの「BON DANCE(ボンダンス)」をきっかけに結びつき、ハワイと福島を舞台にした、岩根の12年間にわたる壮大なフィールドワークが作品世界として結実した。
本展は、1904年に発明され、現在では世界で4〜5台のみが使用可能な、回転する大判パノラマフィルムカメラ「コダック・サーカット」で撮影した『KIPUKA』の作品群を中心に構成される。
かつて福島からハワイへ、盆唄『フクシマオンド』が、移民と共に海を渡った。ハワイの盆踊り「盆ダンス」は、戦時に苦労した先祖を尊ぶ儀式として、ハワイの夏を司る、人種を超えた祭事となった。日本よりも賑やかな盆ダンスに惹かれ、私は、2006年よりハワイ各島のボンダンスに通っている。
2011年、フクシマオンドの原曲が『相馬盆唄』で、その故郷が、東京電力福島第一原発事故により避難区域となった、福島県浜通りの一部地域と知り、以来、盆唄の故郷、福島への旅を重ねながら、ふるさとを離れ、太平洋戦争を生き抜いたハワイ移民と、福島の現在の様々な相似を、盆唄に導かれるまま探ってきた。
2018年、ハワイ島で二十年ぶりに発生した大規模な溶岩流は巨大な河を作り、700世帯を飲み込んだ。海に流れ込む溶岩は今も毎日、ハワイ島の地図を更新している。
KIPUKA-キプカとはハワイ語で、溶岩流から残った焼け跡の植物のことで、「新しい命の場所」を意味する。生き残った命の種子は、ふるさとを離れても再び広がり、黒い大地を再び森にする。(岩根 愛)
岩根は東京都出身。1991年単身渡米し、ペトロリアハイスクールに留学。オフグリッド、自給自足の暮らしの中で学ぶ。帰国後、アシスタントを経て1996年に独立。雑誌媒体、音楽関連などの仕事に携わりながら、フィリピンのモンテンルパ刑務所(2010)、ロシアのニクーリンサーカス(2011)、台湾の三峡台北榮民之家(2012)など、世界の特殊なコミュニティでの取材に取り組む。2006年以降は、ハワイにおける日系文化に注視し、11年より福島県三春町にも拠点を構え、移民を通じたハワイと福島の関連をテーマに制作を続けている。
映画「盆歌」中江裕司監督作品 岩根愛が企画、アソシエイトプロデューサー
2015年、東日本大震災から4年経過した後も、散り散りに避難先での生活を送り、先祖代々守り続けていた伝統「盆唄」消滅の危機に直面する福島県双葉町の人々が、100年以上前に福島からハワイに移住した人々が伝えた盆踊りが、今も日系人に愛され踊られていることを知る。双葉の人々は盆唄を披露すべく、ハワイ・マウイ島へと向かう。
双葉の豊かな伝統芸能とハワイのボンダンス・日系文化にまつわる唄や音楽、その背景を追うドキュメンタリー。故郷と共にあった盆唄が、故郷を離れて生きる人々のルーツを明らかにし、盆踊りとは、移民とは、そして唄とは何かを探し求める200年に迫る。
2019年2月15日からテアトル新宿ほか全国順次公開。また、フォーラム福島、まちポレいわきでも同日公開。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2018-12-07 Fri
堺雅人と高畑充希が共演した映画『DESTINY 鎌倉ものがたり』が、本日12月7日の「金曜ロードSHOW!」(日本テレビ系、夜9時~)で地上波初放送されます。
劇中に登場する真っ赤なまんじゅうがあります。
今回ご縁があり、当映画のスタッフさんから依頼があり、そうです当三春昭進堂で製作しました。
この世には無い饅頭がコンセプト、名付けて”黄泉国茶屋特製火の玉饅頭!”です。
我が三春も”東北の鎌倉”と呼ばれた小さな城下町です。
ここにも~
左奥の茶屋のテラス席のような場所にも使われています。
鎌倉と名前が付いた映画の協力を三春の小さな饅頭屋が手掛けるというのも何かの御縁なのでしょう・・・。
映画の冒頭、鎌倉の夜祭りの屋台で売っています。
気をつけて見て下さいね!乞うご期待(^.^)
鎌倉ものがたりの公式スタッフツイッターでも紹介されています。
「この真っ赤なお饅頭、福島のおたりまんじゅうで有名な三春昭進堂さんが撮影のためにわざわざ作ってくださったんです!」
差し入れまで頂いてしまいました。ありがとうございます!
真っ赤ってことは、人間用じゃないのかなぁ??
映画の中で表現される「黄泉の国」あの世ですね、この情景が三春に縁する室町末期の画僧雪村の晩年の傑作「金山寺図屏風」を彷彿させてくれます。金山寺は、志那・揚子江中流の島にある禅寺です。
ここにも、三春との御縁を感じます。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2018-12-07 Fri
田村地方 三春専売局(日本専売公社・現JTの前身)
茶事などに参りますと「煙草盆」は、客をもてなす道具として在り 装飾的な調度品として拝見しますと、煙草も高級な嗜好品の一つとして扱われていたと改めて感じます。
明治3 4年4月1日、専売法施行と同時に大蔵省三春専売局(日本専売公社)は、現在の鎌田前(城下八幡町末)に新設され同年中に三春煙草専売所と改称されます。
注・鎌田前にあった出張所の用地は、2000(平成12)年頃に「高柳自工」と「日本化学」に売却
大正4年4月1日、郡山専売局三春出張所と制度が変り、昭和2 4年6月1日からは日本専売公社三春出張所となりました。
この三春専売局は大蔵省直轄の官庁で、管轄は東北6県から北海道一円、役所職員も40人余も数えた程でした。
当時の三春専売局長は、午前9時頃の出勤に「門衛8人が門前に整列して敬礼で迎える中を、得意満面にゆうゆうと通り過ぎていったものだ」と伝わっています。
従来タバコは、自家喫煙を許されていたが急に禁止されたので、密かに喫煙する耕作者も多く、これを検挙するための役人の多くは出張臨検をしますが出張先で猟銃をぶっ放されて色をなくして逃げ帰ることも珍しくなかったみたいです。
“葉たばこ”は明治中期から昭和にかけて田村地方の主要産業の一つに整備・成長し、その収納となると田村郡全町村から集荷されます。
特に小野、滝根、常葉などからは前日を村総出の“荷送(におくり)”と称し、三春へ通じる道々は混雑を極めたと伝わり今では想像もできない程それは賑やかなものでした。
局の近所の川又屋、いろは屋、 鎌田などは、収納たばこの臨時預かり所となって、その数は数千俵にも及び遠い所の人たちは葉煙草の中で一夜を明かしたという。
また三春には”キザミ煙草”の受請工場が4軒あり、多くの人夫を雇って盛んに営業を続け専売直営とあってわずかの間に経営は進展して皆裕福な資産家になりますが、ほどなくキザミ煙草製造が郡山に移転となり、以後転業に失敗し今に残る人は一軒とてなく、タバコの煙のように消えてしまいます。
田村地方では、400余年も前から各地で自家喫用として粗悪な煙草を栽培していましたが、その後元和2年3月三春が会津蒲生領時代に江戸幕府から煙草禁令が出て一時中絶し、江戸中期・宝暦の頃から再び栽培が始まります。
東白川宮本地方の「松川葉」の種子を移入した小野町方部から、更に滝根、大越を経て三春に入ってきたもののようです。
滝根、大越は耕作が最もさかんなところで、ことに菅谷の「大六煙草」は地方の銘葉として大いに売り出されたという。
その頃、滝根に広瀬の三郎という煙草作りに熱心な人がいて品種の改良に尽し、野州地方(栃木)から良品種を移入してこれを関東名葉と名付けたが優良葉として好評を受けます。
それから明治14、5年頃まで、これらのほか「柳葉」、「花切」、「御祭国府」や「大葉関東」、「丸葉関東」、「芳関東」など多種の葉たばこが耕作されていました。
輸出面では、船引町の助川良平翁が横浜シトロン会社の代理店として大発展をし、三春町からは、「二七市」を通して県内はもちろん山形、米沢地方にも大量の煙草が出荷されていました。
明治初年、「松川葉」は江戸市場や輸出市場などで名声を博しますが、当時三春地方では幹干方が、小野方面は聯閲法(れんえつほう)が行なわれ大正の初期まで続きます。
専売法執行後、郡内嘱託指導員が数名任命され、耕作改善や町村煙草耕作組合創立の指導に当っている。また、大正の初期には、三春、小野新町、常葉の3煙草耕作連合会が設立されます。
記録によれば郡内には、2つの「煙草神社」があり、小野町の煙草神社は大越の宗像利吉氏によって鎮座され、船引町の「煙草神社」はそれより数年おくれて、県立船引たばこ試験場開設と同時に、助川啓四郎氏の尽力で鎮座されたものと記されています。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 05:32 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
2018-12-06 Thu
三春町各宗派仏教和合会「歳末托鉢」
三春城下の歳末の風物詩である、三春町各宗派仏教和合会の皆様による托鉢がありました。
歳末助け合いの浄財の托鉢で、お坊さん方は三春城下を一軒づつ托鉢して廻ります
和合会托鉢では生き方を教示する文字の書かれた短冊が配布され、毎回様々なことを教えていただきます。
今年の短冊には「いまが大事 出会いが大事」とありました。
ご縁、そして一期一会ということだと思います。
ご縁、お坊さんは、端切れをつぎはぎした「袈裟」をかけています。
端切れのつぎはぎは、その小さく切った一枚一枚の布が回りの布に支えられている姿が人の世の姿「ご縁」そのものだと仏教では説いています。
昔から「袖振り合うも他生の縁」といわれ、道のいきすがりに、袖が振れ合うというような、偶然でほんのささやかな出会いであっても、それは前世からの深い縁で起こる。そんな出会い、そして縁や絆を大切にしていきたい・・・。
年を重ね、様々な経験を経て、人は大人になってゆくもの。
その過程である人生というのは、どれだけ多くの人と出会えるかだと思います。
これはやはり商売を通じて沢山の皆さんと触れ合えたおかげで あると感じております。
向上心、何かを成し遂げたいという欲求は自分を高めていく上で必要な事ですが、最後に行き着くのは自身の内面、幸せはいつも自分の中にこそあるのです。
それを教えて頂いた方との出会いは自分にとって大きな一歩 になったと思います。
既に出会っている身近な人、また、まだ見ぬ後の人生で縁を頂く人、より良く生きるきっかけは沢山の人々が持っています。
それを見逃す様、日々に、そして出会いに感謝し一日一日を大切に過ごしていきたいと思います。
師走ともいう歳末、何かと気忙しい日々を送ってしまいます
特にこの時期は、忙しさのあまりついつい自分を見失いがちになりますが、今年もこの短冊に自分を見失いかけていることに気づかせていただきました。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 05:48 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記 |
2018-12-03 Mon
三春城下新町の歴史的背景(成り立ち)とかつての様子
寛永5年に『松下』氏が三春城主になり、17年の間三春領内を治めます。
この時に城の普請にも力を入れ、三春城が一番荘厳で、この時代の町割りでは現在の新町は『足軽町』といわれていました。
その後、新南町と変わり、江戸後期の秋田藩藩政下で現在の"新町” となりました。
ちなみに、この当時、“新町” という漢字は、現在の荒町に付けられており、"新町(あらまち)” と呼んでいたと考えられます。
また、三春城下のまちづくりは、大町·中町を中心にして、現在の荒町、そして新町へとその整備が進んでいきました。
新町の巻
昔から、山中、新町、清水を総称して、新町と呼んでいた。
山中の名は、田村清顕が、天正年間に大元帥明王社(現田村大元神社)を舞鶴本城から現在の地に移した時、守山の大元帥明王社(現田村大
元神社)の鎮座地名「山中」をそのまま呼ばせたのに始まっている。
山中の入りロ、桜川岸にO家があり、その垣根に狐石というのがあった。
この石に小便をすると、馬鹿されると伝えられていた。
山中から清水にかけては侍屋敷、新町は商家と区分された形だった。
大元帥明王社は三春秋田藩五万石総鎮守で、旧藩時代までは6月14日から3日間の祭典が行われ、藩主催で5万石領挙げていかめしく執行されたという。
真照寺、州伝寺、天沢寺も昔のまま、真照寺の古四王堂毘沙門天、州伝寺の一時地蔵尊、天沢寺の身代り地蔵尊、それぞれの緑日の祭りが賑やかだった。
家畜セリ場は、藩政時代から馬市、そして牛市で栄えたが今はありません。
三春駒の名と共に、江戸時代から売春防止法の実施まで、長期に亘って繁昌した色街旧庚申坂、そして、弓町新地新庚申坂は見る影もなく衰え、僅かに残る格子戸に昔の面影をしのばせている。
新町の町はずれには、化粧坂・庚申坂があり正徳の六地蔵の一体が鎮座しています。
清水の方は、今もいくらか侍屋敷の面影が残っている。
天沢寺下、秋田斎(いつき)5 00石の家老屋敷があったという。
この外、入清水まで、大小の家中屋敷跡が並突んでいるが、家主は大体変ってしまった。
かつての町営プールのある処(現作業所でんでんむし駐車場)は、明治の初め頃までは、田村産馬組合が創立事務所を置いた場所である。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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