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塵壺355号「田村大元神社随身門の彫刻」文中、彫刻の作者の名前が伊藤光運となっていますが伊東光運誤りです。
塵壺355号 
「田村大元神社随身門の彫刻」

文中、彫刻の作者の名前が伊藤光運となっていますが伊東光運の表記の誤りです。

訂正いたします。



| ryuichi | 18:44 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
 塵壺355号 「田村大元神社随身門(明王さまの仁王門)の彫刻」 令和3年2月発行
 



  田村大元神社随身門(明王さまの仁王門)の彫刻
 
今年は新型コロナウイルス感染拡大防止の影響により、正月三が日を外した初詣のお陰で、ゆっくりと詣でることが出来ました。その折に久しぶりに荘厳な彫刻の施された随身門をじっくりと眺めてきました。





 現在の田村大元神社の随身門(ずいしんもん)は、三春藩領内総鎮守大元帥明王社(現田村大元神社)の仁王門として幕末の慶応四年(明治元年)に建築された「八脚楼門」総けやき造りの神社外郭の大門です。









 今でも「明王さま」(訛ってミオさま)と呼ばれる田村大元神社は、戦国期の三春田村氏時代から江戸期の秋田氏藩政下まで、仏教・外敵を駆逐し国を守護する大元帥明王を御本尊としてお祀りする三春藩の領内総鎮社で、三春五万石領民の崇敬を受けてきました。

 しかし、神仏混淆(しんぶつこんこう)の大元帥明王は、明治維新後の神仏分離、廃仏毀釈の影響により、明治二年に本殿、拝殿ともに取り壊され、仁王門と中に納まる仁王像の二尊も廃棄の憂き目にあいます。

以後、御祭神も国常立命に代わり、名称も田村大元神社へ改変され仁王門も随身門となっています。





 慶応4年竣工の仁王門自体は竣工間もない新築なので、そのまま「随身門」として残され、仁王様の二尊は、元々明王社別当(管理官)の三春藩主祈願所真照寺に移され、本堂正面の軒下に仮遷宮していました。

 時代は下って、“真照寺の仁王さま”と親しまれていたこの仁王様は、太平洋戦争後の信仰の自由解放に伴って“神仏混淆の禁”も解けたこともあり、昭和43年に三春城下の新町の氏子信徒の熱望と文化財保護の施策とが実を結んで、田村大元神社随身門(仁王門)への帰還の運びとなり“平成の修復”を経て現在のお姿となっています。

 本来、随身門とは、神様・神社を守る守護神として武官姿の随身像(守護神像)を左右に安置し祀った総門のことで、上記の理由から随身像は、拝殿側に遷宮され、拝殿から見て左側が豊磐間戸命(とよいわどのみこと)、右側が奇磐間戸命(くしいわまどのみこと)で、俗に矢大神(やだいじん)・左大神(さだいじん)と呼ばれる随身木造像が鎮座されています。

 随身(ずいじん)とは、御随身(みずいじん)と称し、平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことです。






境内入口の正面の欄間には、二尊の龍が勇ましい姿で彫られています。

自分の名前に龍の文字がついているものですから、幼き頃よりこの龍たちには特に親しみがあります。







 そして、仁王様が納まる正面左側には「麒麟が行く」でお馴染みの「麒麟」が二躯。

麒麟は中国の想像上の動物です。麒は雄、麟は雌とも言われています。

聖人が出現する前兆として現れるといわれ、麒麟児などと示されるように、文字の意には才能があるという事。






同じく、右側には唐獅子の二躯が和毬と戯れています。

唐獅子とは、百獣の王と言われ、魔除けや護獣を意味します。






 また、入口正面の梁と柱の結合部にある左右には「龍」の姿が・・・左右対称に設えられ口の開閉となれば「阿吽ノ龍」ということでしょうか?










 この「阿」「吽」とは、仏教の輪廻的な意味では、人は生まれたときに“あ”と口を開いて生まれるといい、亡くなるときには“うん”と満足して逝くといわれています。
即ち、生きるということは全て修行であり、一生懸命生きなさいという“命の大切さ”を説いているとされています。






  随身門を入り、奇磐間戸命像の上には「海人(あま)」が彫られた欄間が納まっています。

 物語は、讃岐国(現在の香川県)志度の浦の海人(海女)が、藤原不比等と契って生んだ我が子(房前)を世に出すため、命を捨てて竜宮から宝珠を取り戻したという伝説で、龍女の姿で現れた母の亡霊を、「法華経」の功徳で成仏したことを表しています。
 
我が子の立身のために、死地におもむく深大な母性愛、女性の強さを壮烈に描いた物語です。




 

 同じく豊磐間戸命像上の欄間には、三国志で王佐の才をふるい劉邦を皇帝にした中国漢の国の名軍師「張良」の彫刻です。

 張良が、漢の高祖の臣張良が黄石公の落とした沓をささげて真心を示し、その兵法の奥義を授かるという故事で、この欄間には馬に乗った黄石公、張良は沓を持って龍に乗って追いかける姿が彫られています。





 
これら作者は、伊東光運と伝えられていますが、一説には芹ケ沢の西尾官吉だともいわれます。
 
光運指揮の元で、官吉も一緒に彫刻に取り組んだのかもしれません。

光運は、石森の人で久我之助観吾と称し、父は観正院の法印でした。

木工に秀で、三春大神宮の神馬や田村大元神社本殿・拝殿彫刻等の作品も残っています。







  蒼龍謹白  疫病退散祈願 With三春城下 さすけねぇぞい三春! 拝







◎ 「真照寺節分会」 三春藩主秋田家祈願所真照寺

 令和3年(2021年)は、節分の日が2月2日になります。
 真照寺節分会ですが、新型コロナウイルス拡大防止の観点から「節分会豆まき」は中止となります。
 当日は、事前申し込みによる所願成就の護摩焚きの御祈祷とお札受けのみとなります。

 ※節分の日が、この2日になるのは明治30年(1897)2月2日以来124年ぶりだそうです。

 商売繁盛、厄払い、合格祈願、コロナ退散等々の所願成就の祈祷は、三千円、五千円、一万円などから受け付けています。
前日までに申し込みください。

 尚、今年の初寅は2月23日(火・天皇誕生日)となります。こちらも飲食を伴う直会を取りやめて、コロナ対策を取っての事前申し込みによる所願成就、コロナ退散等の護摩焚き御祈祷とお札受けのみとなります。

問い合わせ・申し込み 真照寺0247-62-2705







| ryuichi | 04:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
三春小学校 第3学年総合的な学習の時間 「町の人から教わろう」令3年                令和3年2月26日 於三春小学校
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三春小学校 第3学年総合的な学習の時間 「町の人から教わろう」令3年
              
令和3年2月26日 於三春小学校


「日本の唯一の資源は人であり、
人を育てるのは教育しかない」                         
                          司馬遼太郎著 「坂の上の雲」のあとがきより


母校である三春小学校の第3学年の授業である総合的な学習の時間 「町の人から教わろう」の特別講師としてお話をしてまいりました。



私たちが子供の頃、三春の先輩方から様々なことを教えていただき学んできました。

昔から三春人は、教育・人間育成ということには驚くほどの力の入れようでした。
 
私たち三春昭進堂も、お菓子を通してこれに少しでも貢献したいと思っています。

そして、次代を担う若い人々が夢を持ち働くということは、社会や人と大きく関わり、つながっていくことだと実感してほしいと願っています。

この講話などの学校への協力は、上記の先輩の皆様方への恩返し、そして、後輩へと継承する三春の教育を少しでも果たしたいと考えています。

未来を担う、三春の後輩たちの”学び”に、少しでもお役に立てればいいなあと思います。


もう一つ、学校への協力の根拠を挙げるならば、古の三春町教育委員会のスローガンだった「子どもたちが三春で学んだことを誇らしげに語れる教育」という言葉が大好きということかもしれません。

さらに、あえて、蛇足的にこの語に対する注約を加えさせていただきます。

下記は、昭和14年、後々連合艦隊司令長官山本五十六が母校の長岡高等学校で講演での終わりの言葉です。

「私は諸君に対し銃をとって第一線に立てとは決して申しません。
あなた方に希望するところは学問を飽くまで静かな平らかな心を持って勉強し将来発展の基礎をつくって頂きたいと熱望する次第であります。
どこまでも気を広く持ち 高遠なる所に目標をおいて日本のため進んでくださいますようお願いします。」





今年は新型コロナウイルス感染拡大防止の対応策として2クラスそのままにて2回に分けてお話をしてまいりました。


もちろん、ソーシャルディスタンス、定期換気、手洗い、マスク着用です。






今回は、怖い伝説を中心にお話ししました。

幽霊や心霊といった怪談、怖い話などのほとんどが、目に見えないものへの恐怖・怖いという人間(自分自身)が創造・作り出したものがほとんどです。

また、神様や仏様など目に見えないもののですが畏敬の念と知って恐れを知り敬うことも大事です。

これらはすべて自分自身の心の中にあるものです。

インターネットやSNSなどで情報が氾濫している時代です。

中には嘘や紛らわしい事、うわさ話などが溢れています。

先の東日本震災による原発事故や、昨今のコロナ感染者のゴシップ等でも含まれていると思います。

心で話を聞くと云いますが、正確な情報を基に自分の心でも物事を判断していきましょう。








三春昭進堂のこと

三春は滝桜のお陰で毎年春には日本中、世界中から脚光を浴びる 最大のトップ営業マン「滝桜」

足元を見る 自分自身を顧みる 自分の足元=三春 


塵壺 平成3年より発行 
・支店やテナントを出すより経費が安い 
・三春にお客さんを呼びたい

平成版三春物見遊山 三春の宣伝!
ホームページ 三春9割  全国に発信!
三春(ロマンチックな名前)、瀧桜 全国区の地名 三春の饅頭屋 

挨拶や懇親会 お国自慢 自分の出身地を背負って 社会で活躍!
初めての人は、その人をフィルターとして三春を見ます。

胸を張って三春の歴史や長所 伝える    

三春という小さな町 少し目立つことをするとメディアに採り上げてもらえる
車社会 県中 郡山33万人 近い 強味  


・三春小学校 四代目 おたりまんじゅう 四季折々の商品 
・桜餅・鶯餅 いちご大福 花見団子 柏餅 水まんじゅう 栗大福 豆大福 
・歳時 お彼岸 お盆 ひな祭り 五月節句 お月見 七五三 入学式 卒業式 土用






三春城下の歴史のこと

 三春城下の成り立ちは、室町後期の永正元年(1504年)に田村義顕が守山城から移り現在の場所に三春城を築城したのが始まりと言われ、初代義顕、2代隆顕、3代清顕の三世代が三春領を治めます。
義顕の三春城築城時に城を中心として北方位を北町、南方位を南町とします。現荒町は築城の町割りの時に新設した町ということで新町(あらまち)としました。
 中町と下大町は、後の蒲生代官時代に新設されています。

・お城山 太鼓堂(中町愛宕神社参道へ移転) 鐘撞堂 (田村大元神社三の丸)
・三春城主秋田家慰霊碑 戊辰戦争殉職者慰霊碑
・上校庭 お殿様御殿  下校庭 マホラ 中央大町 奉行所や役場
・歴民下 講所・明徳門 学校
・護国神社

・北町・南町 お城を境に
・天神口・天神橋 とうりゃんせ♪・防火用の池 池之端稲荷
・お城山への道 亀井坂・天神坂・三部坂
・月斎舘 100歳 天才軍師「畑にじ縛り 田にひりも 陣場に月斎」嫌いなもの
・御旗町 足軽 ・内藤醤油
・加藤木直親 三春藩柔術師範平藩 
・次男重親 もしもし 三男富造(勝沼)ハワイ移民の父

・八幡町・八幡神社 お城から移転 安部安東秋田氏由来
・丈六焼き 丈六佛 90センチ  八幡様の化身追いはぎ商人 灯籠
・三春大神宮 土砂崩れ 三春城下総鎮守 松尾神社・甲子神社・橋本神社






八島川小滝の怪談(旧小浜海道)。
八雲団地(旧三春病院)を通って、御祭に通じています。そこから右に別れ、八島川沿いに南成田へ向かって少し行った辺りの川には、急に坂道となり、右手に巨岩が重なり小さな滝となり、その間を清流のせせらぎが音を立てている。

旧藩時代には、このあたりの農家の水車小屋があって、谷間一帯には老松雑木が繁り、藤や蔦がはびこり、絶好な狐や狸の棲み処となっていました。

いつの頃か、どこから来たのか、ここに老いた女乞食が棲みつくようになりました。
日中は農家を回って物を乞い、夜になるとこの水車小屋で寝泊まりしていたそうです。

この老婆が、時には持病の癪(しゃく)をお越し、飲まず食わずで寝込むことがありました。
紅葉が美しかったある秋の事、その紅葉林の中で老婆は亡くなっていた。
見つけた村人達は、その亡骸を後日無縁仏として丁寧に埋葬して、冥福を祈りました。

ところが、その後、夜更けにあの道を通る人は、老婆の呼びかけるしわがれた声を聴くという噂が広り、村人たちは、決して夜更けにあの道を通らなかった。

程を経て、村の人たちは相談して、水車を壊し、老婆の首を吊った木を切り倒して、後生を弔いました。
古い広報三春のコラム「怪奇伝説」参照
暗くなったり、大雨などの視界の利かない時には、川に落ちたら危険なので、近くによってはいけないという危機回避の教訓話






・中町福聚寺 戦国時代日和田八丁目
・本陣 秀吉の時代 近江松阪武将・商人 蒲生時代
・愛宕神社 火消 近江の蒲生時代か? 太鼓堂 西福寺庚申 
・秋田旗本五千石 清水寺田村公京都清水寺 田村麻呂田村堂 秋田阿弖流為 

・荒町本通り西側の山手には、法蔵寺、高乾院、光善寺、龍穏院、華正院、馬頭観音等が立ち並び、寺町を形成していました。

この場合、当時の町屋の者はその行列に遠慮して、通り過ぎるのを待って墓参に行く有様で難儀をしていました。
 今に伝わるお盆の墓参が、武士は12日、町屋は13日と決めたのも、
・荒町口から入る城下への街道は本宮口と小浜海道口がありました。

・大町山三伊賀屋渡辺商店 伊賀・武将の商人 カネイ 
・王子神社 おっしゃま 星信仰 百杯宴碑 川前紫渓 
・浪岡家(秋田) 北畠親房 荒木家 明智 細川家 
・紫雲寺 腹切梅 化け猫 秋田家猫塚 枝垂れ桜 真照寺 弘法・興教大師

・田村大元神社 三春藩五万石領内総鎮守 三春城三の丸 泰平寺 学頭坊 10修験
・大元帥明王 社 元寇 真照寺 別当 廃仏毀釈 阿吽仁王像 昭和30年代

「腹切り梅」
亡くなった広季の守役だった滋野は責めを負い切腹を申し渡されます。
その切腹場の紫雲寺に現れた滋野の飼い猫。滋野は「主人の代わりに怨霊となり、この恨みを晴らせ」と言い残し猫の首を斬り自らも切腹して果てます。その血に染められた傍らにあった白梅は、以来紅梅になったという。







「三春化け猫騒動」のこと

事件後、荒木玄蕃や藩主頼季の夢枕に毎夜猫の怨霊が現れるようになったと言うもので、以来、三春城下の大火の度に猫の怨霊が火を点けてながら駆け回ったと噂話になり、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。







三春郊外、貝山の泉沢に「御下屋敷」とよばれる荒木玄蕃の屋敷跡があります。

荒木は、幼君を亡きものと企む中で御殿医三宅良庵と老女鳴瀬とを巻き込み、朝の食事に一服盛り、幼君を毒殺したと伝えられています。
 その朝、荒木はこの下屋敷にあって舟形の大きな石を西方村の大滝根川から運ばせている最中でした。もう少しで庭に入るという時に、幼君急死の報せが本城からもたらされたので、悲しみを装って急ぎ登城したといいます。

 その後、“腹切り梅伝説”の忠臣滋野多兵衛の亡霊譚の下りとなりますが、荒木は御城下の上屋敷には居たたまれず、この下屋敷に逃れ大きな番犬数等と警固の武士を配して引き籠ったとされます。

 このとき西方村より運んだ舟形の庭石は、これも滋野の亡霊の祟りで、その後いくら手を尽くしても微動だにせず、庭外に放置されたまま伝説を秘めて風雨にさらされています。 
     


・新町
田村大元神社 三春藩領内総鎮守 五万 
旧田村領田村六十六郷(田村庄)と小野六郷(小野保)福原村で構成され、(10万石以上で131ヶ村)地侍・惣領である当主を中心にした田村武士団一族郎党の総称です。
江戸期の秋田藩政下では81ヶ村。 
田村三代清顕の生首が飛ぶ 卯の刻参り 世情不安 噂~ コロナ禍 

天澤寺 松下時代 会下谷 殿様を注意 焼き討ち
安寿と厨子王 磐城の国
天澤寺山内 「身代わり地蔵尊」

安寿と厨子王の祖母が、三春城下に居たと伝えられて、その子孫がこのお堂を建立して身代わり地蔵尊を安置しました。
 
物語は、奥州岩城の国主平将門の子孫で、相馬藩相馬氏と縁のある岩城政道。
ある時、家臣である村岡の陰謀によって父正道が無実の罪を着せられ西国に流罪となります。この政道が、安寿と厨子王の父親です。
安寿と厨子王、母、乳母の4人は、朝廷に無実を訴えようと京へ向かいますが、越後の直江津にたどり着いた一行は、人買いにだまされ、安寿と厨子王が丹後に、母と乳母は佐渡に売られてしまいます。

 丹後の由良で"山椒太夫"に買い取られた2人は、つらい労働を強いられます。
安寿は、弟の厨子王を密かに逃がしますが、ひどい拷問の末に命を落とします。

一方、厨子王は姉から渡された地蔵菩薩の霊験により身を守られ、無事京都にたどり着きます。後に、父の無実が晴らされ国守に再任された厨子王は、長い苦難の末、母と再会するというお話ですが、お話の中に2人の災難を身代わりとなって救うお地蔵さまが出てきます。

それは、安寿と厨子王が山椒太夫の屋敷で仕置きを受け、やけどを負ったときのこと。母から預かった家宝の地蔵尊像に祈りを捧げると、不思議や痛みや傷は消えたそうですが、その代りこのお地蔵さまにやけどの傷があったと伝えられています。


この話に出てくる地蔵尊像が、天澤寺境内「身代わり地蔵尊」です。
 





真照寺
 「三春化け猫騒動」
事件後、荒木玄蕃や藩主頼季の夢枕に毎夜猫の怨霊が現れるようになったと言うもので、以来、三春城下の大火の度に猫の怨霊が火を点けてながら駆け回ったと噂話になり、昭和のはじめ頃まで大火の度に囁かれたといいます。


須弥壇左右に鎮座する「弘法大師木造座像」と「興教大師木造座像」です。

天明の凶作や天明5年の大火による城下町の焼失後も猫(滋野)の怨霊に夜毎苦しめられた三春藩4代藩主頼季の孫である7代藩主倩季公が、この木像の胎内に滋野多兵衛の位牌を入れて祈願所である真照寺に納めて、その怨霊を鎮めたと伝わる木像です。

この弘法大師と興教両大師木像は、木像安置の70年前に起こった「正徳・享保事件」そして「腹切り梅」「三春化け猫騒動」と呼ばれる、三春に伝わる古い伝説が付随しています。
 
三春御家騒動・正徳、享保事件と「三春猫騒動」
 
 三春藩主継嗣問題に端を発し、「三春猫騒動」にまつわる正徳事件と、家老荒木玄蕃高村
および四代藩主秋田頼季(玄蕃の子)の閉門を中心とした享保事件は、徳川幕府幕閣から、町方まで巻き込こんだ御家騒動といわれます。
 
正徳事件・「三春猫騒動」・当時、家老荒木内匠は、世継ぎとなりうる幼君を亡き者とし、我が子を藩主に据え藩の実権を握ろう企んでいました。
しかし、幼君の傳役滋野多兵衛にその野望を阻まれた、やがて滋野は荒木によって無実の罪をきせられ、大町紫雲寺の境内、白梅の木の下で切腹させられ、傍らにいた猫が怨霊と化し、間もなく野望を果たした荒木に祟るようになったと云います。
今も紫雲寺に、残る滋野多兵衛の墓には、猫の怨霊に苦しめられた荒木が、槍で突いたという傷がのこっています、又境内の白梅は紅梅に変わり、猫の怨霊は、約七十年後の「天明の大火」の時再び登場する。

享保事件は、家臣団の勢力争い・対立の末、幕府老中同士の対立を呼び、その政治紛争で負けた、荒木玄蕃高村の蟄居と、その子である、藩主秋田頼季の閉門により、正徳の事件より約八年続いた、御家騒動は、幕閣の介入により幕をとじました。
 
天明五年二月、八幡町より火の手が上がり荒町、高乾院・荒木家の墓を焼払い、北町を駆け下り、舞鶴城天守を炎上させました、その後も火の勢いは衰えず、大町から南町そして新町へと軒並み家屋を灰にしていきました。

消火指揮に出向いた、時の藩主秋田千季(荒木玄蕃の孫)の避難所・真照寺へ追うかの様に火は、勢いを増し南町,山中、新町へと向かった
 
真照寺住職が門前まで迎えに出たところ、殿様の後ろに猫の怨霊が見え、袈裟の袂で殿をかばい隠すようにして寺へ向かい入れました。
火勢は、ちょうどその場所・今の昭進堂の場所で、三春全域を焼き尽くした火災は、鎮火したと伝えられています。

この大火後も猫(滋野)の怨霊に夜毎魘された千季公は、真照寺へ、弘法・興教両大師像の中に紫雲寺で切腹した滋野多兵衛の位牌を入れて納め、怨霊を鎮めたといいま


  




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:53 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::地域貢献 学校支援 |
令和2年度食品衛生指導員養成講座を受講してまいりました。




令和2年度食品衛生指導員養成講座を受講してまいりました。


公益法人「福島県食品衛生協会」の主催です。



三春食品衛生組合から推薦を受けての受講です。


郡山ビックパレットにて、9時半〜15時半まで。

しかも、昼休憩約27分〜というハードなスケジュールです。






そろそろと云われながら、この日を迎えました。


日本に於いて「衛生」という語を創設し公的医療の普及に努め、公的衛生制度の定着展の最大功者である幕末の肥前大村藩出身の医師 長与 専斎(ながよせんさい)に思いを馳せ、食品衛生への新たな衛生管理に目覚めたしたいです~





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 04:46 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記 |
本日火曜日は定休日となります。マスクをうっかり忘れた方に使っていただきたく用意してみました。




本日火曜日は定休日となります。


またのご来店をお待ちしています。







店内に、マスクをご用意いたしました。


マスクをうっかり忘れた方に使っていただきたく用意してみました。




コロナ感染症対策の一環です。


ご協力をお願いいたします。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:11 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
「太閤検地(たいこうけんち)」の阿久津村検知帖を拝見!




豊臣秀吉が実施した文禄検知、いわゆる「太閤検地(たいこうけんち)」の阿久津村検知帖を拝見しました。

三春城主平姓三春田村氏の軍師として名を馳せた田村月斎入道顕頼の六男で、田村(阿久津)右京亮顕義の子孫となる阿久津様に、ご来店いただきお話を伺いました。





阿久津様は、福聚寺住職橋本宗久(玄侑宗久)さんに預かったと、先の郡山美術館で催された収蔵品展のパンフレットを持参していただきました。







そこには宗久さんが講演された戦国期の画僧雪村の記述「雪村庵と福聚寺」があり興味深く拝読させていただきました。








ご来店の折に、私は、阿久津舘主の阿久津の子孫で~ということでお話を伺っているうちに太閤検地の帳面を拝見させていただきました。







小字名の漢字の横に平仮名やカタカナでフリガナが記されているのが見えます。







阿久津村は、元禄期より磐城守山藩の所領です。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 05:22 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村四十八舘1 |
柚子をいただきました。




中妻の清水田様より柚子をいただきました。


店内にはいしてありますので一人一個くらいでご自由にお持ちください。






寒い日のお料理に、ちょっと添えれば味わいにも深みが増します。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 05:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |