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令和元年 三春探検 三春小学校6年生総合的な学習の時間




三春小学校6年生の児童9名が来店しました。

総合学習の時間で「三春探検・三春町マップの作成」での郊外学習です。

三春小学校の学習ビジョンにあるように、皆さん礼儀正しく、元気な挨拶をしてくれました。

三春の伝説を調べている班と、街並や地名を調べている班のご来店でした。


事前学習で、良く調べて来たらしく的確に質問をいただきます。

頼もしい三春健児たちです。







未来を担う子供たちが大人になるための「生きる力」を育んでいくため学びの場には、学校での教育、家庭での教育はもちろんですが、もう一つ地域での教育も重要です。
それぞれの教育の場がそれなりの役目を持っているんだと思っています。

自分が暮らす、地域社会の中で大人や様々な年齢の友人と交流し、様々な生活体験、社会体験、自然体験を豊富に積み重ねることが大切です。


そして、地域に住む、多くの方々が協力・連携・協働することにより、郷土三春の豊かな自然環境や歴史的環境、そして、それぞれの地域で培われてきた暮らしの知恵や文化を、子供たちを通して 次世代に伝えたい。







歴史と伝統のある三春に生きていることに誇りを持ち、未来を担う子供たちに、自らが住み暮らす三春の歴史や培われてきた文化について改めて知ってもい事を願い、このような機会を提供することで、自主独立の精神で三春の先人たちが築き上げてきた地位に対する愛着をより高めてもらいたいと考えています。

私たちは、より良い三春の構築の為に、この先人から受け継いだ三春という宝物を次代へと引き継いでいく当事者として責任を感じています。


三春昭進堂は、そんな願いを込めて学校の活動に積極的に協力する活動を進めています。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 学校支援 |
仙道軍記・岩磐軍記集




仙道軍記・岩磐軍記集

解題

「仙道軍記」は、 藤原氏を祖とする奥州二階堂氏及びその末葉である須加川氏の興亡
を記しているので、一名『藤葉栄衰記』ともいう。

著者も成立年代も不明であるが、国史叢書の編者黒川真道は「本書作者詳ならず、但奥書に〈正徳五乙未八月念八鳥試既毫於奥州山東長沼郷〉と見えたれば、正徳五年の作なることは知られたり。按ずるに本書は、二階堂の創業より筆を起し、同家滅亡に至る迄場の事蹟を恐く記したれば、恐らくは同家の遺臣などの筆に成れるもの歟。姑く記して後考を竢つ」とある。

内容は岩瀬郡須賀川の地に居城を構えた二階堂氏の始末を記したものである。初め二階堂氏は先祖の藤原為綱のとき遠江を受領し、承久の乱に鎌倉に来て評定衆となり、子孫は相ついで鎌倉に居住した。

その後裔式部大輔某は足利持氏に仕え、奥州岩瀬郡を与えられたので、一族の治部大輔某を領国に派遣し、同郡須賀川の地に城郭を構え、これを守らせた。
式部大輔 は嘉吉三年に逝去し、子の遠江守為氏が家を継いだ。
この時、治郎大輔は為氏が幼少なるを侮り、勝手な振舞があったので、為氏はついに須加川に出向いて一族の戦争となった。
治部大輔 は敗れて自害したので、為氏は須賀川に留った。

その後裔盛義は天正九年に逝去したが、跡継がきまらず、盛義の妻が宰領した。

この虚に乗して伊達政宗は奥州南部に侵入し、ついに二階堂氏を滅し、この地を領有したが、天正十九年豊臣秀吉は奥羽を鎮圧して蒲生氏郷を会津に封じ、須賀川を領有きせた。最後は秀吉の死をもって筆を置いている。

戦国期のこの地域の情勢を知る貴重資料である。






「政宗公軍記」は、伊達政宗が奥州に於ける軍事を記したものである。

内容は天正十二年政宗が十八歳で家督を継いで以来、岩代·磐城に進出して、遂に仙道七郡を制覇した次第を記し、最後は、もと二階堂氏の居城であった岩瀬郡須賀川城の石川弾正昭光が政宗に叛いて誅されることで終っている。

「仙道記』は著者も成立年代も不詳である。

内容は天正十年より始まり慶長六年に蒲生秀行が会津に入国まで、仙道(中通り)の各城主のことを中心に、この地方の戦乱を略記し、最後に奥州·会津·相馬三春の各海道及び古城の覚を記している





『蘆名家記』 は著者も成立年代もはきりしないが、慶長の初めに書かれたものと思われる。内容は天正八年、会津の守護芦名氏十六代の盛氏の死去に筆を起し、同十七年に伊達政宗に攻められて減亡、翌十八年の豊臣秀吉による会津没収に及んでいる。
この間、蘆名家の跡継ぎをめぐる家臣団の対立と伊達氏への内応の事情、それをめぐる数々の合戦を記し、戦国期の南奥羽の事情を知る数少い重要な資料である。






『伊達日記』は作者の名をとって「伊達成実記』「伊達成実日記』ともいう。

作は片倉小十郎景綱とならぶ伊達政宗の老臣伊達成実である。

彼は政宗に従って実戦に参加し、自らの見聞と体験とで書いたもので、史料的価値は非常に高く、戦国期の東北地方の情勢を知る根本史料である。
成立は関ヶ原の役のとき徳川家康と結んだ伊達政宗が、石田三成と通じた会津の上杉景勝と休戦して磐城国白石に帰った慶長五年十月で終っているから、これからほど遠くない頃だとみられる。

内容は天正十二年、政宗の襲嫡から始まり、父輝宗の死、相馬.二本松.田村の諸豪族との関係、会津の青名氏の攻略と滅亡、会津の新領主蒲生氏郷との対立、関ヶ原の役のとき会津の上杉氏との抗争など、仙道に於ける争覇が中心となっているが、芦名氏との関係記事は当事者の筆録だけに詳細である。




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| ryuichi | 04:49 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏 |
宮城村海老根 古内館 古内氏



宮城村海老根 古内館

戦国期、三春城主田村氏の時代に宮城村大字海老根(現、郡山市中田町海老根)にあった古内館は、古内肥前守が館主として居ました。

古内氏は、須賀川城主二階堂氏に組していましたが、天正年間の伊達・田村勢による二階堂氏討滅の時に伊達氏の重臣片倉氏に下り、以後片倉氏に仕え片倉氏の所領である白石に居を構えます。


現・仙台竹駒神社はこの古内氏が、屋敷がある海老根の古内にあった稲荷神社を移したと白石にある古内氏墓所の石碑には記されています。




田村郷土史(昭和52年田村郡教育会編集・歴史図書社発行)参照







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| ryuichi | 04:44 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村四十八舘2 |
ダークサイドミステリー「“怪しい歴史”禁断の魔力 あなたもだまされる!?」





ダークサイドミステリー「“怪しい歴史”禁断の魔力 あなたもだまされる!?」


NHKBSプレミアム
6月13日(木) 午後9時00分~ 午後10時00分

NHK・BS3で放送の人気番組「ダークサイドミステリー」

次回6月13日の放送は“怪しい歴史”禁断の魔力 あなたもだまされる!?と題された番組構成となっています。

牛若丸=源義経はモンゴル皇帝チンギス・ハンと同一人物!?
日本古代史がひっくり返る、東北に幻の古代王朝が実在した!?

そんなロマンと魅力あふれる、でも危険で怪しい闇の歴史を、徹底検証!なぜ人は怪しい歴史にだまされるのか?誰がニセ歴史を創るのか?歴史学者を交えて徹底研究となっています。






CMをご覧になった方々は「東日流外三郡誌」の題字が見て取れたかと思います。

『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』は、1940年代後半に青森県五所川原市の和田喜八郎宅で発見された古文書です。
古代における日本の東北地方の知られざる歴史が書かれているとされていた、いわゆる和田家文書を代表する文献です。







「東日流誌」(外三郡誌·内三郡誌ほか)の編纂は、安倍-安東氏の後胤である三春五万五千石七代藩主秋田信濃守倩季(千季)によって企図されたと伝えられる。

秋田家では、天明五年(一七八五)二月十二日、城下に大火災が発生し、三春城をも焼失して、古文書·記録類の一切を焼失します。

後に倩季は、先祖の足跡を調査して、家史の再興をはかったといわれている。

編集者として選ばれたのは、倩季の義理の子 (側室の連れ子)にあたり、当時、出羽国秋田佐竹領土崎湊(秋田県秋田市)日和見山に居住する秋田次郎 橘 孝季であった。

孝季は、睦奥国津軽郡田舎庄飯詰組飯詰村に住む妹婚の和田長三郎吉次にも協力を求め、のちに、津軽の藤井美作、菅江真澄らも参加 して、調査行や分担執筆にあたっている。


資料収集、遺跡調査の旅は、北は松前·蝦夷地 から、南は九州、長崎出島の和蘭陀人居住地にまで及んだとされている。




しかし、学界では偽作説が確実視されており、単に偽作であるだけでなく、古文書学で定義される古文書の様式を持っていないという点でも厳密には古文書と言い難いと言われている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照



放送は、NHKBSプレミアム 6月13日(木) 午後9時00分~ 午後10時00分

さてさて、どんな番組になるのか?楽しみです!




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| ryuichi | 04:47 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
梅雨入り・真照寺 令和元年 





この時期、爽やかな風に招かれるように参道を抜け山門をから真照寺山内に入ります。

三春藩主祈願所という経歴から真照寺の寺領は、三春城下で昔から一番清い場所に建てられたと考えています。







ご本尊が不動明王ということで、かつては水が沢山沸いていたんだろうと思います。


今も、本堂裏手にある方丈庭園の水芭蕉群生地や回遊式方丈池などには綺麗な湧き水があり、鯉が元気に泳いでいます。








また、三春城下は山間の谷間にありますので、真照寺山内は、夏でも時折涼やかな風流れ込んできます。


山内には、紅枝垂れ桜の老木「蒼龍」や大銀杏、そして大杉など、300年以上も木も同じ場所に植わっています。

目には見えませんが地下には、木の根がびっしりはりめぐらされているのだと思います。






木の根の保水力は高く、木の根自体も当然水分を多く蓄えています。

しかもその水分が常に循環しています。 





このような効果もあって、地面が冷やされて、空気もひんやりとするのだと思っています。

もちろん、マイナスイオンもたっぷりと漂っているんだろうな~。







また、周囲を原生林や竹林に囲まれた中にあり、水脈や風の通り方、色んな目に見えないものがあるのかもしれません。

昔の三春人はそういう事も分かっいてこの場所を選んだのでしょうね。








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| ryuichi | 04:06 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主秋田家祈願所 真照寺::祈願所の四季 |
「幸せを運ぶ男」  高田エージ デビュー40周年記念ツアーライブ IN 令和元年 三春城下馬場の湯温泉「若松屋旅館」



「幸せを運ぶ男」  高田エージ デビュー40周年記念ツアーライブ

IN 令和元年 三春城下馬場の湯温泉「若松屋旅館」







毎度おなじみ、会津高田から参戦のギタリスト真鍋伸さんと、仁井田酒造女将でピアニスト仁井田真樹さんとで『三春トリオ』結成してのスペシャルライブ!


勝手知ったる~のライブです。

一曲目からマックスハイテンション!

各々十二分に楽しんでいました。







仁井田酒造でカンパーイ!









エージさんは、1994年、シャイ&ムーニー+エージ&テツ「ア・ラ・カペラ」ツアーの、郡山のライブで、泊りに来て以来、ライブもやるようになって、ソロになってからも、毎年、必ず訪れて早25年だそうです!


素晴らしい演奏に盛り上がりまくりライブでした。
素敵な夜でした。










毎回の大変な盛り上がりでの記念撮影!






「うちの庭は富士山を借景にしているのよ」という毎回御殿場から参戦されている素敵な叔江ちゃんとちゃっかり~記念撮影!






鎌倉八景で「焼鳥番長」を営む井場さんと城下北町の神くん


井場さんの経歴は実に面白いんです。

釣りバカ日誌で浜ちゃんがよく利用する釣り船や船頭をしていたそうです。

それから、浅草の屋形船の船頭、そして~現在の焼鳥屋さん!


先にも真鯛をご相伴にあずかりましたがこれが旨いのなんのって・・・・さすが元釣り船の船頭兼料理人!











三春城下のイベント・エージェント&プロモーター ”MAKUTA”

三春のミュージックシーンを引っ張って行ってくれます!


また、よろしくお願いいたします。








ちょうどこの日は、孫の豪栄道くん(スタッフの息子さんです(笑))を幼稚園に迎えに行って、そのまま一緒に遊んでいました。


真照寺の山内の整備工事が磐梯造園さんが行っていましたので、シャベルカーに乗せてもらってご満悦です!






ついでに、若松屋さんまでお母さんに送ってもらいながら、久しぶりに一緒にお風呂に入ってきました。








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| ryuichi | 05:04 | comments (x) | trackback (x) | 🌸若松屋コンサート! |
令和元年 塵壺6月号「三春牛頭天王碑」旧三春畜産協同組合 ~三春城下真照寺山内




「三春牛頭天王碑」旧三春畜産協同組合 ~三春城下真照寺山内


子供のころ、旧三春家畜市場では2か月に一度家畜の競り市が行われていました。

私の記憶には牛の競り市しかありませんが、本来は農耕馬や軍馬の競り市でした。

この頃、当三春昭進堂では競り市に来る畜産農家の方々に向けたお土産として“おたりまんじゅう”や“大福”そして“ゆべし”等々が喜ばれ文字通り飛ぶように売れていたようです。ありがとうございました。

また、昼時は普段は餡子を煮る鍋で作った、スルメで出汁をとり油揚げやさつま揚げ、そして竹輪などの練り物だけの特性醤油“おでん”や三角油あげの入った“キツネうどん”(後に新発売のペヤングヌードルが大人気となる!)が好評で、家中のいたる所が食堂と化して足の踏み場もないくらいのお客様であふれていたことが思い出されます。





そのセリ市場の入り口付近に「三春牛頭天王碑」と刻まれた石柱が立っていました。


牛頭天王とは、インド祇園精舎の守護神で日本に伝わってきた時に薬師如来・素盞鳴尊(すさのおのみこと)と同一視されたため、牛頭天王やその子の八王子権現は疫病退散を司り、“疫病消除”、“除災招福”、“出世開運”の仏様として信仰されて日本中に広まりました。





そのため旧三春畜産協同組合が昭和26年に三春方部家畜飼養農家一同の畜産振興と牛体守護、家内繁盛並びに五穀豊穣等を祈願、家畜に対する報恩感謝の拠り所として、“竹寺”の愛称で親しまれている埼玉県飯能市旧吾野村にある医王山薬寿院八王寺の御本尊「牛頭天王」の御分霊を、三春城下新町にある旧三春藩主祈願所である真照寺様、そして檀家の皆様の特別なるご協力を頂いて山内の一部に奉安しました。







竹寺での例祭は旧暦6月20日ですが、三春牛頭天王の御神体をお祀りするお堂の落慶式が11月6日に挙行されたために同日を例大祭日と定めて、以後、真照寺様によって毎年、祈願護摩祈祷により挙行しておりました。

牛頭天王堂を、奉安した当時は娯楽らしいものは全く無く、各地において素人演芸会が流行致し開催されており、弁当又は家で出来る御馳走を作り一家総出で観に行ったものでした。



牛頭天王祭にも祭の盛会の為余興として素人演芸会を開催、当時の市場北側に舞台を掛け(職員が何日もかかって作り)、出演者は各地区に割当て出演して頂き、年々盛大になりました。当時は交通事情が不便だった為、福島交通(県南バス)が臨時バスを運行する程の賑いでした。







この演芸会は三春町の皆さんは勿論、近郷近在よりの牛頭天王参拝と演芸参観で会場はあふれんばかりで、舞台での演劇などの時に、あまり観客が多すぎて、土手に登ってみたと伝わっています。

そして、子羊、小豚、鶏等が目玉賞品だったようです。

この大盛会を極めた素人演芸会も、様々な娯楽等が現れて約十10年位で幕が下ろされました。


其の後の例大祭は、関係者と一般参拝者の簡素な祭礼となっておりましたが、昭和50年代の三春牛造成計画と併せて、三春和牛研究会の発足(後に三春和牛推進組合より、あぶくま和牛育種組合と改変)により、例大祭の併催行事として、半日が研究会、講演会を催すようになります。

当時は、肉用牛の改良について畜産組合員の皆々様が大変熱心だった為、センターが満席となる出席者でした。






年々大盛会に開催されて、特に三春牛造成計画による肉用牛改良には故宇佐見登先生、外諸先生方々、又組合員皆々様の御協力により、例大祭、研究会等も大盛会でした。

三春畜協より各JAへの業務移管により、平成七年を以て、三春畜産組合による例大祭は終了となりました。

現在は、真照寺山内にあった社殿は解体されその跡地にはセリ市場の入り口に祀られていた「三春牛頭天王」の石碑が移設され田村地方の牛及び畜産農家の皆様の健康を見守っています。
 
 三春畜産協同組合史参照







       蒼龍謹白   さすけねぇぞい三春! 拝 


| ryuichi | 04:38 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |